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線上のキンクロハジロ 第三十話

 林田は途中で帰ったが、残りのメンバーは妃沙子の部屋に移動し、ワニ肉を焼いて食べることにした。響谷と登美彦は缶ビールを手に持ち、妃沙子と高槻はそれぞれシチリア産レモンとグレープフルーツのチューハイ、飲酒年齢に達していない春斗はコーラで乾杯する。

「焼けた、焼けた。さあ食べよう。じゃあトミー、分けて」

 ワニ肉を大皿に乗せて運んできた響谷が家主のように振る舞っている。ワニ肉をグリルでこんがり焼くと、見た目のグロテスクさは多少だが軽減した。響谷に命じられた登美彦がワニ肉を人数分に切り分け、紙皿に盛る。

「私は遠慮しておきます。臭みのある肉って、ちょっと苦手で」

「ぼくも」

 怖いもの見たさで付いてきたらしい高槻が控えめに言うと、春斗もしっかり便乗した。

「沙梨ちゃんはいいけど、ハルちゃんは食べなきゃダメだよ。人生、なにごとも経験だよ」

 響谷が酔っ払い上司のような訓示を垂れると、春斗が嫌そうな顔をした。

「じゃあトミー、栄えある一口目ファースト・バイトをどうぞ」

「はい、いただきます」

 クロコ革の部分はさすがに食べられそうもなかったので、手羽先部分をフォークとナイフで小分けにして食べると、やけにねっちゃりとした食感で、どことなく鶏肉のような味がした。表面はパリパリに焼けていたが、中までは火が通っていなかったのかもしれない。

「ちょっと淡泊だけど、食べられないことはないですね。鶏肉みたいな味がします」

「ほんとうだ。良い焼き加減だね。酒のつまみにちょうどいい具合だよ」

「うわっ。私、この食感無理だ」

 登美彦と響谷は平気でワニ肉をパクついていたが、一口だけ食べた妃沙子は眉をひそめ、鼻をつまみながら嫌々食べた春斗はコーラで飲み下している。

「ハルちゃん、どう。美味しい?」

「なんか変な味がします」

「まだいっぱいあるから遠慮せず食べてね。皿に盛られたものはノルマだから」

 春斗は紙皿に残ったワニの肉片を見て、うんざりとした表情を浮かべた。

 総勢五名で二時間近く飲み続けていると、買い込んできたアルコール類が底を尽いた。

 響谷はコンビニに酒とつまみを調達しに行き、ほろ酔い加減の高槻沙梨はソファでうたた寝している。春斗は二十分ほど前にトイレに行ったきり、戻ってこない。

「春斗君、戻ってこないですね」

「ハルちゃん、お酒飲んでたっけ? 酔っぱらっちゃったのかな」

「いや、飲んでなかったと思いますけど」

「登美彦、ちょっと様子を見てきてよ」

 妃沙子に言われ、登美彦は玄関横のトイレに向かう。開き戸タイプのトイレドアは鍵がかかっておらず、廊下側に薄く開いていた。扉とドア枠の隙間から、白い靴下を履いた五本指と足首が覗いている。足の向きからして、どう見ても用を足している感じではなかった。

 申し訳程度に軽くノックしてから扉を開くと、春斗はトイレの壁にもたれて倒れていた。トイレ内には異臭が充満している。便器と床には吐瀉物が飛び散っており、青白い顔をした春斗は両肩をだらりと落としてぐったりしていた。息をしているのかどうかも怪しいぐらいの衰弱ぶりだった。

「春斗君、大丈夫?」

 登美彦が問いかけても、春斗はうんともすんとも答えず、小さく首を横に振るだけだった。登美彦が春斗をゆっくり抱き起すと、春斗はげほげほと咳き込み、便座を掴んで嘔吐した。だが吐きすぎて胃の中がもう空っぽなのか、吐瀉物の中に固形物は混じっておらず、口からこぼれるのは水と胃液ばかりであった。

「大丈夫なの、ハルちゃん。もしかしてワニに当たった?」

 様子を見にきた妃沙子が驚きの声をあげる。

「これ以上吐くと、脱水症状になるかもしれません。春斗君、お水飲める?」

 登美彦が屈みこんで話しかけるが、春斗はぐったりしたままで反応さえしなかった。

「どうしよう。このままじゃヤバいよね。救急車呼ぶ?」

「僕が病院に連れていきます。響谷さんはまだ帰ってきていないし、高槻先生は眠っているので、妃沙子さんはここにいてください」

 慌てふためく妃沙子を落ち着かせると、登美彦は春斗を抱き抱えた。妃沙子とほとんど変わらないぐらいの軽さだった。春斗は焼鳥屋に手ぶらで来たので、財布や保険証の類はきっとズボンのポケットの中に携帯しているだろう。春斗を抱いて玄関の方まで歩いていくと、ビニール袋を両手に持った響谷が口笛を吹きながら戻ってきた。

「いやー、コンビニのバイトの子が美人でさあ。ついつい話しこんじゃった」

 響谷は三和土にビニール袋をどさりと落とすと、靴を脱いだ。

「どうしたの、トミー。ハルちゃんとお出かけ?」

「ワニに当たったみたいです。病院に連れていきます」

「点滴でもするの? ハルちゃんは胃腸がデリケートだったんだね」

 まったくもって緊張感のない響谷は、ズボンの尻からコンビニのお釣りと思しき紙幣を掴むと、ストリッパーへのおひねりのように登美彦のシャツに捻じ込んだ。

「はい、お車代。ぼくは宵越しの金は持たない主義なんだ。持っていきな」

 春斗を都立の総合病院に運ぶと、夜間診療で応対した医者は「急性胃腸炎ですね。脱水が酷いので点滴をしておきます」と言った。ストレッチャーに乗せられた春斗は、入院棟の四人部屋の一角で点滴を受けることとなった。

「あ、奥野さん……」

 点滴をしに現れた看護師は、半年以上も前のバレンタインデーに登美彦との約束をすっぽかした飛田であった。登美彦と飛田の間にどことなく気まずい沈黙が落ちる。

 飛田は春斗の細腕をアルコール綿で清拭すると、手早く針を刺し、点滴準備を終える。点滴バッグから流れた液は筒のところで滴となってぽたぽたと落ち、チューブを伝って春斗の身体の中に入っていく。

「容体が落ち着くまで、様子を見ていきますね」

 飛田はベッドに近付くでもなく離れるでもない微妙な距離に枯れ木のように立ったまま、来客用の丸椅子に座る登美彦の横顔を見つめていた。登美彦は居心地悪そうに押し黙ったままでおり、ベッド上の春斗はすーすーと安らかな寝息を立てて眠っている。

「注射、お上手ですね。僕が点滴をしてもらった頃とは別人みたいです」

 なかなか立ち去ろうとしない飛田に向かって言うと、飛田はわずかに唇を噛んだ。はじめて出会った頃の飛田は少しふっくらとしていた印象だったが、今は夜勤疲れのせいか肌は荒れており、少し痩せたように見えた。表情にも疲れの色が垣間見える。

「約束を破ってしまってすみませんでした。怒ってます……よね?」

 怒っているもなにも、もう半年以上も前の話だ。清澄庭園で待ち合わせた飛田にすっぽかされたおかげで、なし崩し的ではあったが、妃沙子と付き合うようにもなった。感謝こそすれど、恨むようなことは何もなかった。

「怒るだなんてとんでもない。飛田さんには感謝しているぐらいです」

 登美彦がぎこちない笑みを浮かべると、飛田が躊躇いがちに一歩だけ前へ出た。

「スマートフォンでレシピを見ながらチョコレートを手作りしていたら、盛大に失敗しちゃったんです。病院から突然呼ばれて、慌てて電話に出ようとしたんですけど、溶かしたチョコレートをひっくり返してしまったんです。スマートフォンは駄目になっちゃうし、非番の日でも電話ぐらい出なさいって婦長からも叱られて……」

 飛田が言い訳のような言葉を並べると、登美彦はそのいちいちにうなずいた。

「大変だったんですね。ご苦労様でした」

「はい。それで、あの、奥野さんはもう決まった方はいらっしゃるんですか」

「決まった方?」

「またチョコレートを手作りしたら、受け取っていただけますか」

 飛田はそれ以上なにも言わず、登美彦の顔を直視しようとはしなかった。

「はい。甘いものは好きなので嬉しいです」

 登美彦が生真面目に言うと、飛田がもう一歩、二歩と近付いてきた。

 頬は上気したように赤くなっている。

 飛田は胸ポケットからメモ帳を取り出すと、さらさらと何かを書き付けた。

「これ、私の新しい連絡先です。カルテを見れば奥野さんの連絡先は分かるのですけど、私から連絡すると個人情報保護法の違反になってしまうし、大病院はとにかくコンプライアンスにうるさいので、婦長にバレたら病院を辞めさせられちゃうかもしれないし。だから、奥野さんとまた会えるのを待っていたんです」

 飛田は早口で言わぬでも良いことまでを口にすると、そそくさと病室を後にした。

 メモ帳を受け取った登美彦は、呆気にとられた顔をして飛田の背中を見送った。

 ベッド上で身動き一つせず眠っていた春斗はごろりと寝返りを打つと、薄く目を開けた。青白かった顔はすっかり生気を取り戻しており、口元がひくついている。

「ねえ、奥野さん。ぼく、いつまで寝たふりしていればいいの。二股は良くないと思うな」

「そんなつもりはないよ。ただちゃんと受け取って、食べるだけだ。手作りのチョコにしろ、アニメにしろ、小説にしろ、誰かに受け取ってもらいたくて作っているものだもの。ありがたく頂戴するよ」

 登美彦が悟ったような口調で言うと、仏頂面の春斗は登美彦と反対側に寝返りを打った。

「そういうことを言っていると、いつか痛い目に遭うよ。黒焦げの暗黒物質ダークマターみたいなチョコを受け取って、奥野さんも胃腸炎の苦しみを味わうといいんだ」

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