思念界在住

 この文章を読んでいるあなたは俺の絵を見たことがないと思う。

 俺は昔から、二次創作イラストを描くのが苦手である。一次創作の崇高さになんやかやと理由を求めた時期もあったが、そこは混同を改め、されど未だに苦手である。画一のデザインをなぞる過程で苦痛が伴うからである。今なら少しわかるが、頑張って似ないものにも、いやさ似切らないことにこそ価値はある。
 同様に、自ら設定したデザインを再現するのすら、よく苦戦した。拙くも漫画制作に挑戦していた時期には、キャラクターにその場その場で思い付いた絵を与えていくので、コマ間で顔やプロポーションや印象が安定しなかった。今にして思えば単に精進不足で、持ち味とかゆってえばれる以前に読み手への配慮が欠けていて、練習あるのみでしかなかった気が、多々する。絵というメディアは一撃必殺即離脱を許すが、漫画は(不定時な)連続体である。

 そんで「デザインを満足に再現できるよう(実力か目標を)調整する」も一つ策なのだが、俺が向かったのは「元々不安定なキャラクターなら似ない二次創作でもよい」という逃げ道、活路、隘路、袋小路、デッドエンドだった。

 思いつく限りで3人いる。断っておくが俺はロリコンではないが若さと可愛らしさと女が好きなので少女が好きという事になりロリコンである。バックベアードが啼いている。フリーゲーム・ゆめにっきの主人公(通称窓付き)、不条理4コマ漫画・ねぎ姉さんよりねぎ姉さん、掲示板の共同幻想・二次裏メイドのヤクいさんだ。歓声と惜しみない拍手を。
 「作者側から呈示されたデザインによる束縛がゆるい、比較的解が無い」「世界観的にも迷走的な表現が許される」「あとアングラっぽいので身近な描き手からのより秀逸なそれとぶつかる心配が少ない」あたりが、このさもしい観点からの彼らの大まかな共通項だ。東方やボカロは「アングラ」が外れる。パプリカは「デザインのゆるさ」が外れる。おやすみプンプンはリアルありきだと思うので「世界観」を外す。ねこぢるは好んだ時期があった。他にも忘れてるのはあると思う。

 窓付きは夢の中を歩き、百様に変身する。夢の外の背景設定は匂う程度にしか説明されない。すなわち無限の解釈を含み持つも同然で、ゆえに最強。小物類や、記号的な仲間を盛り沢山に備え、人格の不明瞭なのもよい。ひとえに「夢の中を歩き回るだけのゲーム」性が成せる業だ。
 ねぎ姉さんは極度のシュール空間に立脚し、頻繁にパロディめかしたセリフや文脈が逆説的にロールを決定するばかりか、話の流れによっては外見すらも潔く不定形である。これも作者が「キャラが何を考えてるとか考えてこなかった」と(そのことには否定的な文脈だったと思うが)言っていた。

 ヤクいさんにはてんで詳しくない。俺の押さえているのは、二次裏キャラたちが殊更に権利意識が付かない匿名書き込み群から漠然と立ち現れるキャラクター群だということと、中でも薬物摂取の文脈を引き受けていることの二点だけだ。二次裏に書き込んだり常駐した経験はないし、薬もろくに知らない(文がアレだが、現地法に適いかつ穏当に体験可能なものを検討してみる自由はあるだろう。なにしろ煙草も向精神薬とも無縁なのだ)。また「メイド」なので、「ご主人」なる描き手ないし読み手の分身的概念(たぶん提督とかPとかの先輩)に仕えていることも重要なファクターらしいが、ここもまだ俺の腑に落ち切っていない。


 最近は、絵を描いても比較的二次創作元との乖離感に頓着しなくなったが、時たまやはり彼らに手伝ってもらって、とりとめない手癖の幻を、そのままアウトプットしてみたくなる。なんとなくでとりかかっても意欲と看板が遜色なく思える題材は、相当気が軽い。本当は、みんなそうなのだろう。

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