よりみちを道とすること(あるいは27歳の決意表明)
先日、晴れて27club(27歳でこの世を去った天才たちの総称)に入会できる年齢を迎えたわけですが、僕とジミ・ヘンドリクスの一番の違いは人の心に届く仕事をひとつも果たしていないことであって、引き続き見知らぬ誰かの心の片隅を目指してしぶとく生き抜いてやろうと思います。
27歳のコンセプトは「よりみち」
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』といういささか意味の渋滞が起きているタイトルの絵を描いたのはポール・ゴーギャンですが、そもそも人生に意味なんてあるのだろうか。せっかく思想の国から南の島へ飛んだのだから、頭を使うのを一旦やめて自然の空気を目一杯吸い込めばよかったのに。まあそうじゃなかったからこそゴーギャンはゴーギャンたり得たわけで、そんな彼の絵画に惹かれてしまう自分もいるわけですが。
整体の祖と言われる野口晴哉は、「ロダンの『考える人』は一体何を考えているか」という問いに、人は未来のことを考えるとき身体が上向きになる、だから身体を縮こめ俯いているこの男性はひどく現実的なことを考えているのだろう、という想像の斜め上をいく回答を提示しています。しかし上を向いたからといって「考えない人」にはならないわけで、僕はゴーギャンよろしく、過去のことも未来のことも青空を見上げながら「考える人」でありたい。いや、むしろ椅子から立ち上がって「走りながら考える人」でありたいのです。
近頃、巷では「デザイン思考」とか「自己啓発」とか「資格」とか、仕事や人生への実装を目的としたコンテンツが溢れかえっています。しかし、即時的かつ具体的な成果や解決法を求めるあまり、世界の機微や抽象を味わえなくなってしまうということが往々にしてある気がする。本当に面白いものは「分からなさ」とか「なんてことなさ」にこそ潜んでるのではないでしょうか。
そこで僕は「よりみち」を27歳のコンセプトに据えたい。みんなが果てのない大通りを爆走するのを尻目に、速度をぐっと落とし、時に立ち止まって道沿いの景色をじっくりと味わってみる。面白そうな横道があれば風の吹くままに足を向けてみる。ただし、ここで言う「よりみち」は大通りに対してのよりみちという意味ではありません。世界に心を澄まし、僕の名前を呼ぶ方向に全力でよりみちしまくる、その足跡をつなぐことで自分だけの大通りにしてしまおうということです。
「よりみち」は必ずしも社会的意義や人生の意味を含んではいません。むしろ、意味のないものや社会に実装できないものの方が多いかもしれない。唯一、確かにあると言えるのは「なんか面白そうだなぁ」という直感だけです。まあしかし人間というのは自分にとって「面白いもの」に夢中になれますし、夢中になっているときってめちゃくちゃ効率が良いですから、結果的に良いものが生まれるんですよね。「人の見残したところにこそ、本当に大切なものはある(宮本常一)」。そんなわけで、27歳は目一杯よりみちをしながら生きていこうと思うのでした。
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