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対象との向き合い方を変える瞑想の基礎訓練

私が考えた、対象との向き合い方を変える一連の瞑想法について紹介します。

 これは、人格や価値観を偏らせることなく瞑想を行うための基礎的訓練として考えたものです。

 

1 一点集中

 

瞑想のための時間を取り、楽な姿勢になります。

そして、まず、開眼で目の前の何か(例えばコップでも構いません)を見て、それに集中します。
この時、言葉やイメージを浮かばないようにします。 

つまり、眼の前の「コップ」から気が散らないように、雑念が出ないようにし、「コップ」を見ているという言葉の認識も、「コップ」のイメージも持たないようにして、感覚そのものだけに集中します。

また、私が見ているという感覚も捨て、見ているものに対する感情的な反応も抱かないようにします。

気が散って、雑念が生まれたら、それに気づいて、手放します。
最初は、雑念が多く出ますが、徐々に減っていきます。 

まばたきで気が散るのなら、まばたきをしない方が望ましいです。
涙腺の当たりを刺激して、少しずつ涙が流れるようにすると、まばたきせずにいられます。
最初は大変ですが、慣れるとできるようになります。 

この瞑想の状態を続けていると、対象しか存在せず、対象と一体化したような状態になります。
つまり、今、私が、部屋に座っていて、目の前のコップを見ている…といった意識や認識の構図はなくなります。 

 

ちなみに、この種の瞑想は、一般に「止(サマタ、シャマタ、シネー、カーム・メディテーション)」などと呼ばれます。
ただ、上座部では、観念的なものではなく現実を対象に集中する場合は、「観(ヴィパッサナー)」に向かう瞑想とされます。

仏教では、「止」の深まりの段階を、粗い思考、細かい思考がなくなり、喜・楽がなくなり、最後には一点集中だけの状態になると考えます。

ヨガの八支則では、第6から第8の「凝念(ダラーナ、コンセントレーション)」、「静慮(禅、ディヤーナ、メディテーション)」、「等持(三昧、サマディー、コンテンプレーション)」に当たります。

ですが、基礎訓練としては、高い段階を目指す必要はありません。

 

2 全景を見る

 

次に、開眼、無概念、無イメージ、無主体意識、無感情のまま、一点への集中を解きます。
つまり、見えるもの全体を平等に眺め、聞こえる音、その他の感じられる感覚の全体を平等に意識するようにします。

1の時のように視点を固定することにこだわらなくても構いませんが、「コップ」のような一つの対象物を見ていても、その見ているものを意識せず、視界に見えているもの、感じているものすべてを意識します。

やはり、雑念が生まれると、気づいて捨てます。
見ているもの、感じているものに対する感情的な反応も、起こさないようにします。 

この瞑想の状態を続けていると、世界に境界や部分のない状態、全体が一つの状態、海の中にいるような感じになります。

図と地で言えば、地だけの状態です。
ですが、実際には、時々、地から図が浮かび上がってきては、また、地に戻る状態です。
青い海中の世界から不意に魚が現れて消えていくような。

視覚像、聴覚像、感情、イメージ、言葉など断片が現れますが、認識の枠組みをとっぱらっていれば、それらが論理的・因果的・空間的関係を結ばずに、バラバラなまま、平等に、浮遊して消えていくような状態になります。

仏教の瞑想で言えば、無念無想で「空」の智恵の修習をするのに近い状態でしょう。

 

3 世界から離れる

 

次に、開眼、無概念、無イメージ、無主体意識、無感情のまま、世界のすべてから遠ざかります。
つまり、意識に現れるすべての感覚や言葉、イメージを意識しないようにして、シャットアウトします。

視線は中空の何もないところに定めます。
ですから、依然として、見えているものはあり、聞こえているものもあるのですが、それを意識に入らないようにします。

こうして、一切の対象がない「純粋な意識」だけの状態、自我の意識もなく、意識の存在感覚だけの状態を目指します。

完全に世界を消すのではなく、肉体は世界を感覚しているのですが、自分とはまったく無関係なものと感じるような状態です。

そして、雑念や感情が生まれると、それに気づいて捨てます。
この思考や感情も、外の世界と同様に、自分とはまったく無関係な自然現象だと感じるような状態です。 

この瞑想をしていると、世界や自分を幻のように感じ、本当に存在しているのだろうかと思うようになります。

これはインド哲学で言えば、プルシャやアートマンが他から切り離されて自分自身だけでいる状態に近づくものでしょう。

 

4 感覚世界への一体化

 

次は、逆に、世界に一体化します。

2の「全景を見る」の時に近い状態に戻るのですが、「全景」にこだわらず、感覚の対象を通して世界に入り込み、一体化します。

無概念、無イメージ、無主体意識の状態を基本的としますが、2の時にように、それにこだわりません。

座って行うより、歩きながらの方がベターです。

この状態では、感覚が強調されて、裸の世界を感じ、世界が輝くようになります。
生の感覚の豊かさを感じて、なんとも言えないような喜びを感じます。 

 

5 世界を夢のように感じる

 

次は、世界を感覚そのものとして感じるのではなく、まるで夢の中にいるように感じるようにします。
すべての事物が、何かを表現している象徴のように受け取り、直観やフィーリング、連想を働かせます。

あるいは、過去の体験の記憶の中にいるようで、すべての事物、風景が何度も見たことがあり、そこに多くの体験の記憶が重なっているような、懐かしさを感じるようにします。

つまり、すべての事物が、象徴的な深みへの入口であり、たくさんの体験の記憶への入口になっているかのような状態です。

感情的反応は、抑える必要がなく、生じるまま、変化するままにし、それがさらに連想を働かします。

 

6 両方を同時に体験する

 

最後に、4の「感覚世界への一体化」と5の「世界を夢のように感じる」を同時に体験します。

この2つの状態は方向が異なる体験なのですが、同時に感じることは可能です。
厳密に言えば、同時ではなく、自由に一瞬一瞬に切り替えるような感じかもしれません。

この時、世界は、裸の輝きを放つ姿であると共に、懐かしさと深さを持ったものになります。

 

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