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【妊娠期】突然の切迫流産

脳性麻痺の男児を出産するまでの過程を順を追って綴っていきます。

妊娠して、安定期までは特に問題がなく順調に育っていました。

仕事はデスクワークだったので、当時は出産するまで働いて育児休暇をもらってまた復帰できたらいいなぁと、自分が普通の妊娠をして普通の出産をして、これまた普通に職場復帰して働くお母さんになるんだなぁと思っていました。

事態が大きく変わったのは、21週くらいの時でした。

診断名は切迫流産。

お腹に張りがあり、子宮頚管という赤ちゃんが生まれてくるときに通る道が、短くなり始めていたのです。通常であれば出産間近でやっと子宮頚管が短くなりはじめるところが21週という早さで短くなり始めてしまったのです。

流産というと、流れてしまったかのように感じますが、切迫流産とは22週以前でお腹の張りや痛み、出血などの症状がみられることの状態を指します。

通っていた個人病院へ急遽入院することになりました。

24時間ウテメリンの点滴を打ち、とにかく安静に寝ている日々がスタートしたのです。ウテメリンは全身の筋肉の収縮を抑制する薬で、子宮の筋肉の収縮も抑制できると説明されました。丁度年末だったのでクリスマスや年末年始は病院のベッドの上で過ごしました。生まれてこの方、こんなに寂しいクリスマスと年末年始を過ごしたのは、この時が初めてでした。

子宮頚管が短くなっていくことに自覚症状は全くなく、具合の悪さも全くなく、初めての妊娠からくる不安さと寂しさと慣れない入院生活でストレスはたまる一方でした。

普段の生活からガラッと環境が変わってしまったことで不安とストレスから、夜な夜な涙を流した日もありました。ウテメリンの副作用もあり、動悸や手の震えが止まらず趣味で時間をつぶすこともままなりませんでした。

ウテメリンの副作用は個人差があり、点滴を打つ前に副作用についての説明があり、怖い!という気持ちが大きかったですが、自分の場合は吐き気や具合悪さといった症状が出ず、血圧の上昇、動悸、手の震えのみだったので、この程度の副作用であれば耐えられるなと思いました。

ただ、手の震えは本当に衝撃的で、病院から時々同意書なんかを書かされたのですが、自分の名前が書けませんでした。確かに手の震えはあったけど、今まで普通に書いていた字が全く書けなくなっていたことへのショックがすごかったです。

あと、入院生活が長引くにつれて、点滴の刺す場所を定期的に変えなきゃいけなくて、刺した場所の皮膚が固くなってしまって、点滴の場所を変えれば変えるほどどんどんと痛みが増し、刺しやすい場所がだんだんなくなっていって失敗も増えていったのもかなりつらかったです。


この入院生活で最も心の支えになっていたのは、旦那のお見舞いでした。

入院先の病院は家との距離も遠くなかったので、毎日旦那が仕事が終わってからお見舞いに来てくれていました。本当に大変だったと思います。

妊娠中、食事制限がなかったので旦那には食べたいものを持ってきてもらっていました。無性にマックなどのジャンクフードが食べたかったのでかなり買ってきてもらっていました。

病院のご飯が衝撃的においしくなくて、ほとんど食べられてなかったので、旦那からの差し入れが私の入院生活の楽しみでした。

この時の私は、とにかくこの点滴とベッドでの生活を我慢していれば、お腹の張りが収まり退院することができると強く信じていました。

人生でこんなに衝撃的な挫折や苦しみを味わったことがなかったので、今耐えれば幸せな人生が待っていると信じてやまなかったのです。

インターネットで同じような状況の人のブログや掲示板なんかを検索して、退院できている人もいるので自分もきっと同じように退院して、また自宅で安静に過ごせるんだなと思っていました。

ところが、いくら頑張って耐えてもウテメリンの流量を増やそうが、マグミットという新たな点滴を増やそうが、お風呂に入るのを我慢しようが、お腹の張りと子宮頚管が短くなっていくのを止められませんでした。

この時本人に自覚は全くないのですが、いつどうなってもおかしくない状況になっていたのです。

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