13 「キルマー(IDONO KAWAZUアレンジver.)」/錆付くまでAmazon先行予約特典

1月20日リリースアルバム「錆付くまで/宮下遊」の感想noteとなります。
特典のコンセプトブックや対談CD、非公開MVについてもネタバレ有で触れてるので、未読未視聴の方はご注意ください。キルマーアレンジCD買いそびれ民(憐)。→2月27日追記:親切な遊毒者様に1枚譲っていただきました。ありがとうございます!note追加します。→はい、この記事ですね。

錆付くまで/クロスフェード


生成された構造が錆付く前に、文字に留めておこうと思った。


ある朝自室のベットで目覚めると、
自分が巨大な蛙になってしまっていることに気づいた
【 キルマー(IDONO KAWAZUアレンジver.)】

不条理文学の申し子フランツ・カフカの「変身」よろしく、ボカロ界の片隅で不条理音楽を紡ぎ、聴く者・歌う者をカエルに変身させてしまうIDONOKAWAZU氏。
「ケロケロした音作り」を得意とすることからカエル(蛙)なのだろうか?鳥獣戯画をちゃっかり模写・オマージュしており、筆文字の歌詞やメッセージ、自身の私的な日常を発信するための写真ですらもわざわざモノクロ加工して投稿するといったこだわりぶり。可愛らしい音で風刺の効いた音楽を紡ぎ、何百年・何千年経ったのちの世に、作者やその意図は忘れ去られ多くの謎を秘めながらも、作品だけは愛され続ける。そういう未来を密かに夢見ての自己表現なのかもしれない。

和の基本的な美的感覚は「間」と「引き算」が主軸にある。賑やかな色彩の追求、その界隈の需要に応えた絵柄による競争戦略から逃れ、徹底した独自性を武器に戦うとなると、半端なことはやってられない。彼のオリジナル曲の歌詞からでもお察しの通り、彼は流行りには乗っかれないし、だからと言って分かりやすく目立った個性があるわけではないと自己分析している。そんなジレンマの中でなんとか生き残ろうと、丁寧に丁寧に、自身の世界観を確立している姿が健気で頼もしいと感じた。
ちなみに、VOCALOIDの人工的な歌声が苦手な私でも、歌みたに頼らず原曲を嗜むことのできる数少ない作曲者でもある。個人的には「猩々緋の飛語」がとても好き。

【猩々緋の飛語】

宮下遊なる存在を認知して間もない頃、彼の歌みた投稿動画を巡回していて出会った、ボカロらしくないモノクロの地味な蛙の墨絵。2020年代の人気曲から順におっていっていたので、おしゃれでハイセンスなカラーアニメーションMVがたくさん陳列する中、逆にその質素さが目を惹いた。「なんだか私の好きそうな作風だ。こういうニッチな曲も宮下遊は選りすぐって歌うのか」とマイノリティ然とした好感を覚え、ズブズブと遊毒に犯されていった。

今回のキルマーアレンジを聴いて確信(いや妄信かもしれない)を持てたが、KAWAZU氏の強みは作曲<<<<<<編曲にあるのではないかと思われる。宮下遊氏の歌った「匍匐する精神」に限っては随分尖った音の広がり方をするなぁと感じたが、あれは実は珍しいほうではないか?「猩々緋の飛語」など他の曲はサビに王道をぶち込んできている。周りにくっついた特徴的な音を削ぎ落としてテンポを落とすと、馴染みやすいメロになったりするのだ。つまり、素直に良曲が多い。

隷従していた女性の自我の目覚めと怒り→逆襲という心境の変化をそのまま生かしながら、KAWAZU氏の色に染め上げたという印象を受けた。もともとキルマーの世界線は現代ファンタジー(舞台は海外のよう)だし、主人公は悲劇を背負った美しい獣人のヒロインである。しかしこのアレンジでは、そういった虚構ならではの絵になる設定やドラマ性は排除され、もっと世俗的な、現実の問題を抱えたどこにでもいる一般人のもがきとふっきれを感じさせる。

一つあげるとすれば、これまで都合のいい優等生として周囲の操り人形を演じてきた女子高生が、現状に疑問を抱いて環境の支配から逃れるべく行動を起こす、といったような。もちろん、原曲キルマーもファンタジーという媒体を通して似たような感情経験を呼び起こす仕掛けにはなっているため、根本で両者は「同じ作品」である。
しかしスケールは明らかに異なる。KAWAZU氏は井戸の中にいて、井戸の中のことしか知らない。となると、キルマーという大海のごとき舞台設定を井戸に変えて再編されるのは必然だ。宮下氏が蛙になった気分で歌うしかないのもこのためだろう。原曲キルマーの、憧れのヒロイン像にはなれない。蛙のように地を這う惨めな女になるしかないのだ。
終始、意図して品性を欠いている。盛り上がるラスサビに至っては随分と汚い声でがなるがなる。本人からすれば相当必死なのだろうが、それが行き過ぎて側からみたら逆に面白く感じてしまう時ってあるだろう。息を呑んで見守っていた原曲キルマーの歌みたの時とは扱いが異なり、一番の笑いどころとなってしまっている。

聴者は主人公に対し、「かわいそう」と同情する気は起きず、惨めな様子をバカにして笑わう下賤なモブに成り下がる。その無自覚な残酷さが異様に生々しいものだと気づいた時、我々は現実の悲劇に対しさして感情移入することなく、喜劇に仕立て上げて遊ぶ本能があるのだと気づく。「聴者は」などと書いてしまったが、そんな薄汚い人間は私だけかもしれない。ただ謙虚さを盾にして、自覚はできていると言い逃れしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?