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「けんかえれじい」鈴木清順監督作品

鈴木清順監督の「けんかえれじい」が、AmazonPrimeで月額会員になれば、無料で視聴できる!!

映画の神様は、唯一無二、類稀な天才監督を産み出す。
もちろん人によって、何をもって「天才」とするかは、様々であると思うが、ボクにとっては、何といっても鈴木清順監督を挙げさせていただく。

マンガ的で斬新なカット割り

実は、ボクは、何をかくそう、高橋英樹演じる主人公「南部キロク」が岡山で副団長となる、「OSMS団」=OKAYAMA SECOND MIDDLE SCHOOLが組織された、旧制岡山二中、現岡山県立岡山操山高校の出身である。

そして、最初にこの「けんかえれじい」を知ったのは、高校在学中、通っていた、旧制岡山一中出身の塾の先生から、「類稀な名作だ!!」と教えていただいた!

しかし、正直なところ、その後、大学に入ってから、最初にこの「けんかえれじい」を観た時、ボクの第一印象としては、あまり芳しいものではなかった。

実は鈴木清順監督作品としては、ボクはこの「けんかえれじい」の前に、「ツィゴイネルワイゼン」を観ていた。
「ツィゴイネルワイゼン」は、難解ではあるが、非常にファンタジックな印象を持ち、どちらかというとアーティスティックな繊細さに、魅力を感じたところがある。

ところが、この「けんかえれじい」は、「喧嘩数え歌」に始まり、学校の先輩との最初のけんかなど、軽快なテンポで、滑稽で破天荒、問答無用な勢いでストーリーが進んでいく。

その際たる部分が、前半の、南部キロクの先輩「スッポン」による竹林の中での「喧嘩修行」における描写だ。

どちらかというと「マンガ的」とも言える描写だと思う。
学生当時、単館映画館のヨーロッパ映画のゆるやかなテンポに浸り過ぎていたボクは、その斬新すぎるカット割りについていけず、何となく嫌悪感さえ感じてしまい、その後も感情移入できぬまま、この名作「けんかえれじい」を見終えてしまったのだ。。。ボクは、なんという残念な!!

散りばめられた耽美で繊細な描写

今回、改めて「けんかえれじい」を見直してみると、
さすがは天才、鈴木清順監督!
エンターテインメント性たっぷりなマンガ的描写で観客を引き付けながら、それと対比されるような、耽美で繊細な描写をふんだんに盛り込んでいるのである。

ピアノと桜吹雪、そして、最後の障子越しに伝う指先!!

いや、繊細なのは、高橋英樹演じる「南部キロク」も同じだ。
喧嘩ばかりしていて一見、粗暴に見えるが、実は物腰柔らかな語り方で、敬虔なクリスチャン。
そして、毎回喧嘩の啖呵を切っておきながら、その後、必ずと言ってよいほど、くよくよと悩む姿が描写される。
特に、恋する道子を前にしては、緊張しすぎて、大きな体で、もじもじ、くねくね、必ず弱い自分が出てきてしまう。

発射しないからこそ美しい

そう、浅野順子演じる「道子」は、その可憐さの中に、「母性」への憧憬を内包している!!
南部キロクにとって、道子こそ、母であり、「マリア様」そのものなのである。

だから、南部キロクは、迸るリビドーを感じながらも、「聖母」を汚すことを恐れている。

後半の会津喜多方中学の同級生から「自慰行為」について問われたとき、「喧嘩で発散するんだ!!」と答えるキロク。

そう、南部キロクは最後まで、発射しない。
衝撃のシーン、過剰なまでに迸るリビドーのため、キロクはチンポでピアノを弾いてしまう!!
全く、ボクが原作主演した映画「Kenji」もびっくりのシーンである!!

しかし、そこに射精行為は無い。
けんかこそ、南部キロクの迸るリビドーの昇華行為なのだ!

権力への抗い

「聖母」への汚すことができない思いに対して、キロクが一貫して抗ったものは「権力」である。
岡山では、教練に来ていた軍人に抗い、岡山を追われることになる。
喜多方では、弱いものを馬鹿にし、長いものに巻かれるクラスメートを「百姓根性の山猿だ」と一喝し、その後、会津若松の昭和白虎隊と痛快な大ゲンカになる。

キロクが活躍し、ボクの出身校でもある、旧制岡山二中。
いつの時代にも、形の差はあれ、「スクールカースト」は存在したのだなぁと思う。
人間が集団で社会生活を営む限り、何らかの権力が生まれ、そこを頂点とした序列ができる。
もちろん、現代においても、社会の中に顕在化しない「カースト」は存在するのだ。

そんな、権力と序列を打ちのめしていくキロクの姿は、見ていて非常に爽快なものがある。

そして、その権力への抗いこそ、天才鈴木清順監督が、綿密にこの「けんかえれじい」に織り込んだ、「日本」、「日本人」への、大いなる皮肉なのである。

ミルクホールは大人の世界への入り口

松尾嘉代演じる気怠い女給。
キロクのケンカ仲間で、俳句を手ほどきしてもらった金田からしてみると、恋焦がれる憧れの相手だが、キロクにとっては、道子以外の女の子は物の数ではないらしい。
ミルクホールに入って「金田は来てないか?」と聞いて、ストーブに当たる辺り、非常に堂々としている。

なんとなく、こんな堂々としたしぐさからも、会津に来てからのキロクは、着実に大人の階段を昇っていることを描写しているように感じる。
しかも、松尾嘉代は、金田からの手紙をストーブで燃やした後、キロクの手を取り、占うようなしぐさをして、何も言わない。
松尾嘉代には、キロクの将来が見えている。

会津の「昭和白虎隊」という、徳川の末裔=言わば「前時代」に打ち勝ったキロク。

キロクの時代が来ている!とも言えるのではないだろうか。

「何も言わない=見せない」という手法で描写されると、何か途方もない未来を予感させられる。
その後、うっすら笑みを浮かべる(ように見える)松尾嘉代の表情からも、なんとなく希望的な未来を感じさせられてくるのは、ボクだけであろうか?

ちなみに、松尾嘉代の手のひらを見せない「幽霊」のしぐさから、このミルクホールを「異界」と解釈する論もあるようだが、この「けんかえれじい」においては、霊魂的な「異界」というよりも、単純に「大人の世界への入り口」と観る方がしっくりくる気がする。

そして、ミルクホールでのただならぬ者を感じさせる「北一輝」との出会い。

過剰に妖艶な照明の演出も相まって、全体が不自然に感じる場面かもしれないが、思い出してみると、青春の一時期、大人の世界を見せられ、そして打ちのめされた場所は、誰もが、大なり小なり、どこかしら思い当たるところがあるのではないだろうか?

ボクにとっては、クラブだったなぁ。
岡山で初めていったクラブで、Kyoto Jazz Massiveのライブ聴き、東京で初めて出会った小西康陽さんのDJに出会う。

何となく、ボクもあの衝撃を思い出した。

このラストシーン、ボクとしてはアリかも

「道子」という母を失い、決定的に、キロクは少年から大人になる。
そこでキロクに迫ってくる「権力」とは、他ならぬ「国家」である。

軍人の行進は、キロクが、神聖にして汚さなかった道子を翻弄しながら、暗いトンネルの中に突き進んでいく。

そして、二・二六事件!

以前にも書いたが、本当に、現在の日本の学校では、日本の現代史を全く教えない。
受験に出ることも少ないから、まともに教わることが無い。

そもそも歴史の教え方として、小学校、中学校、高校と、毎回毎回、縄文、弥生、大化の改新・・・と、順番に教わって、現代史は、いつも卒業式前のドタバタでうやむやになるのだ。

二・二六事件についても、「軍の力を強めたい青年将校によるクーデター」と教えられるだけである。
教わった日本史では、何だか「大正デモクラシー」「自由民権運動」に対する、軍部の反発のような印象だった。

今更ながら、再度、二・二六事件について、調べてみた。

いやいや、学校で教わったこととはちょっと違うぞ!!
確かに、結果として「二・二六事件の後、軍の力が強まった」のではあるが、根底には、昭和恐慌以降の市民、農民の困窮や、大企業、財閥中心の政治の腐敗に対しての、天皇を中心とした国家建て直しの為の「昭和維新」革命!!

うーん、何だか、現代にもつながるような。。。

鈴木清順は、わざわざ元の脚本を変えてまで、キロクと北一輝との出会いを描き、北一輝の元を目指して東京に向かうところで終結する。
この「けんかえれじい」は、続編ありきの作品で、「続けんかえれじい」の台本も書かれたらしいし、このラストシーンも、賛否分かれるものとなっているが、キロクがどのように活躍したのか?
観客の想像に任せるこのラストも、ボクとしては、アリかと思う。

実際には、ご承知の通り、二・二六事件は、軍部の力が強まったとはいえ、「昭和維新」革命としては、失敗に終わり、北一輝も処刑されてしまうのである。

キロクの生涯が、日本の歴史と混ざりあったとしても、実際の日本の歴史は、キロクのように、痛快に権力に抗う歴史ではなかったのだから。

いや、それでも、天才鈴木清順は、ボクの想像もできない、痛快で破天荒なキロクの生涯を描いていたのであろうか??

鈴木清順亡き現代において、キロクの破天荒で痛快な、「日本」という権力への抗い方を考え出すのは、もしかしたら、残されたボクらの課題なのかもしれない。

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