01「エンドゲエム」/錆付くまで

1月20日リリースアルバム「錆付くまで/宮下遊」の感想noteとなります。
特典のコンセプトブックや対談CD、非公開MVについてもネタバレ有で触れてるので、未読未視聴の方はご注意ください。キルマーアレンジCD買いそびれ民(憐)。→2月27日追記:親切な遊毒者様に1枚譲っていただきました。ありがとうございます!note追加します。

錆付くまで/クロスフェード


生成された構造が錆付く前に、文字に留めておこうと思った。


コーティングされていない嘆声を吐き出すのは悲劇を嗤っているからか?
【エンドゲエム】

歌詞さえも楽器にして奏でるようなカオスナンバー。
毎度のことながら、キャッチーで可愛らしいアクセント的な音に反し、メロディは決して易しくないし、心情はグロテスクだ。確固たる独自の世界観を持ちながら、さまざまな声色を受け入れる不思議な柔軟性を備えているため、誰が歌ってもなんとなくハマる。
性差を感じさせない唯一無為の歌声と自由奔放な歌唱スタイルをもつ宮下遊氏にとっては、遊び場のような空間だったろう。

擬態語や直接的な単語を羅列する演出された「稚拙さ」が、今の絶望的な状態をもうこれ以上言葉として昇華できない余裕のなさとして印象付けられる。

前回同様、かいりきべにゃ氏の楽曲で幕を開けた彼のアルバムだが、初っ端から静謐な雰囲気を醸し出すアルバムジャケットとのコントラストが激しい。
宮下遊をほとんど認知していない人が、あのイラストに惹かれて本アルバムを手に取ったならば、きっとそのギャップに驚くことだろう。錆びつく、だから「エンドゲエムなのか?」とさまざまな自己解釈で耳に入ってきた音を理論付けしようと努めるかもしれない。やがて宮下遊というアーティストらしさというのが、自ら提示したイメージを次々に瓦解し、意表を突いていく姿勢にあるとその新参も学ばざるを得ない。

コンセプトブック後半にて、【エンドゲエム】はアルバム制作における苦悩が露見する曲だと宮下氏は語っていたが、少しわかるかもしれない。
彼は人間の負の感情を詰め込んだ曲を好んで歌うが、キルマーやアンヘルなどは、曲の中の登場人物になりきることを楽しんでいる遊び心を感じられた。しかし、【エンドゲエム】では俯瞰する視点を放棄してほとんど同化する態度をみせている。感情的な歌を歌う時の彼が使う「自嘲気味な」ニュアンスよりも、「私だけこんな目にあって」などというわかりやすい悲痛の方が際立っていたあたりにその差異がうかがえた。
表現者は時に、自分の経験した痛みや悲しみをそのまま創作活動に利用する瞬間があるが、その一番の受け皿となったのが彼にとっては【エンドゲエム】だったのだろう。

昨今は自殺率が高いと聞く。災難の当事者が求めているのは身勝手な希望の歌や中途半端な慰めの言葉でもなく、気付きたくなかった泥土のような感情を代弁してくれる娯楽なのかもしれない。
悲劇を、いっそ喜劇のように。悲劇を、悲劇然として陶酔することさえできない、追い詰められた精神がたどり着く最悪なバッドエンドは、往々にして誰も笑わないグランギニョールだ。

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