出鱈目なメロディー、適当過ぎて笑われちゃうような
新年は映画を観て過ごしてる。
Netflixで「アンヌ+:THE MOVIE」、ミランダ・ジュライの「さよなら、私のロンリー」、
ノア・バームバックの「ホワイトノイズ」、
楽天(でも配信あるんですね!)で「アンモナイトの目覚め」。
「さよなら、私のロンリー」と「ホワイトノイズ」は奇妙な、不思議な感じの映画だったけれど、
いま上げた4本はどれも面白い…面白い以上には語れない、語彙が乏しくなってしまうけれど(映画の評論を勉強していたのに苦笑い)、
観ていてクリエイティブな部分が、刺激される。
ついつい、シャーピーのマーカーで、
サラサラっと月光荘のスケッチブックに落書きしてる。
クリエイティブな部分が刺激される、って、僕と話してた友人が、僕にそう言っていた(最近)。
そうありたいものだ。
ある晩、スペイン人の方がいつもの場所にやってくる。
僕は手探りで曲を選ぶ。
いろいろかけたのだけれど、
OASISの「wonderwall」をかけたら、
彼女が(22歳だと言っていたかな?OASISは僕の世代だから、お父さんやお母さんが聞いていたのかな?)歌い出す。
ちょっと胸を撫で下ろす。
そう言えば、江古田に20数年ぶりに足を踏み入れた一昨年、カラオケスナックで友人と、初対面の外国の方が肩を組んで歌っていたのも、
OASISだった。
そのクリエイティブな部分を刺激されると言った友人もいて(いつもの場所に)、
OASISは初めてちゃんと聴くと言う。
時代…。
シアーシャ・ローナン、「アンモナイトの目覚め」に出てくる役者さんが、学生時代、仲良しのつもりでいた、絵描きの友人に似ている。
何回も書いているけれど、フランスにいた彼女とやり取りをしていた頃、
文章から絵が見えると言われたことをいまだに大切に覚えている。
ちょっと現実から浮いた詩のようだ、とも言われた。
いまはそう書けているか自信はないけれど、
あの暗い20代終わりに、ちょっとした光だった。
世界から色が消えていくのを覚えてる。
ごはんを食べても、味がしなかった。
お風呂に入っても、季節が変わっても、
暖かさを感じられなくなっていく。
感情を取り戻した30代の僕が、その取り戻した感情に揺さぶられて、いかに動揺したかも、
混乱していたかも、いまは懐かしい。
女の子と歩いてる時、
その子が鼻唄を歌い出すのが好きだ。
もちろん、「うちでおっきな声で歌っちゃってた。近所迷惑だよね笑」と昔の恋人が送ってきたような奴じゃなく。
月明かりさえない、夜道、
不意にその子が(それは決して特定の誰かを指すわけじゃなく)鼻唄を歌い出すと、
ちょっと前ならそれを背中越しに見るだけだったけれど、
いまはメロディーを適当につけて、ハミングすることができる自分にびっくりする。
適当過ぎて、途中で笑い出して止まるメロディー。
それをまた繰り返す。
例えば、昔なら、朝帰りの街をひとり歩く冬、
白い息を吐いて、また冷たい空気がすうっと身体に入っていくのが好きだった。
またひとりぼっちになって、
朝焼けをただ見てた。
いつか終わるパーティー。
いつか忘れていくこの日々。
交わされた言葉や約束も、ひとりになると、
それは叶わないまま終わるんだな、と思っていた。
そしてそんな季節や、本当にパーティーが終わったいまだから、あの頃はそんなちっぽけなメロディーにすがりついて、僕だけは忘れないと決めていた。
いまは…いまは、すべては流れていくし、
二度とつかめないメロディーだってあるけれど、
そしたら、笑い出して止まる鼻唄を、ハミングを僕から歌い出せば良い、そんな風に思う。
出鱈目な、適当過ぎて、笑われちゃうような、
だけどきっといままでなら聴いてるだけだったメロディーを、僕から。
世界から色が消えていく気持ちはもう持ちたくない。感情のない世界…だけど、もしまたそれが来るなら、今度は自分から、出鱈目に色を塗りたくってやればいい。
単純な僕は、だからいまちょっとづつ絵を描いている。
コラージュブックを作るつもりでいたら、
気付いたら変なキャラクターばかり描いているw。
星なのか?w。
彼?彼女?が、鼻唄を歌い出すのを待っている。
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