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人生設定が『やや不幸モード』だった私へ。

今年の2月から4ヶ月間、雑談企画『サクちゃん聞いて』に参加していました。全5回、合計450分。文字通り、あっという間に過ぎていく時間だった。


主催している桜林さんは200人以上の方と雑談をした、いわゆる雑談のプロ。それだけでも一度話してみたいと思うのだけど、ただ私にとってはそれだけではない。この雑談企画が特別なのは、桜林さんは私の憧れの存在だからだ。


どうして憧れなのか。こう書くとおこがましいと思われるかもしれないけど、私と桜林さんとは根本がすごく似ている。具体的にありのままの自分を認めてもらえない環境で育ち、我慢を当たり前に生きてきたところなど。ただ桜林さんは我慢を捨てて、自分を喜ばせる方向に舵を切った。


私もそう生きていきたくて、重なる部分が多いからこそ、どう考えが変化していったのか直接話をして聞いてみたかった。だから雑談とはいいつつも、私にとっては1秒も無駄にはしたくない貴重な時間。毎回話したいことをまとめて準備もして、かなりギラギラしていたと思う。そのおかげか毎回気づきがあって、本当に楽しかった。

ときには親友にも言えなかったことを話した日もあった。共感してほしいわけではない、ただただ聞いて欲しかった。雑談の良さはそこに正解がないことだと思う。決して否定されず、明確な目的もなくポツポツ話す時間は、いつの間にか私らしくいられる居場所になっていた。


誰しもがもつ、思考のクセ


不思議なことに桜林さんとお話しているのに、私は毎回自分自身と対話していた。


アインシュタインの名言で『常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない』がある。本当にその通りで誰しも無意識に思考のクセがある。

桜林さんと言葉をかわす度に「あれ、そういう捉え方もあるんだな。そもそも、なんで私こういう風に考えるようになったんだっけ...」と自分に問いかけ、立ち返ることで、どんどん当たり前から解放されて自由になっていった。


特に大きな気付きは、自分で人生設定を決めていることだった。


ライフログスクール受講中、未来編を考えるワークがあった。うーんと頭を捻りながらなんとか書いたけれど、その未来に自分がいる姿が想像できなくて、半信半疑のまま終わってしまった。あまりにも現実と違うからなのか、自分を信じきれないからなのか当時は分からなかったけれど、今になってその理由がわかった。


「やや不幸モード」が人生の標準設定だった


私の人生設定は『やや不幸でいること』がスタンダードだった。不幸でいるとは、かわいそうで弱い自分でいること。そうすれば、同情してもらえて誰かに守ってもらえるから。桜林さんとお話するまで、そんな設定をしていることさえ気づいていなかった。


幸せになってはいけないという人生設定が変わっていないのに、全く逆の未来を描いてしっくりこないのは当たり前。だからずっと違和感があったんだ。


過去の捉え方次第で今を変えられるのは確かだけど、まず根本の『私は幸せになりたいか?』を何度も問いかけ、今ここでグイッと舵を切り直す必要があるのかもしれない。


そして、もうひとつ。やや不幸モードの私は、「我慢」も装備していた。我慢すれば、誰かが頑張りを見ていてくれるはず...!なんてこと考えてはいなかった。というのも我慢は、私にとって当たり前に存在するものだったし、不満があってもそれを解決するために新しく行動を起こす気力もなかった。


選択肢は大抵、我慢が前提としてあって、それが自分にとって耐えられそうか、耐えられなさそうかのどちらかだ。それで今まで生きてきたけど、やや不幸が前提の選択では、私は心の底から望む場所に飛んでいくことはできない。何度考えても、やっぱり同じところに行き着くんだなあ。

自分が喜ぶことを選んでもよい


桜林さんは言っていた『人生は自分を喜ばせる大会なんだよ』と。『我慢ではなく、自分が喜ぶことを前提として、より自分が楽しいかそうでないかで選ぶこともできる。設定に気づいたなら、時間はかかるかもしれないけど、設定変更できるから大丈夫だよ。』


その言葉を信じて、まだ信じられない未来に素直に向き合ってみようと思う。まずは、目の前にあるものを「自分が喜ぶかどうか」で選んでみるのはどうだろう。


我慢してきた自分の頑張りも否定しない、ただ努力の方向性を間違えただけ。私はこれから設定を変えて、新しい枠組みを作るスタートラインに立っている。まだまだ時間はかかるかもしれない。でも、私はもっと自分にいろいろな景色を見せてあげたいから、長い道のりをとことん付き合ってやろうなんて思っている。