毎日が夏休み

着の身着のまま、財布と携帯と煙草とライターをポケットに詰め込んで、靴を履く。磨り減った靴底は、靴下からでもコンクリートの熱気を感じる。靴を履くあいだに、ポロシャツの上着ポケットから煙草が必ず散らばる。玄関を開けると夏の湿気が匂いとともに、早速身にまとわりつく。

あらー、しばらく見てなかったから心配してたのよー
緑の花や木々に水をまきながら、笑顔で隣家のおばさんが挨拶してくれる。
ありがとうございますぅー元気でしたー。こないだの赤ちゃん、お孫さんですかー?かわいいですよねー
ありがとう、かわいいわよー、六か月!
いいなぁ、じゃあ、またー
いってらっしゃい!
おばさんのまく水が、道路を濡らしていくさまに目をやりながら、歩き出す。

大きな道路に出る。
こっちに向かって走ってくる自転車のおじさんがすれ違う間際に叫ぶ。
なんで、夏は暑いんだ!
僕が気の利いた言葉を捜しているうちに、おじさんはもう、信号を渡っている。

信号を渡ってしばらくすると、T字路がある。その手前の取り壊されかけた、家屋。春までなら、ここには骨董屋さんが入っていて、暗い店奥はまるで見れなかったけれど、店先には、蛙が池のほとりに佇んでいる石で作られた桶があった。店先で煙草を吹かす、むかしの漫画家がよく被っているような帽子を被った親父は、季節が過ぎるに連れて痩せ細っていき、いまではもう、死んだのかな、と思う。

いつもの自販機でコーヒーを買う。そのために川沿いの小さな脇道に入る。それから、それから、クリーニング屋さんのドアを開けると、ピンポンピンポーン!古い呼び鈴。二分くらい待っていると、ようやく奥の部屋から、おばあさんが出てくる。
Yシャツ二枚お願いします
はあい、ありがとうございます
差し出したシャツを畳みながら、おばあさんが呟く。
暑くなってきたでしょう?うちのおやじは毎年、そこに椅子を出して、夕涼みがてら、ビールを呑むんですよ。
このおばあさんと話すことといえば、季節のはなし。
冬の枕詞は、寒くなってきましたね。
僕が訪れる時間、冬になれば早くなる夜の入り口のことば。
年を越してしばらくしてから、洋服を出しに行ったら、五分以上は誰も出てこない。と思ったら、外から慌てておやじが飛んできた。
孫のために竹とんぼを作ってたんです。
ほころんだ顔で、
日曜大工なんか、やりません?いいですよーおもちゃ。我が手で作ったおもちゃ、喜んでくれるんですよ。
凄いな、と思う。
僕がこの街に来る何十年も前から、二人はこの土地で家族と生活して来たんだな、そう思うと、季節が変わるごとに最初に交わされる挨拶のことばの重みや、その積み重ねられた生活に思いを馳せてしまう。

さっき買った缶コーヒーを飲み、煙草を吸いながら歩いていると、神社が右手に見えてくる。老人用のカートを椅子にして、神社に向かって座り、目を瞑って動かないおばあさん。僕はそれを、神との対話と呼んでいる。

それから古くからある畳屋さんの、軒先きに漂うい草の匂い。
反対側には、川の上に組まれたままの鉄筋。一向に何を作っているのか分からない、いや、おそらくマンションだろうけれど、進まない工事。もう何年も、ここの工事は中断されたままだ。おかげで、この川沿い恒例の桜の花見まで、邪魔している。

いつ見てもひとの出入りのない工事現場を背に歩いていくと、鉄橋がそびえている。梅雨の時期、突然降り出す雨宿りには最適の。この街は空が低く、水はけも悪いから、すぐに道路に水が溢れ、雷はここにいると、電車の通る音と重なって、より深刻な痛みを想起させる。ここで僕は一度だけ、海外に住むガールフレンドに長い長いメールを送った。

鉄橋を過ぎて左手には、煙草も置いている布団屋さんがある。あるとき店先で、買ったばかりの煙草に火をつけたら、おやじが、無理やり携帯灰皿をくれた。禿げていて、側頭部から後ろにかけては白髪の、なかなかに体躯のいいおやじ。

その先の坂を上っていくと、ブリトニー・スピアーズのCDがダッシュボードに置かれた四駆車のある家。ブリトニーを誰が聴くかは知らないが、この家には常に赤い上着、赤い野球帽のおやじがいて、よく柴犬を連れてこの通りを歩いている。

五差路の信号に出ると、繁華街に向かって歩く。コンビニ、以前、このコンビニで見かけた光景。大学生くらいだろうか?青年が、ペットボトルの棚の前に籠を置いて陣取り、棚にあるペットボトルを籠にすべて入れては、再び棚に戻していた。そんな光景を、狂気とは呑気である、とうそぶいた思想家のことばを思い浮かべながら、眺めていた。

道なりに歩いていくと、猫背で地面にうずくまっているかのように見える、ジャージもヘロヘロに伸びて、尻はおろか、伸びきったきんたままで丸出しの、じいさん。じいさんは毎日のように、この通りで、銀のヘラを片手に、地面にくっついて黒くなったチューインガムを剥がしている。一度、このじいさんに歩き煙草を強くなじられた。そのときは無視して煙を吹かしたけれど、以後、この道での歩き煙草はやめた。

繁華街に置かれたATMの脇に立っている、白人の女がいう。
一発、一万!
それを無視して、ATMからお金を引き出して、出てくると、彼女はもういなくなっている。

暴走族とはいっても、五人ほどのバイクの集団が、マフラーの爆音を切り裂くように鳴らして、繁華街のさらに中心に向かって走っていくのを尻目に、再び来た道をもどる。

再び五差路の横断歩道に出ると、
みんな狂ってる、みんな狂ってる
叫んでいる青年。
みんな嘘っぱちで、真実を知っているのは神とわたしだけー

今度は公園のわきを歩く。夕方、母親の投げるボールをバットで打ち返す少年。何度も何度も母親の怒鳴り声が響く。その脇で彼の妹らしき少女が、打ちかえされたボールを追いかけている。
その近くにある公衆トイレは発展場で、「兄貴、俺を掘ってください」とかなんとか、様々な欲望が黒いマジックで、個室の壁に殴り書きされている。

後ろ足が片方ない野良の猫が、じっと睨みつけてくる。

少年たちが水鉄砲で遊んでいる。ひとりの男の子が僕と目が合うなり、照準を僕に向けて、引き金を引く。
負けた、負けた。
片手をあげて降参の合図。
こいつ、負けたっていうぞ。
やめとけよー
楽しげな声と怯えた声が混じって、後ろに流れていく。

遠くから、明らかにホームレスの男が歩いてくる。この街では有名なホームレス。長い髪の毛を真上で縛り、裸足で、穴がそこかしこにあいた服、垢だらけの肌。それからいつもの笑顔。台風や雷の時でも、そんな格好で歩き続けている。家はある。お金もある。どこかにあるラーメン屋さんの店主だという。だからか、紙袋にいつも長ネギが入っている。

すみませんっすみません誰か誰か助けてください
線路脇にサングラスをかけて、杖をついたスーツの青年。通り過ぎる女の子たちの集団。
どうしました?
道が、アパートに帰る道を失ってしまいました。
どうしたらいいですか?
センターに連れて行ってください
センター?
たまたま目の前を通り過ぎようとしていた、二人組の女の子に、センターの場所を聞いてみる。ここから五分。
じゃあ行きましょう。
手を繋ぐ。恋人繋ぎ。
しばらくしてから、手を離される。
すみません。肩に手を乗せて良いですか?
肩を貸して、センターの入り口まで歩く。

小さな公園では、蛇口にいたずらをして水しぶきを体で一心に浴びて、奇声を上げる男の子。
少し離れて見守るおかあさん。
あるミュージシャンの呟いたことばを思い出す。
生きていることが楽しくて、楽しくて、気が触れてしまう。たしかに、生まれてくることは自由ではなかったけれど、君は愛されるよ、君の知らぬやり方で。
この通りで、訃報を聞いた夕暮れ。すがりついた歌とことば。

道ですれ違うのは、小さなラジカセで演歌を鳴らし、踊り続けるおやじ。すれ違いざまに、吠えまくる五匹の小型犬。おそまつからまつじゅうしまつに…勝手に心のなかで名付けた。駅前の喫煙所にいると必ず
一本ください
煙草を無心され、無碍にもできずにいる「作家さん」はいつも文庫本を片手に持っているスリムな体格で、いつも同じハンチングを被り、髪の毛は白髪混じりで長く、髭も白髪が混じっている。貰った煙草に火をつけると、ベンチに座り、本を開く。

赤ん坊が、おかあさんに手を引かれて歩いていく。切なくなる光景。

家近くの交差点で、アジア系の母娘が、
すみません
助けを求める声。無視する目の前にいたおやじ。
片言で、
駅はどちらですか?
指で駅の方向を指しながら、
30分くらいですかねー。サーティミニッツ。
おかあさんの困った顔。
バスは?
この辺りは通らないですねー
タクシー?
片言の日本語で心もとなくなって、代わりにタクシーを呼んで、一緒に待つ。タクシーが来て、彼女たちを乗せて発車してからずっと、少女が手を振ってくれる。

それから。
夕焼けが広がる空を見上げる。
関東ってほんとに平野なんだな、と思う。
どこまでも空が広がっていく。
赤く染まりながら。

鍵は開いている。
おかえり、という声。
ただいまー!

今日はね!

*これは、むかし書いた小説のようなもの。むかし、同棲していた彼女と、こういうおはなしが描きたいんだよねって話していて、別れてから書いたはず。ずっとヒモみたいな状態にいて、ほかにすることもなく、散歩ばかりしていた頃に起きたことを、ぎゅっと詰め込んだもの。
愛だの恋だの死ぬだの殺すだのがなくても、日々の営みがそのままドラマになるんじゃないか?と思って、構想したものの、いまパソコンから携帯で手打ちで書き起こしながら、いちばん大事な描写力がないな、と反省しました。
意味が取りづらいところだけ、直しをいくつか入れました。ばっさり数行、削りました。
読んでくださったら、嬉しいです。
ありがとうございます。

#小説



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