お昼休みの終わりに、会社の給湯室で弁当箱を洗っていたときにそれは起きた。シンクの片隅で一つの泡が際限なく大きくなり始めたのだ。僕はもちろん初めからそれを注視していたわけではなかった。ほとんど心を無にして弁当箱をスポンジで磨いていただけだ。これをしなければ、帰ってから妻に小言を言われる。だから仕方なく洗っているだけの最中に、それほど大した考えを巡らせているわけがない。視線だってまっすぐに手元に落としたままだった。
 しかしその泡はすぐに否応なく僕の注意を引くことになった。非常に滑らかに、まったく一定の速度でその泡は巨大化していた。まるで早送り動画みたいだな、と僕は思った。すぐにそれはシンクの半分を覆い、そしてシンク全体の大きさを超えた。僕の身体と腕は泡の外にあり、僕の両手は泡の向こう側にあった。変だな、と思ったときにはすでに僕の全身は泡の中にあった。
 僕は深呼吸をしてみた。不思議なことに特に石鹸の匂いはしなかった。いや、したのかもしれないが、それが泡の中にいるからなのか、もともと弁当箱を洗っているときからしていたものなのか、僕には判断がつかなかった。つまり、変化というほどのものは感じられなかった。そして一度すっぽりと泡の中に入ってしまうと、すぐにもうそこが泡の中なのかどうかも分からなくなった。すでに泡は巨大化して部屋を覆い、壁の向こうへと広がっていったからだ。
 僕は呆然とあたりを見回したが、泡が壁の向こうまで広がりつづけて視界から消えたこと以外はうまく認識ができなかった。泡は割れなかった。その点に関しては僕には満腔の確信があった。泡は膨張し続けているのだ。あの速度だと、すでにこのビル全体も泡の中に入っているに違いない。
 僕はもう一度呼吸を意識したが、いつもと違う感覚は何一つ見つけられなかった。ただ自分が、いやこの会社全体が一つの巨大な泡の中にいるという確信を除いては。
 僕は弁当箱をいつもと同じように水で洗い布巾で拭いてから、足早に給湯室を出た。そしてできるだけ何気なくフロアを歩き回り、気軽に雑談のできる顔を見つけて話しかけた。
「泡を見なかった?」と僕は聞いた。
「泡?」と彼は言って、やや時間があってから悪戯っぽく口元を歪めた。「おいおい、何の話だ? まだお昼だぞ」
「いや、いいんだ、違うんだよ」と僕は言った。何でもない、と口にしかけてから、もう一度考え直した。「さっき給湯室で弁当を洗ってて、結構たくさんのシャボン玉を飛ばしちゃってね。こっちにこなかったと思ってさ」
「シャボン玉?」と彼は言った。
 僕は彼が何か気の利いたことを言おうと頭を回転させている間にそそくさと立ち去った。
 今ではこの国全体があの泡の中に入っただろう。あの泡はどこまで広がるのだろうか。国境みたいなものは関係してくるのだろうか。しかし僕には国境は関係ないだろうという気がした。それが泡というものなのだ。

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