関ヶ原で考える平和。
伯母が「関ケ原」に住んでおります。
歴史にまったく興味のない夫も「関ケ原くらいは知っているぞ!」と言うくらい、日本史上、最も有名な地名のひとつなのではないでしょうか?
義伯父が初夏に亡くなってしまい、お線香を上げに、
実に中学生以来、20年ぶり!?に、関ケ原の伯母宅にお邪魔しました。
(コロナ禍以前は、伯母が本家である私の実家にお盆あわせに来てくれていたため、伯母に会うこと自体は4年ぶり)
関ケ原の街の昔と今
お線香を上げた後、
かねてから予定していた『関ケ原古戦場記念館』を訪れました。
私の両親はすでに1度行っていて、
ここ数年、歴史オタクを化した私にオススメしてくれました。
私自身がNHKの大河ドラマも観るようになったし、
年を取ったこともありますが(まだ30代半ばですが、なにか?)、
まだ頻繁に関ケ原にお邪魔していた幼い頃は、
「関ケ原の合戦」という日本人には知名度ありすぎる歴史的事件があったのにも関わらず、本格的なまちおこしや施設整備はされておらず…。
30年前は、幼い私が楽しめるから…ということで
関ケ原メナードランドという昭和の遺産的な遊園地と、
イチゴ狩りにいった記憶くらいしかありません。
(しかも、そのイチゴ園が、関ケ原の合戦の「決戦地」とされる碑が建つ場所の真ん前だということを知ったのは、ほんの数日前…。壮絶な殺し合いをしていた真上で育ったイチゴを食べていたという、大人になってから受ける衝撃はすさまじい。。。)
話を戻します(笑)
『関ケ原古戦場記念館』はまだ新しく、
歴史的展示物だけでなく、3Dシアターや体験コーナー、
カフェレストランやお土産屋も併設された、まさに今風のミュージアム。
ものすごい量の所蔵品があるわけでもありませんが、
特に歴史好きではない人も楽しめます。
歴史好きそうだな…という小学生の子たちや
コロナ禍も明けたことで、海外からのお客さんも多く見かけられました。
【脱線】グランドデザインの視点で
今、こっそり(?)携わっているまちづくりの観点から見ると、
ハブとなる観光施設と町役場が隣接され、
そこまでJRの駅から徒歩で行けるという立地、
駅は小さいながらも、しっかり戦国時代好きの心をキャッチする演出がされていること、
町に点在する史跡巡りのためにレンタサイクルやサイクリングマップが整備されていること等、
二次交通が活用できる街づくりは強いな…と思いました。
史跡巡り
『関ケ原古戦場記念館』での食事と見学を終えたあとは、
時間の許す限り、史跡巡り。
史跡巡りまでするのは両親含めて初めてなので、私の行きたいところに連れてってもらいました。
私が「ここに行きたい!」と直感で降りてきた史跡は、
大谷吉継の陣跡&墓と、島津義弘の陣跡。
(時間的に史跡エリアの端から端までは行けなかったのもありますが、たまたま直感で「行きたい!」と思ったのがこの2ヶ所。
おそらく人気どころだとは思いますが、自分も例にもれず、固い友情とか敗者の雄姿に心酔するタイプかな。)
マップ持ってるくせに、どちらの場所に着くまで駐車場までの道のりに苦戦しながら(笑)、無事たどり着けました。
大谷吉継に想いをはせる
印象深かったのは、大谷吉継の陣跡と、
そのから百数十メートル離れたところにある「松尾山眺望地」。
まず、陣跡までの道のりは、そこそこの山道でした。
ヒールやパンプスをはいてこなくてよかったです。
いや、でも、戦国武将の身になって考えてみれば、
高台に陣を置いた方が圧倒的有利か…。
ハァハァ言いながら陣跡に辿りつきました。
山道の途中に碑があり、眺望が開けている場所ではありません。
案内板を見ると、そこから墓があるところまでは、さらに300メートル奥…。時間的にも体力的にもチョイきつい…。
案内板によると、陣跡を中心にお墓の反対方向に行くと「松尾山眺望地」があるそうで。
距離は100メートルちょっと。これなら歩ける…。
お墓の方から下りてきた観光ガイドさんと少し言葉を交わすと「少し木が切ったるで眺めはいいよ」ということで、松尾山眺望地に行くことにしました。
陣跡からあまり高低差もなく100メートルほど歩いていくと、ありました!
小早川秀秋が陣を置いた松尾山を望む開けた場所が「松尾山眺望地」。
ここで大谷軍が松尾山や戦場を見守っていたのでしょう。
眺望地の説明看板には、「大谷吉継は小早川が東軍に寝返るとを疑っていた」と書いてあり、その予想はまさに的中。
1万5千もの小早川の大軍が松尾山を下り、こちらに向かってくる絵面を想像すると恐ろしい。
大谷軍の兵士は、この同じ場所で、この同じ風景を見たんだ…。
向こうの山から地響きを鳴らし、一斉に下りてくる小早川の大軍。
この山道を駆け巡り、陣下から登ってくる小早川軍を追い払いながら、殿をお守りする…
そんな兵たちの動きが目の前に見えてくるようです。
実際にあの場所に立ってみないとわき上がってこない、初めての感覚を受けました。
なぜ関ケ原の合戦は起きたのか?
これまで、関ケ原の合戦に対して、
「どうして、全国の諸大名が参戦するような大合戦をしなくてはいけなかったんだろう?」ということが謎でした。
「天下分け目の合戦」と呼ばれているところから、自分の中で
石田三成と徳川家康がどっちも「自分の方が偉くなりたい」などという理由で天下人になりたくてバチバチに争った、という構図が抜けませんでした。
ただ今回、
『関ケ原古戦場記念館』での解説や、
大河ドラマ「どうする家康」での描かれ方を踏まえると、このように考えられるなぁと思ったのです。
※記念館の館長兼監修と、ドラマの時代考証が両方とも小和田哲夫先生であることから、一方的な見方になるかもしれないことをお許しください。
豊臣秀吉の死後、自分の思い描く「戦のない世」を作るためにありとあらゆる手(政略結婚や根回し)を尽くした徳川家康。
豊臣秀頼を中心として安定した世を存続させるために、徳川の独断的な動きが気に入らない石田三成。
新しい秩序を構築することで平和を求めた家康。
今までの秩序を維持することで平和を求めた三成。
どちらも平和な世を願った。
石田三成が仮にあんなに生真面目でなくて、旧体制に執着していなければ、きっと関ケ原の合戦のような全国を二分する大合戦は起こらなかったはず。
でも、大合戦が起こらなかったかわりに、家康がじわじわ新体制を築く中で小さな合戦が各地で起きて、戦国時代がもっと長くなっていたかもしれません。
もしかしたら、関ケ原の合戦は合戦は
旧体制から新体制へ移行するために不可避だった通過点、
「膿出し」のような合戦だったのかもしれない。
旧体制から新体制への過渡期に大きな衝突が起こるのは、歴史上では再現性の高い現象です。
どの時代にも平安な世をを願って行動する人たちがいて、
平安な世までの過渡期に起こった争いで犠牲になった多くの人たちの上に、今の平和は成り立っている。
そんなことを思った、関ヶ原観光でした。
終戦の日によせて
だからと言って、戦争を肯定していいわけはありません。
私利私欲にかられた動機の戦争も世界中にたくさんありましたし、
戦国時代と現代では、明らかにいのちの重さは違います。
だから、私たちは歴史を学ぶのです。
戦争が起こる前の情勢はこうだった。
今の自分がいる世界はどんなかな?
戦前の情勢に似ている?いや、こういう部分は違う。
今、争っている2つの国。
どちらにも、なんからの正義と思い描く平和があること。
相手の平和を非難はできない。
けど、平和を実現する手段は考えなければいけない。
知って、受け入れて、観察して、考えること。
人間の歴史は戦争の歴史と言っても過言ではない。
けど、ひとりひとりの考えや行動が、未来になっていくから。
せめて明日からの未来は平和でありたい。
それが、過去すべての戦争で亡くなった人たちへの償い。
78年前 中国で戦病死した大叔父へ。
中国で戦場を経験し、生き残って命をつないでくれた祖父へ。
戦後78年の8月15日。
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