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ラカンの精神分析学と仏教

ジャック・ラカンはフロイト以降で最も重要な精神分析家であり、言語学的、構造主義的な観点からフロイトの理論を解釈し、深化させた人物と言われています。
また、彼は、思想界、哲学界にも大きな影響を与えています。

ラカンの精神分析学には、禅や仏教と共通点があると指摘されることがあります。

実際、ラカン自身が、サンタンヌ病院で始めた有名な「セミネール」の第1回開講の挨拶の中で禅の教説を引用しました。
また、彼は、初来日した講演で、仏教の本質について触れ、観音が「対象a」(ラカンの精神分析学の最重要タームの一つ、後述を参照)であるとの解釈を語りました。

ラカンの仏教に対する関心は、弟子にも継承されているようで、ラカン派の小林芳樹が、ラカンの後継者的存在であるアラン・ミレールと初対面した時に、道元の「正法眼蔵」を読んだかと尋ねられたそうです。

ラカンの精神分析学は、難解なことで有名で、専門家でない者が理解することは困難ですし、私はごく初歩的な理解しか持っていません。

ですが、ラカンと禅や仏教との共通点について総説的に書かれた文章を読んだことがないので、敢えて、このテーマで書いてみます。

この短い文章で、ラカンの精神分析学を紹介することは不可能なので、それは目的とせず、仏教との共通点、類似点とその相違点に絞って書きます。


欲望と渇愛


ラカンは初来日時の講演で、仏教の教説の本質を「欲望はまぼろしである」と語りました。
これは正しい認識であり、ラカンの精神分析学との最大の共通点と言って良いでしょう。

仏教はごく初期から(おそらくは釈迦自身が)、苦の原因を、言葉やイメージといった表象(サンニャー、想)の対象が実在すると誤解して、その対象を「渇愛(タンハー)」すること、つまり、欲望することであると説いています。

そして、その対象が無常、あるいは、実体がないことを理解することで、「渇愛」を滅することができると考えます。

このような発想をした釈迦は、古くから、病を持つ者を治療する医者に喩えられてきました。
また、現代の欧米にも、仏教を一種の心理療法として受け止めているという側面があります。

ラカンは、言葉やイメージをまとめて「見せかけ(サンブラン)」と呼びます。

「欲望」は、情動がこの「見せかけ」の対象に向けられることで、事後的に形成されたものでしかありません。

そして、「欲望」を満たすことで得られる「快楽」は、幼児時の最初の満足の記憶の幻想的な再現でしかないので、人は満足をすることはなく、常に何か欠けていると感じます。

精神分析では、自分が「欲望」していると思っていた対象を、実際には必ずしも「欲望」していないことを患者が理解するように導きます。

このように、仏教とラカンの精神分析学では、欲望を幻と考え、そのことを理解することを目指す点で共通しています。

ですが、仏教が「欲望」を滅することを目指すのに対して、ラカンは特定の「欲望」に執着せずに「欲望」を追求することを目指す点では異なるように思われます。

ところが、実際は、それほど単純ではありません。
このことは、最後に扱います。


主体と阿頼耶識


仏教は、「無我説」を説き、「我(私)」が実体として存在しないと考えます。
アートマンとしての「我」を仏教が認めたかどうかについては、諸説があり、複雑な歴史がありますが、一般的な意味での自我は認めません。

仏教の深層心理学である唯識派の八識説では、深層の第七識として、自我への執着を生み出す無意識の「末那識」を立てます。
「末那識」は、さらにその深層にある「阿頼耶識」が作る自我のイメージに同一化します。
「阿頼耶識」は分別的な意識を作り出す無意識の働きです。

ラカンも、「自我」を人が同一化しようとするイメージであり、それによって自分を見失い、幻想に閉じ込めてしまうものであると考えます。

唯識派もラカンも、幻想的な「自我」を自己と見なす無意識的な働きがあるとする点が共通します。

ラカンは、「自我」とは別に、「主体」という概念を立てます。
「主体」は、「現表行為の主体」とも表現され、言語活動も担いますが、それ自体は言葉で表現することはできません。
「主体」は、無意識的に働き、意識が考えていないことを語ることもあり、また、言葉が捉えることができない無形の情動(欲動)に向かうこともあります。

言語活動を担う無意識的な働きがあると考える点で、唯識派とラカンには共通性があります。

また、両者は、人が意識を持った時には、すでに無意識のレベルで言語的に規定されていると考える点でも共通します。

ただ、ラカンは、その無意識の構造は他者の語りによって作られるという「他者性」を強調しますが、唯識派は「阿頼耶識」が過去(過去世)の自分の行動によって作られるという「習慣性」を強調する点で異なります。


精神分析と公案


ラカンが、自分の理論の唯一の理解者と認めていたアラン・ミレールは、ラカンの禅に対する理解を受けて、精神分析における患者の語りは公案の形を取り、精神分析とはひとつの長い公案のようなものであると言います。

ちなみに、ラカン派では患者のことを「分析主体」と呼びますが、これは、患者自身が分析を行う者であることを意味しています。

ミレールによると、患者が自分自身についてうまく語れるようになるにつれ、問題は姿を変え、やがて行き詰まりに出口を開きます。
ラカンはこの出口を「パス」と呼び、これを「悟り」のようなものであると説明しました。

患者が自我の境界、自分自身について語れる境界を越えるのです。

一方、臨済禅では、参禅者に課題として公案が出され、参禅者はその課題について座禅中に思考をめぐらして「悟り」を目指します。
参禅者は、公案を解くために、自分の体験についても吟味し、言語化することにもなります。

臨済禅の最初の段階である「法身」の公案では、問題を論理的につきつめて、袋小路に入った果てに、論理を超えた世界に出て「見性」、つまり、言葉のない「空」の智恵(無分別智)の「悟り」を得ます。

このように、臨済禅での参禅と、精神分析での患者自身の分析には、言葉を通してその外側に出るという共通点があります。

また、分析医は、患者の語りの中で、患者自身は気づいていないけれど、患者の無意識が語っている部分を指し示し、それを分析するように導きます。
それは、患者自身の意識的な物語の外側です。

一方、禅師は、弟子との普段の対話、説法の中で、弟子が気づいていない、弟子の「無心」の心や「無心」で行った行動を指し示し、それを自覚するように導きます。
それは、弟子の意識的な行動の外側です。

このように、分析医と禅師にも、言葉・意識の外側に導く者である点で、共通します。


新たな語りと言栓


ですが、ミレールは、禅が全体との「融合的超越」の方向へ超えていくのに対して、精神分析では自我の境界をさらに大きな「差異」の方向へと超越するのだと言います。
つまり、精神分析では、患者は、新たな自分の物語を語り始めることが必要とされます。

ですが、禅や仏教においても、言葉のない智恵がゴールではなく、新たな語りが求められます。

臨済禅においては、「法身」の後に「言栓」と呼ばれる段階がありますが、これは、「見性」を前提として、言葉を自在に使うことができるようになる段階です。

これは、道元の曹洞禅では、「証悟(入頭)」の後の「出身(仏向上)」に当たります。

また、中観派の般若学では、「空」の智恵である「等引智」の後の「後得智」に当たります。

これらは、限界を突破したところから始まる新たな語りであり、精神分析が求めるものと共通性があります。
また、両者の新たな語りでは、語られる言葉、欲望が真実(勝義)ではないことを理解している点でも共通しています。

ただ、精神分析の語りが、自分の欲望についてであるという限定がある点では異なりますが。


分析医と菩薩


ラカンは最初に来日した時の講演で、仏教の教説である「欲望はまぼろしである」ということを伝える者は、悟りとともに消え去らねばならないと語りました。
つまり、仏は解脱して涅槃に入るということです。

そして、ラカンは、わざわざ如意輪観音(最もセクシーな仏像と言われている)の写真を配って、仏として消え去る直前に、「対象a」としての姿を見せているのが観音であると語りました。

観心寺如意輪観音像

「対象a」は、ラカンの精神分析学における重要タームです。
それは、人が最初に自分の融合的全体性を失った時に、その失ったものを指し示すものとなった対象であり、根源的な欲望の対象です。
具体例としては、「乳房」があります。

分析医は、患者にとって「対象a」とならなくてはならないと考えられています。
分析医は、患者が分析医に求める姿(欲望の対象)を拒否することで「対象a」となります。
そして、患者の「主体」が新たな「対象a」との関係を築き、「欲望」への向き合い方を変えることへ導きます。

つまり、分析医は、患者の物語の外部への出口になります。

菩薩は、涅槃に消え去らず、人間と向き合い、その煩悩からの出口となります。

このように、従来の世界からの出口となる点で、菩薩と分析医には共通性があります。


享楽と大楽


ミレールが言った「融合的超越」は、ラカンの精神分析学においては「享楽」の体験に当たります。
フロイトにまで遡れば、これは「死の欲動」とか「快楽原則の彼岸」、「ニルヴァーナ原理」に当たります。

「欲望」は言葉やイメージといった「見せかけ」の対象を持ち、それを満たして得られるのが「快楽」です。
それに対して、対象を持たない情動である「欲動」を満たして得られるのが「享楽」です。
後者の領域は、「現実界」と呼ばれ、「見せかけ」によって制御できない世界です。

ラカンの精神分析は、「見せかけ」を完全に否定して「享楽」を全面的に享受するのではなく、「欲動」につながる「対象a」との新たな関係を築くこと(これは「幻想の横断」と呼ばれます)を介して「享楽」を求めることを目指します。

このように、精神分析は、新たな「欲望」を求め、さらには「欲望」の外の「享楽」を求めます。

それに対して、仏教は、欲望を全面的に否定することを目指しているように思われています。

確かに、顕教は欲望を捨てることを目指しますが、密教は修行に積極的に欲望や感情を利用します。
そして、「欲望」を言葉や対象と切り離して変容させますし、通常の「快楽」とは異なる「大楽」についても語ります。

「般若経」の流れにある「理趣経」は、「一切法清浄」、「一切法無戯論性」との表現で、愛欲など欲望も、言葉やイメージ(分別)を伴わない状態ならば清浄なものであると主張しました。

これを受けて、密教では、観想(生起次第)の中で、自他が無欲な尊格となり、欲望や感情を日常的なイメージから引き離して、無対象な情動に変容させます。
つまり、対象を持った「欲望」を、対象のない「欲動」に変容させます。

そして、プラーナを制御するヨガ(究竟次第)を通して体験される無対象な「大楽」を利用して、その中で「空」の智恵を獲得します。

このように、精神分析と密教には、同じではありませんが、無対象な「楽」を求めるという点で共通性があります。

ただ、密教は、直接的にそれを体験することも目的とする点で異なります。
観音が「対象a」だとすれば、後期密教の明妃や父母仏の仏母は、その直接的な「欲動」、「享楽」を象徴する存在でしょう。


◆ラカンに関する主要参考書
・「意味の彼方へ」(新宮一成編)掲載の「精神分析経験」(アラン・ミレール)の「三 禅との比較」
・「フロイト=ラカン」(新宮一成、立木康介)中の「仏教とフロイト・ラカン」章
・「ラカン派精神分析入門」(ブルース・フィンク)
・「疾風怒濤精神分析入門」(片岡一竹)


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