06「アート」/錆付くまで

1月20日リリースアルバム「錆付くまで/宮下遊」の感想noteとなります。
特典のコンセプトブックや対談CD、非公開MVについてもネタバレ有で触れてるので、未読未視聴の方はご注意ください。キルマーアレンジCD買いそびれ民(憐)。→2月27日追記:親切な遊毒者様に1枚譲っていただきました。ありがとうございます!note追加します。

錆付くまで/クロスフェード


生成された構造が錆付く前に、文字に留めておこうと思った。



創作活動のエンジンは、何かに対する怒り
【アート】

アートというタイトルから地獄を連想できる人は少ないように思われる。ロシアは、国土的には我が国のご近所様だが、意外にその言語については知られていない。まさか「アート」という音素を通じて地獄と芸術がつながるとは考えもしなかった。面白い着眼点だ。

日常会話に浸透していてつい忘れがちだが、地獄とは宗教概念だ。実際には誰もその場所を知らない、知らないが故に憶測の余地があり、使い勝手のいい言語として運用されている。しかし、この【アート】では俗物的に比喩される地獄(のような)情景ではなく、立ち戻って宗教的なニュアンスをそこに込めている。
天界が是としてあるならば、地獄(アート)は対となる非。であるならば、同じような音素を宿した芸術(アート)とは神への反逆として生じた人類の営みなのだろうか?分からなくもない。我々は神に与えられたものだけでは飽き足らず、創造主の真似事をして奇妙奇天烈なものを生み出している。
しかし、皮肉なことにその構造はすべて神が創り出した自然界の「パターン理論」に依存する。科学技術しかり芸術も、黄金比などはその最たる例であろう。我々の美的感覚はいまだ創造主の支配下にある。神の贋作を生み出すことで神に抵抗しようとしているというのは、なんとも憐憫極まりない。
だが持論を述べると、この創造主の解釈を新たに更新することこそが創造主の支配を逃れる唯一の鍵であり、その発端の一部にはやはり科学や芸術が含まれていると推察している。

言語の偶然の一致から着想を得た哲学というものを、宮下氏はどう受け止めたのだろう?
彼のイラストやオリジナル曲によく見られる独自の世界を、私はこう捉えることがある。機械と自然が不器用に調和した荒廃から誕生の物語。一度死に、新しく生まれていく過程を、彼はそっと絵の中に閉じ込める。維持し、破壊され、また創造されるサイクルにおける……ここでは破壊のプロセスを担う。

「歌詞が書けない自分への憎悪に駆り立てれ、なんだかんだ作業の進みがいい」などと宮下遊氏がツイートしていたことを思い出した。そういう瞬間、結構あるのではないか?私も自分自身へ罵詈雑言を浴びせながらアドレナリン大放出して作業している時の方が明らかにスムーズで無駄が減る。アイディアを練る時以外の、考えたものを構築する作業においては、緩んだ思考回路で何かやろうすると惰性になりがちだ。そういう姿勢を繰り返していると後で必ずツケが回ってくる。

と、その類の「怒り」ではないかもしれないが、往々にして創作活動というものは、何かに対する強い反感や反骨精神が後押しする面も非常に多いのではないかと思われる。
個々のクリエイターがどのような動機で「創りたい」意欲が湧いてくるのか様々だと思うが、私などは現状へ対する「アンチテーゼ」が創作の源泉になっている。世の中に蔓延る「テーゼ」への破壊衝動。判で押したようなつまらない煽り文句で押し付けらる事物に囲まれ居心地が悪く、なぜ誰もこの状態に疑問を抱かないのだろうという疎外感と憤りが生まれる。そして、「誰もやらないなら自分がやってやる」と、はらわたで錬成された凶器を研ぐようになる。いつの日かその刃で、他者の既成概念を切り刻むことを夢みて。

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