![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/143318430/rectangle_large_type_2_5f1733bb8e1ed54f7f76b6b6f2842c62.png?width=800)
線上のキンクロハジロ 第二十七話
本日集まったお金をネット上の出資金額に反映させると、八百万円近い額となった。
ベレー帽の男が匿名希望を条件に寄付した百万円を含めると、一夜で百五十万円以上もの大金が寄せられたため、目標金額の達成率は一気に四〇%に迫った。
パソコンのキーを叩く響谷は上機嫌で、しきりに「打ち上げしようよ、打ち上げ!」と騒いでいる。
店内を営業時の状態に戻し撤収作業を終えると、林田はリバーサイド・カフェのマスターに御礼を言い、文藝心中社の篠原に謝礼袋を渡した。篠原が受け取りを固辞したので、林田は謝礼袋を懐に引っ込めると、「では、こちらは篠原さんからの出資ということにさせていただきます」と言い、にこやかに笑った。
登美彦の隣で眠そうにしていた春斗は高槻沙梨の元にとことこと近付いていき、伏し目がちに二言、三言なにかを喋っている。
「妃沙ちゃん、打ち上げいくよ。打ち上げ!」
響谷が打ち上げの音頭をとっているが、妃沙子はフルオープンになったテラス席から、誰も歩いていない歩道をぼんやりと見つめている。
「私、ちょっと気分が悪い。夜風に当たってくる」
妃沙子は薄手のカーディガンを突っ掛けると、誰に言うでもなく呟いた。血の気が引き、青白い顔をしている。妃沙子は何も持たずに逃げるようにしてカフェの外へ出ると、ふらつく足取りで清澄通りの方へ歩いていく。
「奥野君。付いていってあげて」
林田社長に背中を押され、登美彦は妃沙子の後を追った。
午後十時を過ぎた清澄通りは暗く、車の往来もほとんどなかった。
近くの家々はすっかり寝静まってしまったかのように灯りが消えており、妃沙子の部屋のバルコニーから見下ろすと、まさしく箱庭のようなこの街の静けさは、息をするのを忘れてしまった胎児のようだ。
高橋の下を流れる小名木川の川面は暗い緑色で、渡り鳥一匹とて泳いでいやしない。
妃沙子は橋の下の暗がりにうずくまっている。
登美彦はしばし無言のまま、妃沙子の肩を抱いていた。
「手切れ金ってことだよね、あれ」
左肩から先のないベレー帽の男は、家族のある身だからと言い、名前を告げることはなかった。茶封筒に入っていた大金がアニメへの出資金でないことなど、おそらく団亀でも分かる。あの男が誰かも分かるが、生憎の匿名希望だ。名前はない。それでいい。その方がいい。
登美彦はぎゅっと左手の拳を握りしめると、妃沙子を労わるように言った。
「あれは出資です。大塚監督への出資ですよ」
「重いね……」
「ええ、重いです。二年間の重みですから」
「でも生きてたんだね」と妃沙子は小さな声で言った。「それで十分だよね」
「ええ、生きていてくれれば十分です」
妃沙子は自分の右の掌をまじまじと見つめると、虚空に向かって手を伸ばした。
星のない夜空を握り潰すようにぎゅっと掴む。
「生きていてくれた。姿を見せてくれた。うん、十分だ。もう十分だよ」
しばらく橋の下にうずくまっていた妃沙子はようやく顔を上げ、目元を拭った。
「打ち上げに顔だけでも出していきますか?」
登美彦が問うと、妃沙子は即座に首を振った。「……今度にする」
「だってまだ足りないもん。目標達成したら、みんなで派手に打ち上げしようよ」
「そうですね。そうしましょう」
登美彦は立ち上がると、妃沙子に手を差し伸べた。
握り返してきた手は凍えるように冷たかったけれど、手を繋いで川沿いの夜道を歩くうちにだんだんと温かくなってくるのを感じた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?