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傾国老人 第九話

 病院のベッドの上で、柏木弁護士から第一審敗訴の報告を受けた。
 ここでも科捜研出身の鑑定士の鑑定書が物を言ったようだ。
 私の種々の鑑定は、弁護士の要請による利害に立ったものであるのに対して、警察上がりの鑑定士のものは客観的であるはずだ、との理解が強く働いたのだろう。
 鑑定書の内容が正確かつ適切であるかどうかは、審理を担当した裁判官にはさしたる関心事ではなかったようだ。
 当然ながら、由布子夫人は判決を不服として控訴した。次が滝二夫妻にとって文字通り最後の機会になるが、先の滝二氏控訴の判決からして、好転することは九分九厘不可能に近いと思えた。
「京都地裁の第一審は一人裁判官による単独判決でしたが、控訴審では三名の裁判官の合議での判決になります。俄然マスコミの注目も集まっていますから、微かですが望みはあります」
 電話越しに柏木弁護士は気休めの言葉を吐いた。
「最後までお役に立てなくて申し訳なかったです」
 己の力不足を謝罪すると、柏木弁護士が大声で言った。
「滅相もない。それより私が無茶な鑑定依頼をしたせいで藤岡先生の命を削ってしまったのではないかと悔いております」
 持って、あと数ヵ月の命であると主治医から告げられたことは、柏木弁護士には隠さず伝えていた。鑑定業務を完遂できない可能性があったからだ。
「日頃の不摂生が祟ったみたいです。肝臓ってのは臓器の中でも特に鈍感らしくて、ボロボロになって、それこそ死ぬ直前ぐらいにならないと症状が出ないそうですな」
 他人事のように笑い飛ばしたが、柏木弁護士は沈黙した。
「毎日文句ひとつ言わずにせっせとアルコールを分解して、最後の最後に音を上げるなんて、肝臓も健気なやつですな。長年よく頑張ってくれましたわ」
 医者の小言がうるさいから、と定期検診をすっぽかしていたら、このザマである。
 胆嚢癌の次は、末期の肝臓癌だった。
 あと十年とは言わずも、せめてあと数年ばかりは生きるつもりだったが、残された時間は想定よりもだいぶ短かったらしい。
「いずれ分かることですから、夫人には病気のことは伏せておいてください。私の死期が近いのは鑑定依頼を受けたせいではないですから、それだけはくれぐれもよろしくお願いいたします」
 念押しすると、柏木弁護士が要らぬ詮索をした。
「森保夫人はともかく、お孫さんにも伝えていないのですか」
「ただの検査入院だから心配するな、としか言っていません。勘の良い子だから薄々気付いているかもしれませんがね」
 この世に心残りがあるとすれば、裁判の結果を最後まで見届けられないことだけだ。
「判決期日には孫を傍聴に行かせます。なんとかいいところを見せてやってください」
 急激に倦怠感が襲ってきて、電話を持つ手に力が入らなくなってきたので、言いたいことだけを言って途中で通話を終えた。
 判決期日は裁判長が判決文を朗読するだけで、ものの数分程度で終わるだろうが、鑑定を請け負った以上、裁判の最後まで見届ける義務がある。それまで自分の身体が持たなければ、なんの役にも立たずとも助手を現場に派遣するしかないだろう。
 幸か不幸か、追加の鑑定業務はもう存在しない。
 然るべき準備を整えた後は、用意した鑑定書を裁判官に本気になって読ませる、柏木弁護士の弁護技量に委ねるだけだ。
 病室の窓の外を眺めると、西の空が茜色に染まっていた。
 眩しくて手をかざすと、震えた手のあちこちにはっきりと黄疸が現れていた。身体がまるで泥に埋もれているかのように重く、目を閉じると、眠くもないのに意識がだんだんと遠退いていく。
 ここで眠りに落ちればもう二度と目覚めない予感がしたが、ここ数日、ずっとそんな感覚を味わっている。
 眠ってはならない、とは思いながらも全身の倦怠感には抗えず、いつの間にか意識を失い、そして闇の世界に落ちていく。
 入院してからの毎日は、その繰り返しだ。
 どうやら今日は、春斗は見舞いに来ないようだった。
 判決期日には必ず大阪高等裁判所に傍聴に行け、とだけは伝えたかったが、見舞いに来ないのなら仕方があるまい。ペンを握る気力もなかったが、せめて書置きぐらいは残しておこうか。
 蛍光灯の瞬く天井を見上げながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、面会時間間際になって、ようやく病室の扉が薄く開いた。
 要件を言うだけ言って、さっさと眠りにつくことにしよう。
 あまりにも眠たくて、ちゃんと伝わったかは分からぬが、頼りにならない私の助手は黙ったまま、大きく頷いた。
 ベッドの脇に立ち尽くしたまま、なんどもなんども頷いた。
 返事はなかった。
 だが、それでいい。
 返事代わりに手を強く握ってくれたから。
 それで十分だ。
 次にもう目覚めなくても、思い残すことはひとつもないよ。
 おおきに、ありがとうな。

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