02「悪夢のララバイ」/錆付くまで

1月20日リリースアルバム「錆付くまで/宮下遊」の感想noteとなります。
特典のコンセプトブックや対談CD、非公開MVについてもネタバレ有で触れてるので、未読未視聴の方はご注意ください。キルマーアレンジCD買いそびれ民(憐)。→2月27日追記:親切な遊毒者様に1枚譲っていただきました。ありがとうございます!note追加します。

錆付くまで/クロスフェード


生成された構造が錆付く前に、文字に留めておこうと思った。


夢は醒めてからでないと夢であったと定義できない
【悪夢のララバイ】

公開MV↓
悪夢のララバイ/syudo×宮下遊

やっと目が覚めた!と思った世界も、やはりまた夢だった。そういう入れ子構造的な終わりない悪夢を、私は何度か見たことがある。あるいは、「ここは夢の中だ」と気付いてしまい、目の前の惨劇がどうでもよくなって空を飛び回ってみることにしたり……。
つまり夢とは、主となる現実世界の反照として見出されるヴァーチャル空間であり、やがて終わるもの、終わりが約束されているからこそ本気になっても仕方がなく、なかなか終わらなかったら怖い場所なのだ。
しかし、よく考えれば今あるこの現実にだってどうやら終わりがあるみたいだし、時間的に長いからと言っても、この現実が終わった後の世界で時間感覚が引き継げないのであれば、この先長いから、などと理由付けしても仕方がないような気がする。だからこそ、夢と定義している時点で結局、「終わらない悪夢」は「夢であってほしい現実」の中で見出す願望と現実逃避の結晶なのだ。

歌のみを聴いて受けるイメージと、MVと一緒に聴いて受けるイメージが随分異なるのがこの【悪夢のララバイ】。
恋愛における依存や、歌声との親和性を意識した怪しくも美しいラビリンスな雰囲気は出ているが、MVにおけるストーリーは壇上大空氏独自の解釈によって生み出されたのだろうか?本格的なアニメーションや、動きの多いMVが流行る中、もったいぶったスロウな映像速度が、夢の中で味わう奇妙な焦りとリンクしていて快いもどかしさが湧いてきた。

初めて聴いたsyudou氏の曲は、宮下遊氏が歌った「コールボーイ」だった。笑いが込み上げてくるほど「素直に捻くれた」楽曲。ニヒリズムをアートで紡ぐのは匙加減が難しい。被害者側に立ち正当化すれば哀れなルサンチマンになるし、中立を保とうとして理屈をこねても何が言いたいかわからない。そんな中、彼が選んだ方針は、「ついつい皮肉を言ったり病んだりしてしまう難儀な性格が誰からも承認されない現実を自覚し、尖った自分のまま往来を闊歩するように見せかけ、しかし絶えず後ろを振り返っては『これでいいよね?』と周囲を気にする」。そんなところだろうか?強かさの隙に見えるためらいが、人間臭くて共感を呼んでいるのだと思う。

根底に良心がある捻くれ者syudo氏が今回書き下ろした【悪夢のララバイ】に受けた第一印象は「さらりとしている」だった。特に自分の抱いている薄暗い感情に対して弁解しないし、変わるつもりもない。一貫して自己肯定するからこそ、聴く者に常に「これでいい?」と問いかけてくるし、何らかの反応を待っている。
単に歌声や音楽性だけでなく、彼らの共通点を見出すとしたらそういった人間臭い二面性だろう。大衆に媚びず独立心旺盛、しかし、なんだかんだで周りのリアクションはちゃんと気にする宮下遊氏。
【悪夢のララバイ】の世界で、「君を逃しはしない」などと怪しげな声音で脅してくるが、熱烈なファンからすれば「こいつ寂しがり屋だな」である。

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