99終わりに/錆付くまで

※この文章は、錆付くまでの感想note総集編「君、音の水間に錆付く」に添えたエピローグです。

正直、ここまで読んでくれた人間はいないと思う。
だから私は、今から存在しない誰かに向かってお礼を言う。こんな長ったらしい拙文をよく最後まで読めたね。暇なの?ありがとう。

本アルバムの主役である宮下遊氏の歌に関して語っている文章が少なくなったな、と我ながらに思うし、あなたも思ったかもしれない。だが、それで良いのではないか?決して「歌は大したことなかった」わけではなく、1曲1曲の持ち味が最大限に生かされるよう、彼はボーカルという裏方に徹した。歌に気をとられて曲や歌詞、音作りの意図に集中できないものばかりならばこうはならない。なんたって『歌の奴隷』。その曲を歌っている自分ではなく、自分が歌うことでその音楽全体が評価されることが指針にあるのならば、彼の思惑は成功したと言えよう。

これは個人の偏見に塗れた所感だが、昨今のエンターテイメントや音楽、物語媒体などの創作物は、キャラクターをアイドル化して推し進めていくスタイルのものが流行る傾向にあるのではないだろうか?背景やBGM、物語までもが、そこに立つバーチャルな登場人物像を引き立てる影となり、大衆はその「人物」に惹かれ、「人物」を主軸として仮想世界に足を踏み入れる。作品の全体評価をしてくる受け取り手が現れるのは、よっぽどその作品が広まった後だろう。あるいはそもそも、全体評価をする消費者が飛び付かない。一通り集まったファンの情熱はキャラクターの魅力だけではなかなか保たないため、掘り下げどころ、楽しみどころを早い段階で見失い、市場に出回った新鮮な刺激の方へ手ぶらでスキップしていく。それまで夢中になっていたものを道端に放り投げて。ーーそんな風にすぐに飽きられ、消費され、美しい思い出として錆付く前に忘れられていくものも多い。ブームメントという大きな機体に嵌め込み、商業的利便性を叶えるためだけの換えが効く部品は、錆付くまで運用できないし、されてはならないからだ。

何がいい、何が正解という話ではない。ただそういった傾向を私がうっすら感じており、目まぐるしいビジネス戦略に報酬と承認欲求で釣られるクリエイターやパフォーマーは大変そうだなと憂うばかりだ。生き残りとはなんなのだろうか?自分だけの作品を殺して、自分が生き残ることだろうか?

「自分のことはどうでもいい」と、彼は言った。彼とはもちろん、宮下氏のことだ。彼は朝起きて数秒でPCの前に向かい、音楽活動を始めるという。時には水を飲むことさえ忘れ、10時間も作業に没頭し疲れたら眠りにつく。半年に一回だけメニューが変わる毎日の食料を摂取し、息抜きの娯楽といえば漫画を読むことや運動不足解消の自転車くらい。特にどこかに出かけたいという欲もなく、自室の狭い小宇宙でほぼ完結する彼の人生を、「セルフ捕虜」などとファンにまで形容される。はたからみてかなり特殊というか、簡略化されすぎて非人間的とも捉えられるが、何がどうして、彼はそんな生活を送っているのだろう?彼の経歴や育った家庭環境を鑑みれば、いろいろな憶測が飛び交うが、ひとつシンプルに言えることは、彼は世間に自分の判断を委ねることなく、自立した意思のもとに最低限の行動をとるということだ。

その証拠に、彼は自分の音楽活動を季節のイベントに絡めることが極端に少ない。好みや方針もあるのかもしれないが、世の中の流れにのっかって自分が効率良く売れていくことよりも、目の前の好きな音楽を仕上げることや、個人的な創作活動に力を注ぐことに集中していてそれどころではないのだろう。そもそも、巷で騒がれている季節イベントなどは、かつての企業が設けた販促戦略である。個々の人生の本質からはかけ離れている、虚像とまでは言わないがフィクションだ。「みんなが一つになる」気分を味わうためのエンターテイメントに、価値を感じないのであれば好きに振る舞えばいい。「クリスマスに一人ぼっちは人権がない」なんていう自虐は手の込んだ娯楽だろう。人間でない何かになれるなんて面白いなぁ、人によって年に二回ハロウィンがあるのか〜などと私なら思ってしまうが。

いいかげん話を戻してまとめよう(戒め)。なぜこんな無駄話をするかというと、私が認知する中で、「錆付くまで」聞かれた音楽、読まれてきた本、観られてきた映画はどのくらいあるだろうと考えてみたことから始まった。そして錆付く前にどこかへ消えていく作品との相違点を分析し、私もなるべく錆付けるものを世の中にぶん投げてから死にたいな、などと淡い希望を抱いたからだ。私の中でその答えはいくつか見つかったが、まぁ、そんなものは素人の拙い持論に過ぎないので、自分でやって証明していくしかないのだろう。だからここでは明記しない。そんな頼りない理論よりも、はるかに決定的な事実を残して、私の終わらない手記に幕を閉じることにする。

作品は永遠ではない。時代のどこかでいつかは古めかしくなり、錆ていくものなのだ。
しかし、年季の入った姿を見届ける誰かがいるということは、作品にとってこれ以上嬉しいことはない。それは、永遠に美しくあることよりも重要であると、私は思う。

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