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君、音の水間で錆付く

1月20日リリースアルバム「錆付くまで/宮下遊」の感想noteとなります。
特典のコンセプトブックや対談CD、非公開MVについてもネタバレ有で触れてるので、未読未視聴の方はご注意ください。キルマーアレンジCD買いそびれ民(憐)。→2月27日追記:親切な遊毒者様に1枚譲っていただきました。ありがとうございます!note追加します。→3月8日追記済。

錆付くまで/クロスフェード


生成された構造が錆付く前に、文字に留めておこうと思った。


01.コーティングされていない嘆声を吐き出すのは
悲劇を嗤っているからか?
【エンドゲエム】


歌詞さえも楽器にして奏でるようなカオスナンバー。
毎度のことながら、キャッチーで可愛らしいアクセント的な音に反し、メロディは決して易しくないし、心情はグロテスクだ。確固たる独自の世界観を持ちながら、さまざまな声色を受け入れる不思議な柔軟性を備えているため、誰が歌ってもなんとなくハマる。
性差を感じさせない唯一無為の歌声と自由奔放な歌唱スタイルをもつ宮下遊氏にとっては、遊び場のような空間だったろう。

擬態語や直接的な単語を羅列する演出された「稚拙さ」が、今の絶望的な状態をもうこれ以上言葉として昇華できない余裕のなさとして印象付けられる。

前回同様、かいりきべにゃ氏の楽曲で幕を開けた彼のアルバムだが、初っ端から静謐な雰囲気を醸し出すアルバムジャケットとのコントラストが激しい。
宮下遊をほとんど認知していない人が、あのイラストに惹かれて本アルバムを手に取ったならば、きっとそのギャップに驚くことだろう。錆びつく、だから「エンドゲエムなのか?」とさまざまな自己解釈で耳に入ってきた音を理論付けしようと努めるかもしれない。やがて宮下遊というアーティストらしさというのが、自ら提示したイメージを次々に瓦解し、意表を突いていく姿勢にあるとその新参も学ばざるを得ない。

コンセプトブック後半にて、【エンドゲエム】はアルバム制作における苦悩が露見する曲だと宮下氏は語っていたが、少しわかるかもしれない。
彼は人間の負の感情を詰め込んだ曲を好んで歌うが、キルマーやアンヘルなどは、曲の中の登場人物になりきることを楽しんでいる遊び心を感じられた。しかし、【エンドゲエム】では俯瞰する視点を放棄してほとんど同化する態度をみせている。感情的な歌を歌う時の彼が使う「自嘲気味な」ニュアンスよりも、「私だけこんな目にあって」などというわかりやすい悲痛の方が際立っていたあたりにその差異がうかがえた。
表現者は時に、自分の経験した痛みや悲しみをそのまま創作活動に利用する瞬間があるが、その一番の受け皿となったのが彼にとっては【エンドゲエム】だったのだろう。

昨今は自殺率が高いと聞く。災難の当事者が求めているのは身勝手な希望の歌や中途半端な慰めの言葉でもなく、気付きたくなかった泥土のような感情を代弁してくれる娯楽なのかもしれない。
悲劇を、いっそ喜劇のように。悲劇を、悲劇然として陶酔することさえできない、追い詰められた精神がたどり着く最悪なバッドエンドは、往々にして誰も笑わないグランギニョールだ。


02.夢は醒めてからでないと夢であったと定義できない
【悪夢のララバイ】


公開MV↓
悪夢のララバイ/syudo×宮下遊

やっと目が覚めた!と思った世界も、やはりまた夢だった。そういう入れ子構造的な終わりない悪夢を、私は何度か見たことがある。あるいは、「ここは夢の中だ」と気付いてしまい、目の前の惨劇がどうでもよくなって空を飛び回ってみることにしたり……。
つまり夢とは、主となる現実世界の反照として見出されるヴァーチャル空間であり、やがて終わるもの、終わりが約束されているからこそ本気になっても仕方がなく、なかなか終わらなかったら怖い場所なのだ。
しかし、よく考えれば今あるこの現実にだってどうやら終わりがあるみたいだし、時間的に長いからと言っても、この現実が終わった後の世界で時間感覚が引き継げないのであれば、この先長いから、などと理由付けしても仕方がないような気がする。だからこそ、夢と定義している時点で結局、「終わらない悪夢」は「夢であってほしい現実」の中で見出す願望と現実逃避の結晶なのだ。

歌のみを聴いて受けるイメージと、MVと一緒に聴いて受けるイメージが随分異なるのがこの【悪夢のララバイ】。
恋愛における依存や、歌声との親和性を意識した怪しくも美しいラビリンスな雰囲気は出ているが、MVにおけるストーリーは壇上大空氏独自の解釈によって生み出されたのだろうか?本格的なアニメーションや、動きの多いMVが流行る中、もったいぶったスロウな映像速度が、夢の中で味わう奇妙な焦りとリンクしていて快いもどかしさが湧いてきた。

初めて聴いたsyudou氏の曲は、宮下遊氏が歌った「コールボーイ」だった。笑いが込み上げてくるほど「素直に捻くれた」楽曲。ニヒリズムをアートで紡ぐのは匙加減が難しい。被害者側に立ち正当化すれば哀れなルサンチマンになるし、中立を保とうとして理屈をこねても何が言いたいかわからない。そんな中、彼が選んだ方針は、「ついつい皮肉を言ったり病んだりしてしまう難儀な性格が誰からも承認されない現実を自覚し、尖った自分のまま往来を闊歩するように見せかけ、しかし絶えず後ろを振り返っては『これでいいよね?』と周囲を気にする」。そんなところだろうか?強かさの隙に見えるためらいが、人間臭くて共感を呼んでいるのだと思う。

根底に良心がある捻くれ者syudo氏が今回書き下ろした【悪夢のララバイ】に受けた第一印象は「さらりとしている」だった。特に自分の抱いている薄暗い感情に対して弁解しないし、変わるつもりもない。一貫して自己肯定するからこそ、聴く者に常に「これでいい?」と問いかけてくるし、何らかの反応を待っている。
単に歌声や音楽性だけでなく、彼らの共通点を見出すとしたらそういった人間臭い二面性だろう。大衆に媚びず独立心旺盛、しかし、なんだかんだで周りのリアクションはちゃんと気にする宮下遊氏。
【悪夢のララバイ】の世界で、「君を逃しはしない」などと怪しげな声音で脅してくるが、熱烈なファンからすれば「こいつ寂しがり屋だな」である。


03.隠されてるのは「衝動」である
【es】


アルバム曲の一覧がわかった時点で、さまざまな憶測と妄想がファン界隈で飛び交っていた話題作【es】。
思わせぶりなタイトルであったことや、作詞作曲編曲に至るまで宮下遊氏が手がけている曲ということもあり、クロスフェードがリリースされる前から異彩を放っていた。彼が好んで歌う曲の傾向の一つとして「特定の個人に向けられたサイコパスで歪んだ執着心がテーマ」があるが、おそらくその延長でオリジナル曲もサディスティックかつ危険なダークソングに違いないと暗黙の了解がファンの潜在意識下で生じ、案の定、期待を裏切らないものが爆誕したようだ。
Twitterというギャラリー席でファンの反応を見ているのも面白おかしく、その時点で楽しませてくれる作品だった。私もクロスフェードを聴いて頬を綻ばせた後無事に死んだ。

正直、この【es】に関しては突っ込んだ解釈や入り組んだ構造を見出すことはできないし、あまりその必要もないように思えた。
ぼーっと聴いてみて、何だか知らないが沸き上がる禁断の高揚感や非日常感。それを素直に楽しんでくれという、アトラクションソング。発売記念配信のコメントを聞いて、余計にその位置付けが確固たるものになった。無粋に正解を捻り出す方が曲を台無しにするし楽しめなくなる。むしろ感覚的に受けたインスピレーションからシュチュエーションや物語を想像し、個々で不正解の海へ迷い込むのが模範なのだろう。

ただ、心理学用語で「エス」という本能や生命の根源的な衝動・欲求を意味する単語があり、それをひっくるめての【es】。いや、ファンが勝手に期待したように、見かけのサディズムに隠されている「本当の衝動」を語らないが忍ばせた楽曲だったのかもしれない……という程度には勘繰る。

ちなみに、私はこの曲を現代に設定してMVやFAなどつくったら面白いのではないかと思っている。音のイメージに合わせて妖艶な演出を盛り込むのではなく、あくまで、淡々と、地味に、そしてじわじわと湧き上がる自身の自覚なき影。異常性を微塵もみせない普通の社会人が、ふとした瞬間に豹変……すると思ったらしないのだ。本当の狂気は蓋をされているからこそ、よりおどろおどろしい。視覚的には、舞台「THE BEE」のエキセントリックさも、映画「ブラックスワン」のようなエロティズムもない。しかし、音だけが視覚情報を逆撫でするように変態性を煽ってくる。そういう「画」が、とても似合うと思う。


04.劇烈な閃光で自らの闇を睨みつける、羽化への物語
【アノニマス・エゴイズム】


突出した完成度を誇るのは目に見えていた。何せプロの中のプロ。しかも作詞作曲編曲すべてその道のスペシャリストが分業して作り上げているではないか。畑も出荷方法も違いすぎる。どの曲も選りすぐりの高級ブランドとは言え、みかんやりんごが乗った器に、突然ドラゴンフルーツを置いてしまったら嫌でも目立ってしまうのは当たり前だろう。【アゴニマス・エゴイズム】に関してはちょっと厳しめなジャッチができたらいいなと思い、評論家気分で聴いて見事敗北した。

奇を衒わず自然に入ってくるのに、いつも新鮮な言葉選び。内観する歌詞に一切気を使うことなくダイナミックに駆け巡る疾走感マックスなデシロックサウンド。単に共感を誘ったり、期待に応えるだけでなく、新しい鮮烈なイメージが嫌味なく発芽する。
間奏部分の、二大勢力がぶつかり合うような重低音の重ね方も、激しさや争っている光景は彷彿とさせるのに、よく聴くと音楽的に本当に無秩序にぶつかりあっているわけではない(何を当たり前のことを宣うのか)。
私はネットクリエイターならではの「何か新しいものを生み出したいアンダーグラウンドな創作意欲」「プロっぽくパッケージ化されていないからこそ近づきたくなる余白」が結構好きだ。だからこそ、業界の揺るぎない底力で圧倒する【アノニマス・エゴイズム】という存在が場違いで許せないし、ぐうの音も出ず嫉妬してしまう自分こそ場違いで何だか恥ずかしくなる。

自己完結したテンションや主張、テーマに沿って聴者の共感や感動に寄り添う楽曲が多い中、【アノニマス・エゴイズム】には自分が一度示した思想に自ら矛盾を突きつけ、葛藤し、最終的に第三の道を切り開く。
おそらく、アニメという物語媒体が常に視野にあったからこそ見出されたメッセージ性の高さだろう。音響を変えることなく、同じ音でもそこに含まれる解釈や受け取り方のほうを変えてしまう。降参するしかない。そして聴くものを受動的な存在ではなく、能動的な変化を促された主人公に誘導させるプロセスすらも仕組まれているように感じた。日本の音楽を代表するカリスマ性を、彼らはいつも期待されている。

普段、「ガチプロはやっぱちげぇな〜」くらいでネットの音楽と具体的に比べることはしないが、この度じっくりと比較分析することで、音楽観察における奥行きが広がったように思える。
楽曲のエネルギーに負けない、噛み付くような殴るような宮下遊氏の歌声も、応援したくなる悩み多き主人公像を彷彿とさせて、また新しい彼に出会えた気がする。

05.難解にして辛辣。
曲のすべては謎に包まれているのにオープンな製作陣
【君を論じたい】


公開MV↓
君を論じたい/てにをは×宮下遊

錆付くまでのアルバムにおいて、【君を論じたい】に何かしら位置付けを与えるとすれば「ファンにとっての我が家」「宮下遊キャラクターソング」と言ったところでいかがだろう?

実際に個室のみを舞台に完結するMVだったし、ボーダー服を着た細身で中性的な白髪の青年という造形から、おそらく多くのファンが「元祖本人イメージに寄せているな……」という幸せな勘違いを抱きFAを続々生み出したし、果ては「君=ユウ=遊」などという考察まででっち上げられた。
MV制作に関わったお二方の話によればどうやらそれらは意図して仕掛けられたものではなく偶然だったようで、奇跡的にファンへのご褒美がマシマシされた。色々と思い出深い曲になったのではないか。

【君を論じたい】は、てにをは氏と宮下遊氏との対談CD、発売後に配信されたMVシナリオ・編集担当のXI氏とイラスト・キャラクターデザイン担当のeba氏のトーク回において、作り手が楽曲についてあれこれおしゃべりする機会が非常に多かった。その名の通り、よく論じられている曲なのだが、論じられれば論じられるほど何故か謎が深まるばかりで、一向に掴みどころがなく、あらゆる可能性が飛び交って、私はいまだに落とし所をつけられずにいる。

てにをはさん大好きモードの宮下遊氏がハイテンションで曲を褒めまくり、照れて謙遜する優しいてにをは氏、昔馴染み故の気安さから宮下遊を陰でけなし実世界で彼に奴隷扱いされるXI氏、今回初めてMV製作に携わったというeba氏のフレッシュさ。製作陣はこんなにも和やか。アットホーム。でも曲だけは「表現したかったもの」は流石に分かったけど肝心な「解釈」がなかなか入り組んんでいて構築が難しい。賑やかな家族にやたらと可愛がられている、来客には無愛想なペットみたいな作品だ。

「君」と何度も連呼しながらも、つとめて他者の存在を排斥した最も閉鎖的なナンバーであるように思える。その閉ざされた印象は、非常に陰鬱な空気感を纏いつつも伝えたいことが伝わるようには保証された【ハチェット】とはまた別で、伝えるべきことこそ、絶対に分かるようには伝えない。

真相が分かってしまったら最後、物語が終局に向かうミステリー小説のように。知りたいけど知らないほうが物語は続いて素敵かもしれない、そんな「分からないけど楽しい」を噛み締めるに未だ止まっている。


06.創作活動のエンジンは、何かに対する怒り
【アート】


アートというタイトルから地獄を連想できる人は少ないように思われる。ロシアは、国土的には我が国のご近所様だが、意外にその言語については知られていない。まさか「アート」という音素を通じて地獄と芸術がつながるとは考えもしなかった。面白い着眼点だ。

日常会話に浸透していてつい忘れがちだが、地獄とは宗教概念だ。実際には誰もその場所を知らない、知らないが故に憶測の余地があり、使い勝手のいい言語として運用されている。しかし、この【アート】では俗物的に比喩される地獄(のような)情景ではなく、立ち戻って宗教的なニュアンスをそこに込めている。
天界が是としてあるならば、地獄(アート)は対となる非。であるならば、同じような音素を宿した芸術(アート)とは神への反逆として生じた人類の営みなのだろうか?分からなくもない。我々は神に与えられたものだけでは飽き足らず、創造主の真似事をして奇妙奇天烈なものを生み出している。
しかし、皮肉なことにその構造はすべて神が創り出した自然界の「パターン理論」に依存する。科学技術しかり芸術も、黄金比などはその最たる例であろう。我々の美的感覚はいまだ創造主の支配下にある。神の贋作を生み出すことで神に抵抗しようとしているというのは、なんとも憐憫極まりない。
だが持論を述べると、この創造主の解釈を新たに更新することこそが創造主の支配を逃れる唯一の鍵であり、その発端の一部にはやはり科学や芸術が含まれていると推察している。

言語の偶然の一致から着想を得た哲学というものを、宮下氏はどう受け止めたのだろう?
彼のイラストやオリジナル曲によく見られる独自の世界を、私はこう捉えることがある。機械と自然が不器用に調和した荒廃から誕生の物語。一度死に、新しく生まれていく過程を、彼はそっと絵の中に閉じ込める。維持し、破壊され、また創造されるサイクルにおける……ここでは破壊のプロセスを担う。

「歌詞が書けない自分への憎悪に駆り立てれ、なんだかんだ作業の進みがいい」などと宮下遊氏がツイートしていたことを思い出した。そういう瞬間、結構あるのではないか?私も自分自身へ罵詈雑言を浴びせながらアドレナリン大放出して作業している時の方が明らかにスムーズで無駄が減る。アイディアを練る時以外の、考えたものを構築する作業においては、緩んだ思考回路で何かやろうすると惰性になりがちだ。そういう姿勢を繰り返していると後で必ずツケが回ってくる。

と、その類の「怒り」ではないかもしれないが、往々にして創作活動というものは、何かに対する強い反感や反骨精神が後押しする面も非常に多いのではないかと思われる。
個々のクリエイターがどのような動機で「創りたい」意欲が湧いてくるのか様々だと思うが、私などは現状へ対する「アンチテーゼ」が創作の源泉になっている。世の中に蔓延る「テーゼ」への破壊衝動。判で押したようなつまらない煽り文句で押し付けらる事物に囲まれ居心地が悪く、なぜ誰もこの状態に疑問を抱かないのだろうという疎外感と憤りが生まれる。そして、「誰もやらないなら自分がやってやる」と、はらわたで錬成された凶器を研ぐようになる。いつの日かその刃で、他者の既成概念を切り刻むことを夢みて。


07.本当にやばいのはこっちだった
【Tisa】


表題に書いた通りである。クロスフェードにて多くのファンが【es】で殺され、これ以上にもっと強烈な殺傷要素が全曲迎え入れた際に襲いかかってくると気づいた時、身震いしたのではないか?
しかし、【es】の狂気性はまだ序の口。現実から隔離した危険な妄想に酔っているだけだったのではないかと勘繰るほどだ。聴かなかったことにはできない。【Tisa】はクロスフェードでは流れなったラスサビで、とうとうその禁断の妄想を実行に移していた。

【Tisa】は【es】へのアンサーとして位置付けれていると、インタビュー雑誌で本人が答えていた。数字の「9」を意味するとも言っていたが、その意図に何を察しただろう? 
私などは、単に数字として見てしまう。個をカウントするために用いられるラベルとしての「9」。歌詞の後半を読むに、ティスア(9)と名のつくものに囲まれている描写があることから、それはある条件下において、複数であるみたいだ。
楽曲の狂気性やティスアという美しい響きが独自の暗号にも聞こえることから、連続性犯罪者が9人の少女もしくは少年を監禁し、そこに閉じ込めて残虐な行為に及んでいるのかななどという下級な映像なら浮かんだ。これをベースにもう少し入り組んだストーリーも考えられなくはないが(例えば、ナンバー呼びされることのある囚人たちへの異常な仕打ち等)、まぁ考えてもそれほど楽しいものではない。物語の主義主張・葛藤を叶えるために用意された苛烈で背徳感を煽るシーンは許容できるのだが、シーンそのものの刺激が主体となったエンターテイメントをあまり楽しめない。せいぜい、映像技術の面白さや演者の白熱した演技、生理学的に正しい人体の反応なのかなど素人ながら考えて時間を潰すにとどまる。SMスプラッタの美学は人それぞれ理想のシュチュエーションというものがあるのだ。

この【Tisa】はテーマがテーマなだけに、一般的にかなり人を選ぶ曲なのだが、ファンとして提供された時、嫌悪感を抱かずむしろ面白くて笑ってしまったのは、宮下氏がこれを作って歌っているという前提があるからに他ならない。
彼は意図してか無自覚なのか分からないが、キャラクター付けとして「闇深きヒール」や「掴み所のない狂言回し」のようなポジションが板についているように思われる。この見解には、ただのファンよりは彼の素顔を知っているであろうてにをは氏にも同意が得られそうである(君論CD後半より)。

悪役・いじめ役が生き生きしている物語は、どんなジャンルであっても、ある一定の面白さを感じられる。ラピュタやポケモン、最近では鬼滅の刃など、いじりがいのあるユニークな悪役が人気を支えた要素は大きい。各所でパロディを生み出し笑いを呼んだ。宮下遊氏が反社会性をちらつかせる楽曲に身を投じる時、これと似たような高揚感を覚える。現実で迷惑行為に及ぶのは困るが、同時に常軌を逸した価値観の台頭というのも気持ちがいいものだ。みんな心のどこかで少しずつサイコパスに憧れている(これをDIO論という)。悪が肯定される情景はなるべく「フィクションだ」と了承した上で閲覧したい。その眠れる欲望を具現化した舞台に、演者・宮下遊は適任なのだ。彼が人狼ゲームでずっと平民をひき当てていても面白くないだろう。人狼となって民どもを食い尽くすのが彼の役どころだ。

【Tisa】を聴いている間は、悪役の力は絶大なものだろう。こいつには敵わない、最強の敵が現れたと、こちらも服従するしかない。しかし曲が終わり、無音の間の中でふと湧き上がってきたのは「あ〜ヤッチャターこの悪人、天罰下るな」という安心感である。この辺りは、マロン菩薩様の慈悲(編曲)によるものであると思う。悪を悪として描くためには根底に善意が必要だ。かくして、地獄に仏は現れた。


08.ネゲントロピーへの切望が人生の歯車を動かす。どちらに?
【カトリーナ】


クロスフェードのチョイスが絶妙だったため、通しで聴く前はまったく曲の全体像が掴めず、だからこそ他にないミステリアスな存在感が際立っていた。天空の女神演じる宮下からの主演男優演じる宮下の激しいシャウト。一体何故この構成なのだろうと疑問に思ったことだろう。

しかし、あらゆる隠喩が込められたこの楽曲から、正確に作曲者の意図を引き寄せられた人は少ないのではないか。コンセプトブックを読んでから曲を聞いた私にはちょっとネタバレ要素が多かった。これだけメタファーの散りばめられた曲なら、自己解釈してから作曲者・楽園都市氏の意図を知ればよかった。高潔な人格が透けて見える語り口にも好感がもて、興味が湧いた。理知的な批判精神で己を律する姿勢。その深い内面が、音色の複雑さと自由さを独自の論理形態で統括しているのだろう。

ファンタジーやSFを連想させる壮美で幻想的なサウンドは、時間旅行のような跳躍感に溢れている。ある時は忘れられた古の時計塔。ある時はネオン照らす黒塗りのディストピア。楽園都市の名に相応しく、本当に架空の街に連れて行かれたみたいだ。
しかし、その楽園世界を否定する影がちらつく。【カトリーナ】の都市に迷い込んだ宮下氏も、この夢のような景観を手放しで喜んでいるわけでなく、そう、どこかその安寧とした幸せを疑っているのだ。ここは本当に“人生なのだろうか”と。息をすればするほど風化する現実感の中で、気がつけば不快なものばかり目で追いかけるようになる。やがて意識が覚醒する。あらゆる祈りの実現に躍起になった都市は、ある時代の転換期において「眠り」の道を選んだ。つまり、停滞の一途をたどる現実の世界を捨て、脳がほぼ無制限に電気信号を送り続けるだけのヴァーチャルリアリティへの救済を求めたのである。
そこではもはや時間は不可逆だという理屈は通じず、嫌なことや不都合なことがあれば簡単に改変できてしまう。何もかもが実現可能となり、人間の想像力の方が限界点に達した時、その向こうに人間は何を求めるのだろう?

どこまでもSF脳な私にはこんなストーリーが湧いてきて止まらない。歴史的名作映画「マトリックス」よろしく、手垢のついた世界観設定だ。しかしそんな心踊る物語こそ、いつも「現実」の存在を打ち立てている。むしろリアリティのある純文学の方が現実から浮遊していると感じられる節がある。ファンタジーやSFといった媒体だからこそ見出せる生々しい人間社会、突きつけられる人類のアイデンティティという広大で普遍的なテーマ。そこには、今ある現実に没頭せず、冷静に客観視させるシミュレーション効果があるからではないだろうか?


09.気がつけば心の恋人
【ダリア】


『錆付くまで』に収録された12曲中、最も明度が明るく彩度の優しい楽曲。
【ダリア】にも葛藤や苦しみはあるものの、それをネガティブなものとは定義せず、咀嚼し、受け入れながら前に進んでいく。水のような滑らかさと浄化のエネルギーを備えた癒し手。
正直、【ダリア】のもたらす救いがなければこのアルバムは影が重すぎて何度も聴けるものにならなったのではないかというくらいには救われている。輪廻転生だけでは、回復力保たなかったのではないだろうか?(個人の感想)

お友達の果物さんが打ち捨てられてきた者の嘆きや悲哀を苛烈に表現する傍ら、蜂屋ななし氏は最終的には人の心の拠り所となる曲作りをしているところが前々から面白いなぁと思っていた。そんな果物さんとの共作であり、休暇期間に入る前に作った最後の楽曲となった【ディジーディジー】が私は大好きだ。なぜ、あんなに、こちらが傷心の際に言われて救われるフレーズが思いつくのだろう?「ごめんねって離さないで、ただ必要と言って欲しいよ」?離すかよ馬鹿。そういえば、これも花の名前を冠している。蜂だから、きっと花が好きなのだろう。

ところで、涙腺を機能不全に追い込むダム決壊神MVを、君はもう視聴しただろうか?あれは心が弱っている時に観てはいけない。箱ティッシュを空にし、しばらく茫然自失となって何も手につけなくなる。とりわけ、私のような人間には。
あまり自分の過去をダラダラと話す気はない。しかし、少し話してしまうと、愚直になんでも取り組んだ夢あふれる青臭い時代の中で、多くの喜びや失敗や後悔を経験し、もう人を傷つけるのも傷つくのも嫌になり、自分で自分に手錠をかけるようになった20代後半には、非常に応えるMVだった。昔の自分の方が遥かに嫌いだが、今の自分に満足しているわけでもない。どうして、賢さと引き換えにあの時の情熱を手放してしまったのだろうといつも思うのだ。そんなわけで、Cメロは天使が舞い降りたとしか言えない。

ほんのり物語テイストだったMVだったが、それぞれ全く異なる生活スタイルを営む2人の主要人物を、私は「同一人物」と解釈した。家の中に籠り変わり映えしない日々を送るのも、旅に出て広い世界で目眩く日々を送るのも、人生におけるどこかの時点での「私」。未来に期待を抱いていた過去の自分に対して、今の自分が手紙を送れるとしたらなんと書くだろう。「やめとけ」などと書いて紙飛行機にして飛ばすのだろうが、「大丈夫だよ」とか返ってきそうだ。

サビで「不」という漢字がリズミカルに韻を踏む。
不はその後の文字を打ち消す作用を持ち、〜でない、と言う視点にフォーカスしている。マイナスを意識すると言うことは、そこにプラスがあると言うこと。影を描くことで、光が当たっている部分を表現できるように、立体感はいつも否定の発生から生じる。その言葉選びに、負の要素さえも飲み込んでいく蜂屋氏の優しさや懐の広さを感じた。
また、同じ「Fu」と言う音から始まる言葉に、それぞれ相応しい感情を流し込んでいく宮下氏の繊細な歌心を評価したい。

余談だが、私が宮下遊を知るきっかけとなった曲は、蜂屋ななし氏の「Fading ghost」。


10.大衆に媚を売る表現を、好きになれない
【Coquetterie dancer】


公開MV↓
Coqeutterie dancer/煮ル果実×宮下遊

作り手は何らかの信条を抱いていたりする。掲げた指針に正しくあるように振る舞おうと勤しむわけだが、思想が深まれば深まるほど、周囲からの弾圧により受ける傷も深まるようになる。

煮ル果実氏の作った曲を全て聴いたわけではないが、大抵、物語が土壌にあり、特殊な過去に裏打ちされた特殊な信仰を胸に秘める魅力的な変人が多い。物語である以上、彼らの心情を語り尽くすだけで曲を完結させるわけにもいかず、外部からの影響を受けながら、その人物が取りうる次なる行動をとり、それぞれの落とし所を迎える。キルマーは強かな逆襲劇となり、ヲズワルドは運命に翻弄され疲れ果て自ら命を絶つ。だから、先にあげた曲の主人公と物語がテレコになったら、もしかしたら違うラストを迎え、当然、曲から受ける印象も全く別物になっていた可能性もありえそうだ。聴者はそれぞれの登場人物に共感できる部分や自分や知人と重なる経験をエッセンスに曲の展開やメッセージ性を楽しんだりする。反感や違和感を抱きながら観察するケースもあるかもしれない。
曲とMVでしか語られない限られた領域の中で、ファンタジックテイストな、しかし遠くないフィクションとしての地位を確立している作曲家、と言うのが、私が彼に抱いたイメージだ。

今回の【Coquetterie dancer】は、主人公にとってあまり好ましい最後を迎えられなかったように見えてしまう。コンセプトブックにも、「ダンスで日銭を稼ぐ少年が、貧困とストレス、周囲からの手酷い扱いによって自暴自棄になり、自分を馬鹿にした人たちを狩りその血を纏って注目を集めるようになる哀れな末路を迎える」と明記されている。しかし、本当にそれだけだろうか?主人公のとった行動はあまり褒められたものではないし、滑稽そのものだろう。しかし、捲し立てるように紡がれる本音の中には、被害者意識に塗りつぶされた身勝手な愚痴や辛辣な世情批判だけでなく、1人のダンサーとしての気高い信仰も確かに息づいている。

「毒も薬にもなりゃしない歌じゃ世界を変えられないから」
「僕の否はずっと燃え尽きず、誰もが観ずには居られないでしょう」

ここで、少しおかしいと思わないだろうか?主人公はダンサーのはずだ。なのになぜ踊りではなく「歌」なのだろう?
おそらく、作者の信念の吐露ではないかと思われる。彼の作った「ハングリーニコル」と言う曲は、YouTubeではセンシティブで攻撃的な内容を含むとして、再生時にアテンションが加えられている。一部のコミュニティに打撃を与えるほど、強く表現したい、しかし、口に出すことを咎められている思いが彼にはたくさんあるのだろうと暗に気づく。

都会の飲み屋に行けば、駆け出しのバンドマンや役者志望が、酒を煽りながら長々と持論を語ったり、リハーサル中にはぶちまけられなかった愚痴や共演者への批判を吐き出す姿を目撃することがないだろうか。コロナ禍でそんな人たちを見かける機会は最近なくなってきたが、彼らと【Coquetterie dancer】はよく重なる。格好悪く、惨めにも思えるかもしれないが、腐ってない時は、あれはあれで必死に自分の思いを形にしようと努力するパフォーマーなのだ。しかし、そう簡単にうまくいくわけではない。だからいじける。わかったような口ぶりをしていることに関しては察してほしい。

さて、いきすぎた承認欲求と自暴自棄は、苛烈で陰鬱な顛末を主人公に与えた。しかし、MV制作をしたうぐいす工房さんの気配りか、煮ル果実氏の隠れた意図なのかは判然としないが、一見バッドエンドにも思える幕引き間際に、実は「ささやかな救い」がある。
その伏線は、先ほど引用した歌詞の一部が展開されるMV映像でクローズアップされるコモンドールという犬の存在だ。あの犬はおそらく、主人公の唯一の理解者あるいは観客なのだろう。主人公の持つ「毒(魅力)」に思わず体が動き出し、主人公を追いかけ、飲み込まれ、一つになってしまう。
あの不思議な描写は一種の「洗脳完了」だったのではないだろうか?と私は推察している。その証拠に、主人公が自分の殻に閉じこもり、人前でダンスをしなくなったために(あるいは殺傷罪でお縄になったために)寂しくなったストリートで、寝ているコモンドールの背中から黒い植物が生えてくるのだ。
主人公が踊りを披露することはなくなってしまった。しかし、彼が他者に刻みつけた想いは、他者の中で生まれ育ち、発芽した。まともに相手にされなかった彼のダンスだが、誰かに託すくらいには影響力を持っていたのだ。

主人公の思いが、次なる悲劇を呼んでしまうのか、あるいは幸せな方向に昇華できるかどうかは、きっとコモンドールの物語で明かされる。

この分量からもお察しの通り、「錆付くまで」全12曲における私にとってのベスト1が紛れもなく【Coquetterie dancer】だったからだ。全ていい曲だし、一番泣かされたのはダリアだが、自身の心の在り方や信条に最も近く、スラム街の街並みをはじめとするMVの世界観がとても気に入っており、また、自分が創作する際に参考にしたいと思える言葉遊びやトリックがたくさん散りばめられていた。
他に【Coquetterie dancer】が一番好き!という人がいたら、どのような点でそう感じたのだろう。案外TWでお見かけしないし、みんな大好き輪廻転生を除き、結構ばらけているように思える。最後から3番目という大詰めポジション、起承転結における転、「錆付くまで」を象徴する錆びついた街並み、2000万再生を叩き出した夢の共演再び、難易度の高さなど様々な視点で見ても、宮下氏の勝負曲だと思って推しているのだが。

(FAイラスト/もっぷ大佐)


11.錆付く前に切り落とせ
【ハチェット】


彼の作る曲は「聞く絵画」のようである。
絵描き、という肩書きが真っ先に思い浮かぶからだろうか?情景描写が容易く、MVを個々で自作したくなるような重厚で唯一無為の、いい意味でボカロ界隈らしくない作風。以前から思っていることだが、Mah氏の紡ぐ世界は、宮下氏がもつ儚く不気味な歌声との親和性がとにかく高い。あれは歌っているのではなく、描いている、もっというなら一緒に世界を作っているみたいだ。そしてお互いがお互いの見たい景色をかなりのシンクロ率で共有しているのではないかと思うくらい、「もうこれ以上の正解が分からない」。もはや歌ってみたでも書き下ろしでもない。異世界転生した宮下遊ではなく、最初からそこに住んでいたけどちょっと出かけてひょっこり戻ってきた宮下遊のほうなのだ。

「錆付くまで」の12曲中11曲が公開された時、書き下ろし提供者の欄にまだMah氏の名前が出てきていなかったので私の心はざわついていた。最後の1曲がMah氏じゃなかった時の現実を受け止められるか、あまり自信がなかったからだ。そのくらい「あなたがいなきゃ宮下遊のアルバムは物足りなくなるのよ」と言う歪んだ執着心を抱いている。いや、瑛太五月さんとかRinさんとか私好きだから、名を連ねたら小躍りするだろうけども……。なんというか立ち位置が違う。「紡ぎの樹」「青に歩く」と登場するスタメンMahさん曲を「一番好き!!」とはならないのに、いなきゃいないで、会いたくて会いたくて震えることが目に見えている。気のしれた兄弟みたいなポジション。

コンセプトブックに寄せた文章も、他のクリエイター陣にはないフランクさで笑ってしまった。彼独自のキャラクター性もあるのだろうが、「どうも!いつものMahです」という身内オーラを否めない(言い方)。そして自分のために書いたけど遊さんなら波長合うよねと言ってしまえる信頼感と確かな手応え。この曲を作るために音素材揃えちゃうガチぶり。いいですね。最後の1曲として勿体ぶらせていたのも、正妻の余裕というやつだろうか(言い方)。Mah氏、宮下界隈の「紫の上」では?

まぁそんなわけではじめて聴くのに安定の郷里【ハチェット】だが、今回はかなり血の匂いのする情景だった。セクトが醸しだす滑るように巧みな洗脳と陵辱、トリックスター的な「軽さ」は排除され、ひたすら重く、浮かぶことさえ許されない沼地で溺れる不快感や倦怠感を全面に出している。かなり直接的でわかりやすい比喩が容赦なく、追い込まれたものをさらに追い込んでいく。「錆付くまで」ツアー最終局面にて逃げ場所を塞いでいく鬼畜。じわじわとクレッシェンドし、音圧を上げていくベース音に呼吸を奪われ、鵺の鳴き声が心地よく死を誘う。

【ハチェット】で歌われているのは、クリエイターとしてのMah氏の生き様と死に様ではないかとやんわり想像できた。あるいは思想的な戦いの課題を彼は抱えているのかもしれない。まだ彼は死んではいないが、その恐怖とはいつも背中合わせ。今まで自分の人生を預けてきた足が使い物にならなくなったその時分には、朽ちるに任せるのではなく、自らこの足を切り落としてやろう。負けるのも、時間に蝕まれるのものごめんだ、と。

コーラスやアレンジは最小限に、感情を露わにせず、努めて音に溶け込み、歌詞の異様さを際立たせる方向性で淡々と歌い上げている印象を受けた。仕上がるまでの過程で、声を荒げてみたり、太い声を出してみたり、悲痛な叫びを入れてみたり、色々手を加えていたのだが、最終的に「良質な曲」へ落ち着かせた、そんな紆余曲折がありそうだ。表面化しない禍々しい死闘を、この曲から察してしまう。


12.光と闇、連綿たる歴史の濁流で
邂逅し、別れ、交わることなく僕らは共に行く
【輪廻転生】


コンセプトブックに書き下ろした文章がこの人だけなんか異様に多いなぁと素直に思った。いや、多いだろう、明らかに。シャノン氏、宇宙がどうとか世界の構造がどうとか言ってるし語り始めると止まらなくなるタイプだな(特大ブーメラン)。ところで脳内に“再演”されたバーチャル宮下遊さんってこちらじゃございません?違うか。

個人的に、集合的無意識とかアカシック・レコードとかいう宇宙の謎システムの存在を示唆する出会いだった。頼むからこれ以上私の潜在意識にアクセスしてアイデア盗んでいかないで欲しい。そしてそれをとんでもないクオリティで再現しないでほしい。怖くてあなたの新曲が聞けない。嫉妬で焼け焦げる。はい被害妄想。

もう【輪廻転生】については本人が素直にあれこれしゃべっちゃってるし、そんなに分析しても解釈が回り回って輪廻転生するだけだろう。クロスフェードで東南アジア民族音楽流れた時に好きは確定し、ずっと踊ってた。多分もっぷの前世あの辺だわ。ダンスは好きだけど下手すぎて部族間でいじめに遭い、村八分にされた最悪な過去があるから、今世でもダンスにコンプレックスを抱きながらもやめられずにいるカルマ背負って生きてる。

前回の「青に向かう」MVでも共通しているのは、二つの対となる人物?が登場するということ。彼はこの対極の片割れ目線で歌詞を紡ぐ。どうやら彼らは正反対で、世界線・次元階層を超えて生まれ変わり、なんの因果かめぐり逢い、仁義なき戦いを繰り広げるものの、僕は君にいっつも負けている。せめて100回戦って一回くらい勝たせてくれねぇかなって、また輪廻の扉を開く。しかし、本当に向き合わねばならない相手は、この輪廻転生という終わりなき世界システムの方だった、というオチ?
「青へ向かう」の続編を作りたかったという経緯もあり、あの世界線の白髪と黒髪の2人の出会いと別れが光と闇、昼と夜、エロスとタナトスのような根源的な二局性を帯びたメタファーにも思えてきた。私もそのシンボルを好んでよく作品に入れ込むけど、たぶんシャノン氏もそういうの好きそうだ。

入子構造になった次元階層の輪廻転生システムにおいて、共通して現れる、僕と君という二局性。これだけはどうにも逃れられない宿命らしいと当人たちはやんわり受け止めるが、実はその仕組み自体にすべての秘密は隠されている。僕らがいるかぎり、この歯車は回り続けるのか、案外僕らがいなくても回り続けるものなのかもしれない。その真理を決定づけ、支配しているものの先に、一体何があるのか。終わりと始まりがあることそのものに終わりも始まりもなく、結局永遠なのに、ひたすら繰り返しを演じさせられる僕らの存在意義を「空(くう)」だという人もいる。けどせっかくなら何かとてつもない重大な意味を見出してみたくなる。ミクロの中にマクロな広がりを見つけるように、マクロの方角にもまた、ミクロの始まりを見つけることができる。生を意識して初めて死を予感し、死を求めて初めて生きている今を知るように。対極が反転を起こすとき、このシステムも逆転するがしかし、見かけ上、何か変わっているとは気づけない。だから僕は100戦に1勝することも叶わないのだ。だって同じ時間を繰り返しているだけだから。この一連の時間の流れとやらを、俯瞰して見据える次元の視点が必要なのだとようやく気づくのだが、ではそれが実現すれば森羅万象を手にとるように理解できるのかというと、あまり自信がない。


13.ある朝自室のベットで目覚めると、
自分が巨大な蛙になってしまっていることに気づいた
【 キルマー(IDONO KAWAZUアレンジver.)】

不条理文学の申し子フランツ・カフカの「変身」よろしく、ボカロ界の片隅で不条理音楽を紡ぎ、聴く者・歌う者をカエルに変身させてしまうIDONOKAWAZU氏。
「ケロケロした音作り」を得意とすることからカエル(蛙)なのだろうか?鳥獣戯画をちゃっかり模写・オマージュしており、筆文字の歌詞やメッセージ、自身の私的な日常を発信するための写真ですらもわざわざモノクロ加工して投稿するといったこだわりぶり。可愛らしい音で風刺の効いた音楽を紡ぎ、何百年・何千年経ったのちの世に、作者やその意図は忘れ去られ多くの謎を秘めながらも、作品だけは愛され続ける。そういう未来を密かに夢見ての自己表現なのかもしれない。

和の基本的な美的感覚は「間」と「引き算」が主軸にある。賑やかな色彩の追求、その界隈の需要に応えた絵柄による競争戦略から逃れ、徹底した独自性を武器に戦うとなると、半端なことはやってられない。彼のオリジナル曲の歌詞からでもお察しの通り、彼は流行りには乗っかれないし、だからと言って分かりやすく目立った個性があるわけではないと自己分析している。そんなジレンマの中でなんとか生き残ろうと、丁寧に丁寧に、自身の世界観を確立している姿が健気で頼もしいと感じた。
ちなみに、VOCALOIDの人工的な歌声が苦手な私でも、歌みたに頼らず原曲を嗜むことのできる数少ない作曲者でもある。個人的には「猩々緋の飛語」がとても好き。

宮下遊なる存在を認知して間もない頃、彼の歌みた投稿動画を巡回していて出会った、ボカロらしくないモノクロの地味な蛙の墨絵。2020年代の人気曲から順におっていっていたので、おしゃれでハイセンスなカラーアニメーションMVがたくさん陳列する中、逆にその質素さが目を惹いた。「なんだか私の好きそうな作風だ。こういうニッチな曲も宮下遊は選りすぐって歌うのか」とマイノリティ然とした好感を覚え、ズブズブと遊毒に犯されていった。

今回のキルマーアレンジを聴いて確信(いや妄信かもしれない)を持てたが、KAWAZU氏の強みは作曲<<<<<<編曲にあるのではないかと思われる。宮下遊氏の歌った「匍匐する精神」に限っては随分尖った音の広がり方をするなぁと感じたが、あれは実は珍しいほうではないか?「猩々緋の飛語」など他の曲はサビに王道をぶち込んできている。周りにくっついた特徴的な音を削ぎ落としてテンポを落とすと、馴染みやすいメロになったりするのだ。つまり、素直に良曲が多い。

隷従していた女性の自我の目覚めと怒り→逆襲という心境の変化をそのまま生かしながら、KAWAZU氏の色に染め上げたという印象を受けた。もともとキルマーの世界線は現代ファンタジー(舞台は海外のよう)だし、主人公は悲劇を背負った美しい獣人のヒロインである。しかしこのアレンジでは、そういった虚構ならではの絵になる設定やドラマ性は排除され、もっと世俗的な、現実の問題を抱えたどこにでもいる一般人のもがきとふっきれを感じさせる。

一つあげるとすれば、これまで都合のいい優等生として周囲の操り人形を演じてきた女子高生が、現状に疑問を抱いて環境の支配から逃れるべく行動を起こす、といったような。もちろん、原曲キルマーもファンタジーという媒体を通して似たような感情経験を呼び起こす仕掛けにはなっているため、根本で両者は「同じ作品」である。
しかしスケールは明らかに異なる。KAWAZU氏は井戸の中にいて、井戸の中のことしか知らない。となると、キルマーという大海のごとき舞台設定を井戸に変えて再編されるのは必然だ。宮下氏が蛙になった気分で歌うしかないのもこのためだろう。原曲キルマーの、憧れのヒロイン像にはなれない。蛙のように地を這う惨めな女になるしかないのだ。
終始、意図して品性を欠いている。盛り上がるラスサビに至っては随分と汚い声でがなるがなる。本人からすれば相当必死なのだろうが、それが行き過ぎて側からみたら逆に面白く感じてしまう時ってあるだろう。息を呑んで見守っていた原曲キルマーの歌みたの時とは扱いが異なり、一番の笑いどころとなってしまっている。

聴者は主人公に対し、「かわいそう」と同情する気は起きず、惨めな様子をバカにして笑わう下賤なモブに成り下がる。その無自覚な残酷さが異様に生々しいものだと気づいた時、我々は現実の悲劇に対しさして感情移入することなく、喜劇に仕立て上げて遊ぶ本能があるのだと気づく。「聴者は」などと書いてしまったが、そんな薄汚い人間は私だけかもしれない。ただ謙虚さを盾にして、自覚はできていると言い逃れしよう。


99.終わりに

正直、ここまで読んでくれた人間はいないと思う。
だから私は、今から存在しない誰かに向かってお礼を言う。こんな長ったらしい拙文をよく最後まで読めたね。暇なの?ありがとう。

本アルバムの主役である宮下遊氏の歌に関して語っている文章が少なくなったな、と我ながらに思うし、あなたも思ったかもしれない。だが、それで良いのではないか?決して「歌は大したことなかった」わけではなく、1曲1曲の持ち味が最大限に生かされるよう、彼はボーカルという裏方に徹した。歌に気をとられて曲や歌詞、音作りの意図に集中できないものばかりならばこうはならない。なんたって『歌の奴隷』。その曲を歌っている自分ではなく、自分が歌うことでその音楽全体が評価されることが指針にあるのならば、彼の思惑は成功したと言えよう。

これは個人の偏見に塗れた所感だが、昨今のエンターテイメントや音楽、物語媒体などの創作物は、キャラクターをアイドル化して推し進めていくスタイルのものが流行る傾向にあるのではないだろうか?背景やBGM、物語までもが、そこに立つバーチャルな登場人物像を引き立てる影となり、大衆はその「人物」に惹かれ、「人物」を主軸として仮想世界に足を踏み入れる。作品の全体評価をしてくる受け取り手が現れるのは、よっぽどその作品が広まった後だろう。あるいはそもそも、全体評価をする消費者が飛び付かない。一通り集まったファンの情熱はキャラクターの魅力だけではなかなか保たないため、掘り下げどころ、楽しみどころを早い段階で見失い、市場に出回った新鮮な刺激の方へ手ぶらでスキップしていく。それまで夢中になっていたものを道端に放り投げて。ーーそんな風にすぐに飽きられ、消費され、美しい思い出として錆付く前に忘れられていくものも多い。ブームメントという大きな機体に嵌め込み、商業的利便性を叶えるためだけの換えが効く部品は、錆付くまで運用できないし、されてはならないからだ。

何がいい、何が正解という話ではない。ただそういった傾向を私がうっすら感じており、目まぐるしいビジネス戦略に報酬と承認欲求で釣られるクリエイターやパフォーマーは大変そうだなと憂うばかりだ。生き残りとはなんなのだろうか?自分だけの作品を殺して、自分が生き残ることだろうか?

「自分のことはどうでもいい」と、彼は言った。彼とはもちろん、宮下氏のことだ。彼は朝起きて数秒でPCの前に向かい、音楽活動を始めるという。時には水を飲むことさえ忘れ、10時間も作業に没頭し疲れたら眠りにつく。半年に一回だけメニューが変わる毎日の食料を摂取し、息抜きの娯楽といえば漫画を読むことや運動不足解消の自転車くらい。特にどこかに出かけたいという欲もなく、自室の狭い小宇宙でほぼ完結する彼の人生を、「セルフ捕虜」などとファンにまで形容される。はたからみてかなり特殊というか、簡略化されすぎて非人間的とも捉えられるが、何がどうして、彼はそんな生活を送っているのだろう?彼の経歴や育った家庭環境を鑑みれば、いろいろな憶測が飛び交うが、ひとつシンプルに言えることは、彼は世間に自分の判断を委ねることなく、自立した意思のもとに最低限の行動をとるということだ。

その証拠に、彼は自分の音楽活動を季節のイベントに絡めることが極端に少ない。好みや方針もあるのかもしれないが、世の中の流れにのっかって自分が効率良く売れていくことよりも、目の前の好きな音楽を仕上げることや、個人的な創作活動に力を注ぐことに集中していてそれどころではないのだろう。そもそも、巷で騒がれている季節イベントなどは、かつての企業が設けた販促戦略である。個々の人生の本質からはかけ離れている、虚像とまでは言わないがフィクションだ。「みんなが一つになる」気分を味わうためのエンターテイメントに、価値を感じないのであれば好きに振る舞えばいい。「クリスマスに一人ぼっちは人権がない」なんていう自虐は手の込んだ娯楽だろう。人間でない何かになれるなんて面白いなぁ、人によって年に二回ハロウィンがあるのか〜などと私なら思ってしまうが。

いいかげん話を戻してまとめよう(戒め)。なぜこんな無駄話をするかというと、私が認知する中で、「錆付くまで」聞かれた音楽、読まれてきた本、観られてきた映画はどのくらいあるだろうと考えてみたことから始まった。そして錆付く前にどこかへ消えていく作品との相違点を分析し、私もなるべく錆付けるものを世の中にぶん投げてから死にたいな、などと淡い希望を抱いたからだ。私の中でその答えはいくつか見つかったが、まぁ、そんなものは素人の拙い持論に過ぎないので、自分でやって証明していくしかないのだろう。だからここでは明記しない。そんな頼りない理論よりも、はるかに決定的な事実を残して、私の終わらない手記に幕を閉じることにする。

作品は永遠ではない。時代のどこかでいつかは古めかしくなり、錆ていくものなのだ。
しかし、年季の入った姿を見届ける誰かがいるということは、作品にとってこれ以上嬉しいことはない。それは、永遠に美しくあることよりも重要であると、私は思う。

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