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覚悟と再生ー「劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト」感想

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観た。
 観た、確かに見たのだが、わたしは彼女たちを炎上させ焚きつける役目を全うしてしまったせいで、寝ても覚めても文字通り彼女たちの舞台が脳裏に焼き付いて離れず、このままではわたし自身の舞台を全うすることに支障をきたすため、このように感想を綴ることで己の焼身を一度殺し、わたしを「再生産」することとした。
 それだけのエネルギーが彼女たちの舞台=人生には満ち溢れていて、どうかわたし自身の今この感情が風化する前に書き残したいと思う。一度でもステージのキラめきに魅せられ、憧れ、それに焦がれじりじりと心を焼かれた経験のあるあらゆる人間は、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』を見るべきだとここで断ずる。
 なお、筆者は新作劇場版のほかはTVアニメ版しか観ておらず、コミカライズ、舞台、ライブ、アプリ、再生産総集編その他メディアミックスはほとんど触れていない(アニメのファンだったにも関わらず、ロンド・ロンド・ロンドを観ていないことをかなり悔いている。必ず観る)。近いうちにあちこち見て回りたいが、今はひとまずTVアニメ版と新作劇場版のみについて筆を進めることをご了承願いたい。
 また、本文はあくまで一個人の感想であり、いわゆる考察ではない。そのような箇所もあるが、わたしは各々に感じたことをまず尊重すべきであるという立場にあるため、あまり真に受けず読むことを勧める。以下ネタバレ。


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☆あらすじ:人生という「舞台」

 映画の舞台(ここでは我々が観た映画作品における作中舞台のこと)は、アニメ版から1年後の5月。3年生となった聖翔音楽学園99期生の面々は、それぞれの進路を決める時期に差し掛かっていた。名門劇団への入団を希望する者、地元へ戻り芸能を続ける者、大学進学を考えている者。聖翔を去った者。一度は集まったものの、それぞれがそれぞれの新たな舞台へ足を進めようとしていた。
 しかし、1年前の「オーディション」でスタァになれなかった面々は、(いくらか個人差はあれど)決めたはずの己の進路に迷い、割り切れない思いを抱えていた。
 そんな中、劇団の見学に向かう途中の電車に乗っていた彼女らは、突如始まった「ワイルドスクリーンバロック」と呼ばれるレヴューに巻き込まれる。大場ななによる殺戮の舞台、「皆殺しのレヴュー」。他の舞台少女たちは為す術もなく、ななに次々と上掛けを切り落とされていく。舞台少女としての死を強制的に体験させられた彼女たちは、「再生産」されもう一度レヴューの舞台へ上がることを決意する。
 その一方で、愛城華恋は舞台へ上がらないままだった。神楽ひかりとの幼いころからの約束であった「二人で『スタァライト』する」ことを達成した華恋は、演技に磨きがかかるものの次の目的地がわからず自身を見失っていた。華恋に舞台に上がる意味を与えていたのはひかりだったが、そのひかりがロンドンへ戻ってしまい、スタァライトも終わってしまった今、華恋は座標を失った、キラめきを忘れた星でしかなかった。
 ロンドンにいたひかりは、そのことをキリンを介して悟る。華恋を迎えに行くため舞台に飛び込み、まひるとのレヴューで舞台に立つ覚悟を決め、ついに舞台上で華恋と向かい合う。しかし、人生のほとんどをひかりとの約束のために費やしてきた華恋は、ひかりと戦うことは本意ではなく、また舞台に上がる意味を失っているため舞台を恐れ、剣を向けようともせず、その場で死んでしまう。華恋をそうしてしまったことに嘆くひかりは、二人の約束の源であった手紙を燃料として華恋を「再生産」し、華恋と改めて対峙。二人は上掛けを切ることで舞台を終わらせるとともに、互いの約束にも終わりを与え、それぞれの新しい舞台へ進む。


☆テーマの検討:すべてを「清算」し、新たな「生産」へ

 TVアニメ版最終回の2ヶ月後、3年生になった彼女たちを描く新作劇場版のテーマは、「人生は舞台であり、一度舞台が終わったとしても新しい舞台へ進まなくてはならない」という、未来へ向かうものである。
 キリンのオーディションと第100回聖翔祭という大きな節目を終えた彼女たちは、それらの舞台の終演とともにその舞台の役者としては死を迎える。しかし彼女たちの人生は止まることはなく、ひとつ舞台が終われば、第101回聖翔祭や卒業後の進路といった、新たなステージが始まるのだ。その舞台の役者として、再び生まれ落ちるのだ。心機一転、これまでの舞台を振り切って舞台少女は、いやわたしたちも含んだすべての人間は進んでいかなくてはならないのだ。
しかし、ステージが変わってもそう簡単に心もすっかり変わるわけではない。TVアニメ版のななはまさにそうで、2年生になっても第99回聖翔祭にとらわれたままだった。他の舞台少女たちも、ほんとうに自分は卒業後その道に進むのか、ほんとうにトップスタァになれないままでいいのか、誰かに対する思いを燻らせたままでいいのか、葛藤するのであった。
その葛藤に蓋をし割り切って進むのではなく、もう一度誰かと向き合い己とも向き合い、感情をさらけ出し、命を賭して奪い合い戦うことで、すべてを「清算」し新しい舞台=未来に進む自己を「再生産」する決意をする。そのイニシエーションこそが「ワイルド・スクリーン・バロック」なのだ。
 本作におけるレヴューは、舞台上という衆人環視の何も隠すことのできない場で、自身の秘めていた感情をむき出しぶつかり合う場として機能している。これについては後述する。
 しかし、このテーマは新作劇場版で初出のものではない。TVアニメ版でも同様のテーマを扱っており、ななの再演や幽閉されたひかりのスタァライトのように繰り返し同じことをする、同じ舞台に立ち止まることを否定し、新しい舞台へ生まれ変わっていく、というのはスタァライトシリーズを一貫するものだと言ってもよいだろう。これこそが「再生産」なのだ。


☆演出の検討:約束

・「この世は舞台、すべての人は役者」
 これは劇作家ウィリアム・シェイクスピアの作品「お気に召すまま」の台詞だ。スタァライトシリーズはこれを文字通り受け取って構成されており、今作も例外ではない。舞台も人生も一度きり、同じ舞台は二度とないという一回性の高い点で、確かに似通っているのかもしれない。キリンと観客のメタ演出にも関わる部分であるが、それについては後述する。

・電車
電車はさまざまな媒体で人生のメタファーとして扱われている。冒頭で劇団の見学に向かう舞台少女たちも、電車に乗って次の舞台へ、次の人生の目的地へ向かっていることが読み取れる。華恋の乗っていた電車のみ砂漠の中でクラッシュしてしまうこと、華恋が「再生産」されるときも電車に乗せられてやってくることからも、電車が彼女たちの進む道を表していることは明らかだろう。
なお、冒頭の車内の座る位置がいつもと違う組み合わせであったことについても、ほーん意外とそのへんも仲いいんだななどと呑気に思っていたけれど、進路別になっていたことに気づいていなかった。もう一度観に行って確かめたい……

・トマト
 「ワイルド・スクリーン・バロック」の元ネタについては多くの人が言及しているためここでは割愛するが、この「ワイルド」要素の一端を担うのがこのトマトだ。冒頭の弾け飛ぶトマトがショッキングでグロテスクな印象を与える。舞台少女の命そのものの暗喩でもあり、彼女らに火をつける爆弾でもある。舞台少女たちがワイルドにトマトを丸かじりするとき、わたしたちにも口内にあの青くみずみずしい味が広がってくる。

・砂漠
 これも「ワイルド」要素のひとつでもあるが、TVアニメ版でもひかりが囚われたスタァライトの舞台がピンク色の砂漠であった。すなわちスタァライトにおける砂漠は進退すらできず舞台少女として生きることができない死地でことを表していると考えられる。

・舞台少女の「死」
 TVアニメ版でも「舞台少女は舞台のたびに死に、生まれ変わる」ことについての言及はあったが、今作では特に死ぬことを明確にしてきたのが印象的だった。冒頭の「皆殺しのレヴュー」はタイトルもその通りなのだが、次々斬り殺される舞台少女たち、血しぶきの舞台演出、ブーツになみなみ溜まった血に度肝を抜かれた。トマト同様、今まで描かれてこなかった生々しいグロテスクさを感じる。はっきりと死を描くことで、舞台少女が新たな生を受ける=次の舞台、人生の流れへ身を落とすことをより強く提示しているように感じた。

・東京タワー
 華恋とひかりの約束の象徴であり、戯曲『スタァライト』とも重ね合わされていた東京タワーが今作では真っ二つに割れる。後述するが、華恋とひかりが約束と決別し自立していくことの象徴だろうと思われる。それにしても映像の迫力がとてつもないため、こういう考えを抜きにしてもダイナミックで見ごたえのあるシーンでほんとうに言葉を失った。TVアニメ版では東京タワーが華恋の塔からひかりの塔へ突き刺さる演出もあったが、新作劇場版では最後にひかりが華恋に剣を突き立てるのも対比になっていて面白い。


☆メタ構造:観客としてのわたしたち

 キリンはこれまでレヴューの主催者かつ観客(この物語を見ているわたしたち)の代表としてスタァライトの世界に登場していたが、今作においては彼が主催者ではない。舞台少女たちが自発的にレヴューを引き起こしていた「ワイルド・スクリーン・バロック」では、キリンは目撃すらかなわなかったレヴューもあるのだ。映画の冒頭でキリンが「まに、まに、まに、まに、まにまにまに間に合わないーーー」と言いながら華恋とひかりの元へ駆けつけるシーンがあるが、レヴューの開演時間を知らなかったことがこれを裏付けている。
 キリンは今作では主催者=「興行」側ではなくより純粋な「観客」として彼女たちの前に現れている。キリンは舞台少女のキラめきに圧され燃え落ちてしまうが、キリン=観客からキラめきを奪ったひかりにひとつのトマトを残す。舞台少女たちは舞台少女同士で奪い合いをするのみならず、観客からも奪ってしまうのだ。本能で、野生的に、舞台にひとたび立ってしまった彼女たちがそれをやめることはできない。あらゆるものを吸収し、彼女たちはより強くキラめくのだ。
 また、今作では舞台に上がることの恐怖にもフォーカスしていた。ひかりと対峙していたときに華恋が明らかに映画館にいるわたしたちに視線を向けて舞台ってこんな怖いところだったっけと話すシーンがあり、その目には恐れが満ちている。スタァライトの世界では舞台少女同士のレヴューに不特定多数の観客が入っている描写はないが、彼女たちの人生を作品として一方的に消費する「わたしたち」はこの世界にごまんといる。一方的に、暴力的にそういう目を己に向けられるのは実はほんとうに恐ろしいことなのだ。人が舞台に上がるエンタメと演者の恐怖は常に隣り合わせであるということを改めて提示してくるあたりはTVアニメシリーズから健在で、相変わらずたちが悪いなあと思った。反面、エンタメを楽しんでいるところに水を差されたようで嫌だなと思ってしまうが、わたしたちは大好きなエンタメに誠実であるために、それを常に自覚しながらエンタメと向き合わなければならない。彼女たちの命がけのキラめきを目撃するためには、こちらも相応で臨まなければならないのだ。


☆浮き上がるそれぞれの輪郭

 最後にそれぞれのキャラクター、レヴューについて触れていく。

・愛城華恋
 TVアニメ版では抜けているが元気でまっすぐな典型的な主人公気質を感じていたが、アニメ11話の様子からもわかるようにひかりを失うと自身すらも見失ってしまうもろさがあり、それがフィーチャーされて描かれていた印象を受けた。華恋の過去もわたしたちにはちょっと衝撃的で、もともと消極的だった華恋が舞台によって火をつけられてしまい、同級生たちのような「普通」から遠ざかっていくのは怖さすらあった。忘れていたが、聖翔に入学できているのだから並でない才能と努力があったのは当然で、それを改めて突き付けられたようだった。
 アニメ12話でもはっきり「わたしにとって舞台はひかりちゃん」と発言しており、ひかりとの約束を果たした今彼女を舞台に縛るものは何もない。しかし、舞台のために人生を尽くしてきた華恋には他に何もなく、喪失状態に陥ってしまう。ひかりとのレヴューで「約束の舞台」=ひかりとの約束を果たすための人生を終わらせ、互いに自立して舞台にもう一度上がることを選んだ彼女に心動かされた。
 余談だが、華恋はもちろん何人かのキャラクターも、日本で最高の芸能学校に入学できている時点で中学までの経験値が明らかに「芸能界の子ども」のそれで、まだ十代の彼女たちをここまで高みの引き上げる舞台とはほんとうに恐ろしいものだと改めて思った。その舞台を愛好しているわたしたちもまた共犯なのだが。
 もうひとつ余談として、「Fly Me to the Star」の歌詞がここに来て華恋とひかりにマッチしすぎていて驚いた。2番?2コーラス目?の「演じてみるの あなたの気を引きたいから」などはまさにそうなのではないかと感じた。

・神楽ひかり
 学校を去りロンドンへ戻ったひかり。ひかりは「約束の舞台」を終えたことで電車に乗ることができていた、次の新しい舞台へ進んでいたが、華恋が道標を見失いさまよっていることを悟ると駆けつけ、華恋にも次の舞台へ進むための決断を迫る。華恋は死んでしまうが、二人の約束を火にくべ焼却してしまうことでエネルギーに変え、華恋を「再生産」する。
 内容をあらためて文字に起こすとかなり強引でびっくりしてしまう。ひかりは幼少期からどうも華恋を振り回していたふしがあるようで、ふたりの奪い合い(ひかりが華恋からさまざまなものを奪ってきたすべて)は出会ったときから始まっていたようだった。しかし、華恋にとってひかりが舞台のすべてであったように、自慢のつもりで舞台を好んでいたひかりにとっても華恋の存在が渇望し舞台少女となる理由そのものだった。
そして、これら一連のひかりの行動が、華恋が自分自身と改めて向き合うトリガーになる。二人は運命の二人であることに違いなかったが、その運命と決別する、という展開も衝撃だった。「運命」という言葉は力が強い。作品で出てくれば唯一無二のもっとも尊いものとして扱われる。しかし今作のテーマは未来へ向かうこと、新しい舞台に立つことであり、それを焼き捨てていくことで次へ進めるとした、これまでの定石を覆すところに大きな面白さがある。結果としてふたりは、約束を忘れずとも別々の道を歩み、互いに自立していく。二人は互いによってキラめきを増幅させていたが、自身の存在意義のみでこの舞台に立っている一人の人間の役になるのだった。
実際、TVアニメ版でふたりは戯曲『スタァライト』の結末=運命を変えているし、そういう運命を反故にする、そしてそれを自分の望む未来へ変えていく推進力がふたりにはあるのだろう。
再び余談。EDでひかりがキャリーケースを引きながらみんなの元を訪れるところが描写されているが、アニメ1話でひかりがキャリーケースを引いて学校に現れたことともリンクするし、『少女革命ウテナ』最終話のアンシーも彷彿とさせた。

・露崎まひる
 TVアニメ版で失っていた自己を取り戻し、ひかりを迎えに行く華恋の背中を押したまひるが、今回は華恋を迎えに行くひかりの背中をドンと押す形で登場した彼女に涙が出た。レヴューはいつものスポーツテーマ(というかオリンピック)で、コミカルかつじりじりと詰め寄ってくるような構成に肝が冷えた。果たしてどこまでが本心だったのかはわからないが、わたしはほんとうにひかりのことを大切に思ってのレヴューだと思っている。猫の顔が若干トラウマ。まひるのこれからの舞台が楽しみだ。強く、いとしく、美しく!

・石動双葉
 香子とのまったく煮え切らないレヴューが相変わらずのふたりで安心したようなひやひやしたような気持ちだ。どうしようもないしそれがいとおしい。最終的にふたりはそれぞれ別の道を歩むことにはなるが、結局強すぎる腐れ縁を互いにちぎらないままで(双葉のバイク譲渡)、一生ふたりはこうやって素直になれないまま喧嘩しながらやってゆくのだろうな……と思わされた。デコトラがやたら似合っていた。
 クロディーヌとTVアニメ版からの縁が続いていたのはなんだか嬉しかった半面、双葉がクロディーヌに流されているのでは?という部分も多少は否めないが、双葉も香子の脇に控えているだけではなく自身の舞台に立つ、という選択をしたことを応援したい。

・花柳香子
 レヴューについては上記に同じ。双葉にねちねち詰め寄る姿が印象的で、妙に色っぽくてわたしも詰め寄られたかったが香子があんな詰め寄り方をするのは双葉だけだろう。双葉が自分のそばにずっといるだろうという根拠のない自信をへし折られた香子も余裕をなくしてやけになってしまっていたが、自身が聖翔の生徒が進むような道へ進まないことの寂しさもあったのだろうか。心配なことも多々あるが、強気で華やかなのが舞台人としての彼女の魅力でもあるので安生やっていてほしい。バイクは大切に。

・天堂真矢
 完璧な舞台人としての天堂真矢と、その内側の生身の天堂真矢どちらも暴き出すことができるのが西條クロディーヌただひとりという完璧な「二人」性に震えた。
 どうやらレヴューは『ファウスト』が元ネタらしいが、未読のため触れないでおく。わたしには真矢の最初の衣装はシェイクスピア的な装束に感じられ、複数人いたとか戯曲の神だとかささやかれているシェイクスピアをなぞっているのならばそれはすさまじい彼女の誇りと驕りだと思った。古今東西すべての戯曲の主演をものにし、素を暴かれてなお気高くある、まさに「This is 天堂真矢」だった一方で、空っぽの器と言いながら嫉妬と欲望たらたらで人間くさいところも良い味を出していた。アニマル将棋でひよこを助けようとする真矢かわいい。

・西條クロディーヌ
 負けたと見せかけて真矢を出し抜いた展開に一番手に汗握った。これまでは今一歩真矢に届かない描写が多かったものの、実力に肉薄し彼女の芯を引き出したクロディーヌ。真矢が余裕綽々の態度を崩さず秘めているようなものを臆さず表に出すのがクロディーヌの魅力で、ライバル意識や向上心を隠すことなくむき出しにし、それに見合う努力・実力を重ねてゆく姿が気高く眩しかった。何気に周囲への気配りをしているのもなんだかんだで優しい。

・星見純那
 正直彼女の最初の進路を見たとき、まあそういう道もあるよな、と妙に納得してしまったのが申し訳なかった。きっと彼女の学力では十分大学も目指せるのだろうし、演劇論もきっと面白いだろうし。ななとの(あまりに「ワイルド」な)レヴューを通じて舞台に上がる者として覚悟した彼女もまた舞台少女だったのだなと感じた。
 皆殺しのレヴューで呆然と立ち尽くしていた=舞台に上がれていなかった純那が、ななとのレヴューで見せた泥くささは圧巻だった。誰かの言葉を引用して話すことの多い博識な彼女だが、自分の言葉ではっきりとななに対抗した姿に心揺さぶられた。
 どんなに泥水すすってでもまた立ち上がる彼女の人生では、まぎれもなく彼女がポジション・ゼロなのだ。

・大場なな
 皆殺しのレヴューのイントロがトラウマになってしまった。「渇望を失った舞台少女を殺す」という大役を全うしたななの圧倒的な暴力性に気圧された。
 狩りのレヴューでは相変わらずの子どもっぽさで、変化を拒み変化には死を、という極端な彼女。まさかスタァライトの映画を観に来て任侠にとどまらず自害のモチーフを目にするとは思わなかった。結果として純那とななは背を向け歩き出すが、ななはこれからも前途多難そうだ。どんなに孤独でも苦しくても、あなたを受けとめてくれたみんなを忘れずどうか未来へ歩んでいってほしい。


☆おわりに:舞台という「覚悟」

 映画を観てから監督のインタビューを読んだが、この中で「今作は『覚悟』の話だ」という話が出てくる。人に気持ちを打ち明ける、全力でぶつかる、じぶんで決断して進むことは覚悟が必要だ。それほどに難しく、怖い。けれども彼女たちはそうせざるを得ないし、それはわたしたちもそうなのだ。きっと舞台人の覚悟はわたしたちの比ではないと思うが、各々の舞台に上がる、生きていく上での「覚悟」は普遍的なものなのだ。映像美・音楽美はもちろんだが、今作は普遍的な物語としてもきっと力を得られる。
 また、今作を観たあとわたしたちも彼女たちにすっかりキラめきを奪われてしまい、キリンのように燃え落ちてしまうだろう。しかし、この終わりこそが始まりなのだ。彼女たちが再生産され再び新しい舞台に上がるように、わたしたちもしばらくすると再び生まれ、次の舞台へ行かねばならない。キラめきで喉を潤さなければならない。あなたは電車に乗れただろうか? あなたは次の舞台に立っているだろうか? 

 今こそ、それぞれの答えを導くとき。

 わたしたちはもう舞台の上!

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