「まなざし」から溢れ出るもの(大島渚『戦場のメリークリスマス』)
たった一つのシーン、そのたった一言のために、それ以外のすべてのシーンが存在しているんじゃないかと思える映画がある。大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』を観て僕はそうだと思った。
独房のラストシーン。処刑を翌日に控えたハラとロレンスがひと通りしゃべり終えると、無言になった二人の視線から逃れるようにカメラが頭上へと移動する。しばらくして立ち上がったロレンスは別れの言葉を口にし、ハラと顔を合わせることなく独房をあとにしようとする。その背中向かってハラが大声で呼びかける。「メリークリスマス!メリークリスマス!Mr.ロレンス」。ロレンスとハラの美しいまなざしが交差し、坂本龍一の音楽とともに物語は大円団を迎える。思い返すだけでゾクゾクするようなラストシーンである。
僕はこの物語に必要以上の解釈を与えたくない。ありきたりな表現は、この作品が内包する静かな美しさを汚してしまうような気がするからだ。この映画は「まなざし」によって語られるべき映画なのだ。
思い返してみると、この映画ではハラ、ロレンス、そしてセリアス、ヨノイ少佐の4人のまなざしが象徴的に映し出されていることに気がつくはずだ。ハラとセリアスが最初に出会ったシーン。英語を解さないハラの顔を見たセリアスは「変な顔だ、しかし美しい眼をしている」とロレンスに感想をこぼす。このセリフはラストシーンへの布石である。そして裁判のときにはチラと目をやっただけのセリアスとヨノイ少佐のまなざしの交差は、ストーリーが進むほどに深まってゆく。そもそも、ボウイと坂本龍一は「眼」によってものを語ることができる稀有な存在であって、その二人が偶然の末にキャスティングされたのは奇跡としか言いようがない。さらに、セリアスの形式的な処刑のシーンでも、セリアスと日本兵たちの間で「まなざし」に関するやり取りが行われる。「目隠しをするのはお前のためではない、我々が貴様の死にゆく瞳を見ないためだ」と。
この四人は、決して分かり合うことが許されない「敵ー味方」という関係性であった。しかし一方で、彼らはみな一様に「表に出してはいけない感情」を心の奥底に抱いていたように思える。戦場における狂気と違和感のジレンマが、あの熱帯雨林に建てられた小さなキャンプに彼らのいのちをつなぎ止めていたのではないだろうか。そして、この四人の関係を中心にして繰り返される「期待」→「裏切り」→「期待の回復」というサイクルこそが、客観的に見れば淡々と進むだけの二時間のストーリーに私たちを引き込むのだろう。
この物語から連想するのは、小説家の大岡昇平が『レイテ戦記』の中で描いた、彼が戦場で実際に体験したとあるエピソードである。大岡が一兵士としてレイテ島の熱帯雨林で戦っていたときのこと、密林の出会い頭で一人のアメリカ兵に遭遇し、銃刀で殺そうとした。その瞬間、腰を抜かして無抵抗でこちらを見つめるアメリカ兵の青い瞳を見た大岡は、「急に殺意が失せてしまった。なぜ自分が目の前の一人のアメリカ人の青年を殺さなければいけないのか分からなくなってしまったのだ」と回想している。
「眼」は外界に唯一開かれた身体の内側であり、私たちはこの二つの小さな内界を通じて相手と対峙する。「憧れのまなざし」や「目は口程に物を言う」という慣用句が示すように、「まなざし」は言葉や外見といった外側に表れている要素とは別の次元で相手との関係性を構築し得るのだ。
日本兵にとっては「今日まで信じてきたものを否定することは自分、そして天皇という名の神を否定することと同じだ」という呪いのごとき規範。イギリス兵にとっては「キリストの教えと自己の罪」という理想と現実のジレンマ。「戦場」という狂気の共同幻想が立ち現れる場において、それぞれがそれぞれの立場で守らなければいけない外面的な規範が、普段意識され得ない「まなざし」という内面的な働きによって打ち壊されるギリギリの境界線、そのどうしようもない感情のせめぎ合いを描いたのがこの『戦場のメリークリスマス』という映画なのではないかと僕は思う。ラストシーンではじめて見せる二人の涙は、彼らが出会って以来、自分自身の内界に押しとどめざるを得なかった感情の現れそのものに違いない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?