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体育における「できる」と「わかる」

 「できる」と「わかる」の距離が遠いとされる体育。

 運動のポイントを知識として頭の中にしまっても、できるようになるとは限らない。また、ポイントなんて全く意識していないにもかかわらず「なぜか」できてしまう子もいる。

 これまでの体育では「できる」ことができていればそれでOKとされていた側面があるのではないかと思う。しかし、これからの体育では「自覚的に学ぶ」ことが大切になってくる。「できる」と「わかる」をつなげていく授業だ。

 ただし、そもそも体育における「できる」と「わかる」って何だろうか、というところを考えないと議論を前に進めることはできない。そこで、今回はこのことについて考えてみたい。

体育における「できる」

 これに関しては、多くの人のイメージに大きなズレはないと思う。技が「できる」、優れたプレーが「できる」といったイメージだろう。では、この逆、つまり「できない」とはどういう状態かを考えてみよう。技が「できない」、優れたプレーが「できない」…こうした子は本当に「できない」子なのだろうか。

 逆上がりという、日本人なら誰でも「知っている」技がある。まさしく「できる」「できない」がはっきり分かれる運動というイメージだ。しかし、「できない」とされる子の動きをよく見ていると、そこにはかなりの「幅」があることに気が付く。一瞬の逆さ姿勢が怖い、脚を踏み切る位置がつかめない、鉄棒に体を引き寄せられない、体幹が締められない、手首を返して起き上がれない…。「できない」も様々だ。

 しかし、逆さになることができなかった子が思い切って逆さになることができた、踏み切りができなかった子が力強く踏み切ることができるようになった、というのは、その子にとっては貴重な「できた」である。こういう小さな「できた」を教師が認め、友達に祝福され、子ども自身も成長を自覚していくようにすることが大切なのである。

 体育における「できた」は、決して完成形を求めるものではない。子どもの運動感覚を伸ばしていくことであり、その過程にいくつも現れるものである。そして、それを教師が見逃さずに認めていくことが大切である。

体育における「わかる」

 イメージとしては「運動のポイントを知る」という感じだろうか。私は小学生のころ、先述した「逆上がり」ができなかった。教えてもらうこともなかったように思う。中学校に進学しても鉄棒の授業があった(今はない所が多い)のだが、そこでもまともに教えてもらうことはなく、無為に時間が過ぎていく。そして「テスト」が宣告される。焦った私は、当日の朝、保健体育の教科書(副読本)を読み、「脇を締める」というポイントを知る。そして迎えたテスト。なんとその場で人生初の逆上がりを成功させたのだ。

 さて、私が逆上がりについて「わかった!」と実感したのはいつのことだろうか。教科書を読んだとき? 確かに、「なるほどそうか」とは思った。しかし、本当に「わかった!」と実感できたのは、やはり成功したその瞬間であったように思う。

 運動学習において、「わかった!」と実感できるのは、誰かから運動のポイントを教えてもらったり、本を読んだりしたときではない。やはり、自分の体を通して「うまくいった」ときではないだろうか。そう考えると、体育において「わかる」を「できる」と切り離して考えることはあまり意味がないことであろう。

 体育では「体でわかる」ということが必要なのである。教科書通りの「運動のポイント」を知ることも大切なのだが、運動の知識はそうした「宣言的知識」というよりも「手続き的知識」に分類されるものなので、「体でわかる」ことが欠かせない。「ポイントはよくわかったけどまだできる感じがしない」という状態の子に対して、実際に体に触れて「お手伝い(運動の補助)」をすることで、「体でわかる」ことにつなげていきたい。また、そうした子は「ポイント」はわかったけれども「コツ」や「カン」がわからない、という状態でもある。授業では様々な子から「こんな感じ」という言語的、動作的な「コツ」や「カン」を引き出していくことも考えていかなくてはならない。

「できる」と「わかる」をつなげる

 「できる」と「わかる」をつなげる、という視点で研究する附属小などもあるのだが、個人的には、「できる」と「わかる」はそもそも「つながっている」という認識である。ただ、ここであえて「つなげる」という視点を持ち出すのは「ポイントを一方的に教えて指導したことにしてしまう」授業があるからである。いや、ポイントを教えてくれるだけでも自分が子どものころのことを考えるとありがたいのだが、体育が教科として生き残るにはやはりそれでは足りない。

 そこで有効な視点が、体育授業のユニバーサルデザインで提案されている「焦点化」「多感覚化」「共有化」という視点である。この視点を用いて授業を工夫することで、「できる」と「わかる」が一体となった学習が成立していくのではないかと考えている。長くなったので、これについては次回。

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