六番札所 安楽寺 および 七番札所 十楽寺 3

「それじゃ行ってくるわ」
 まだ夜も明けきらぬ早朝、牛乳の入った樽を背負って、光太郎の父親はアッパーボード牧場を後にした。支援のための視察とはいえ、何の手土産も無いのはあんまりだと考えた彼らは、持てるだけの食料を持って行こうと決めたのだった。
 いい親の向かう先には、米俵や野菜の入った籠を担いだ視察体の面々が待っていた。
「無理しないで、危ないと思ったらすぐ引き返すんですよ」
 母親が言った。
「大丈夫だ、まぁ、何とかなるだろう」
 そう言って視察体は阿波へ向かって出発した。遠く、山の向こうに隠れるまで光太郎と母親、真央、そして美奈の四人は牧場の入口に立って見つめていた。
「申し訳ありません」
 美奈が呟くように言った。
「美奈さんが謝ることじゃない。阿波の人はもっと困っているんだろう。困っている人を助けるのはお互い様さ」
 光太郎が慰めた。しかしそう言う光太郎の脳裏には、さきほど阿波へ向かって去って行った父親の姿が焼き付いていた。もしやあれが今生の別れになるのだろうか? おそらく母も真央も同様の考えを持っているに違いない。
 彼らに出来ることはあるだろうか? 何もない。機動寺院の振りまく恐怖! 絶望! 悲しみに対して彼らが出来る唯一の抵抗は、機動寺院が来る以前の日常業務を淡々と遂行することにある。
 いつも通りの生活を行うことこそが、機動寺院の存在を否定しうる唯一残された反撃の手段なのだ。
 光太郎と真央はその日もいつも通り厩舎の掃除をし、牛の世話をした。
 しかし吹きすさぶ風の音、牛の踏み鳴らす蹄、あるいは遠くから聞こえる何かの声が、機動寺院の存在を光太郎の胸にかき立てた。
視察隊の人々よ、無事であってくれ。

 西の空に光太郎は父親の無事を願わずにはおれなかったが、それを最も切実に願っていたのは美奈であっただろう。これで光太郎の父親が、上板の人々が食べられてしまったらならば、その責任は自分にある。少なくとも彼女はそう考えていた。
 阿波の町を脱出する際は疲労と飢えでそこまで考えが及ばなかったし、まさか機動寺院が待ち構えているとは思いもよらなかった。それにもしかしたら、他の町では機動寺院に対して有効な対策を見つけ出しているかもしれないという期待もあった。
 しかし今となっては、もしこれで光太郎の父親が機動寺院の襲撃を受けるようであれば、自分はどこかの川で入水するか、首を括るかしなければならないだろう。
 そうした美奈の心中を察して、光太郎の母は常に彼女を手元に置いてその動向に目を光らせるのであった。
事態が急変したのは光太郎が真央と厩舎の掃除を終わらせて、いつも通り縁側で休もうとしたところ、牛が嘶いて地面が揺れ始めた。
 機動寺院である。
 十楽寺の襲撃かと思われたが、丘の上から見えたのは安楽寺がゆっくりと山の斜面を下っている光景だった。
「美奈さん、母上!」
 光太郎たちは美奈を連れていつもの谷の避難所へ逃れた。
 たくさんの人間がひしめく谷の避難所で、光太郎は例の機動寺院と共生しようとか言うデモ隊の連中を探したが、知った顔はいなかった。見える範囲にいないのか、それとも本当に避難していないのか。どっちにしろこんな状況では、彼らの言葉は妄言としか思えない。
 安楽寺の足音が遠退いていく。今日も誰かが犠牲になったのだろうか。まだ光太郎の知り合いが犠牲になったことはないが、そうなるのも時間の問題な気がした。
 父上は今頃、阿波に着いた頃だろうか………。
 そんなことを考えながら牧場に帰ると「あのう」と、美奈から声をかけられた。
「どうしましたか?」
「お手を」
 言われて光太郎は自分が避難している間、美奈の手をずっと握っていたことに気が付いて赤面した。彼はそのまま、牛の厩舎に美奈を引っ張って行こうとしていたのだ。
「すいません」
 光太郎が謝罪すると「いえ」と、美奈もばつの悪い笑みを浮かべる。
「ええと、これは、その、全部、機動寺院が悪いんですよ」
「そうですね」
 美奈が俯いた。
 ああ、俺は何を言っているんだ。この人は機動寺院に家族を全て食われたんじゃないか。思い出させてどうする。
 光太郎は後悔したが、口から出たものをまた戻すわけには行かなかった。だからこの際、はっきり言っておこうと思った。
「あの、美奈さん」
「はい」
「父上や、視察隊の人たちに何かあったとしても自分を責めないで下さい。みんな、覚悟して機動寺院に立ち向かっているのです。俺は今朝、人を助けるのはお互い様だと言いました。でも、本当はそれだけじゃない。みんな機動寺院に腹を立てている。だけれど何もできない。阿波の人たちを助けることは、あの理不尽で不条理な機動寺院に一矢報いる、俺たちが出来る唯一の方法ではないでしょうか? 歩く寺のせいで、お坊さんの説教みたいなことをするのは皮肉なことではありますけれども」
「光太郎、母屋の方は大丈夫だ」
 そこへ真央が声をかけた。
「厩舎の方はどうだ?」
「これから確認するところだ」
 真央は光太郎と美奈を交互に見て「そうか」と言った。
「それじゃあ、俺は厩舎の様子を見てくるんで」
「はい」
 光太郎は美奈と別れて、真央と厩舎の確認を行った。厩舎はどこも壊れておらず、牛も全て揃っていた。
 その日、光太郎の父親は帰ってこなかった。


「うう~、光太郎………うう~」
 光太郎の枕元で、血に塗れた父親の顔が呻く。
「父上! 申し訳ありません父上!」
「おい!」
 光太郎は真央に揺すられて目を覚ました。部屋はまだ暗かった。月光が雨戸の隙間から、細い光を布団の上に投げかけている。心臓がまだ耳元で脈を打っていた。
「うなされるお前の声がうるさくて、起こしたんだよ」
 この暗闇では真央の顔はうかがい知れなかったが、光太郎には彼の表情がよくわかった。きっと自分をたいそう心配しているに違いない。
「血まみれの父上の夢を見た」
 光太郎は言った。
「ただの夢だ」と、真央は言い返す。
「竈の火を起こして牛乳を温めよう。今日は俺も眠れそうにない」
 光太郎と真央は台所へ行く。光太郎が竈の火を起こし、真央が倉庫へ牛乳を取りに行って、鍋へ注いで火にかけた。
 二人はパチパチと音を立てて弾ける火に手をかざしながら、しばし無言だった。二月も終わる頃とは言え、まだ夜は冷え込んだ。それでも竈に火を点けると、その周辺はほんのりと暖かい。
「火は不思議だ。見ていると落ち着く」
 真央の言葉に光太郎も「ああ」と同意する。
「ところで真央、お前、レンレンとはどうなんだ?」
「別にどうもこうもねぇよ。仕事は忙しいし、美奈さんが来てバタバタしてるからな」
「確かにそうか」
「それよりお前、美奈さんのことをどう思っているんだよ」
「え?」
「みてりゃ分かる。お前、美奈さんのこと好きだろ」
「そんな、まだ会ったばかりで………」
「あっちもまんざらじゃなさそうだが」
「でも、美奈さんは家族を失ったばかりだし、体もまだ本当じゃない。弱った人間に付け込むのはどうかと思うぜ」
「何を言ってるのやら」
 真央は笑って竈に薪をくべた。
「こういうのは流れだ流れ。仮に機動寺院の問題が解決したとして、美奈さんを家族のいない阿波へ女一人で帰すのか? それこそどうかと思うぜ」
「お前に言われるとそんな気がしてきた」
 ははっ、と真央が笑う。つられて光太郎も笑った。何だか久しぶりに笑ったような気がした。
 牛乳が温まったので光太郎が尺で湯飲みに注いで、二人で飲んだ。いつの間にか空は白み始めていた。
 そのときである。
「おーい」
 玄関の戸が叩かれた。聞き間違うはずのない、父の声である。
「父上!」
 光太郎が戸を開けると、幾分、くたびれた格好をした父が「ふぃー」と言いながら土間へ腰を下ろした。
「ご無事ですか?」と、真央がたずねると「だいじょぶだ。ちょっと疲れだけだ」と言う。
「竈焚いてるのか?」
「ああ、何だか眠れなくて牛乳を温めていたんだ。父上も飲むか」
「頼む」
 真央が湯飲みに牛乳を注いで父親に飲ませた。
「それで、阿波の様子は?」
「うん、みんな無事に何とか行けて、帰ってこれたよ。とりあえず、明るくなったら庄屋さんの家に行くから、それまで寝かせてくれ。というわけで、おんぶしてくれ光太郎。お父ちゃんもう動けねぇや」
 重い荷物を背負って、阿波へ向かって帰って来たのだ。無理もない気がした。
 光太郎は真央に布団を敷かせて、父を担いで寝かせ、布団をかけた。父親はすぐにいびきをかいて眠り始める。
 光太郎と真央は台所へ戻って、まだ少し残った牛乳を飲み、後始末をした。
「やれやれ、安心したら何だか眠くなってきたよ」と、光太郎はため息をつく。こういうのを心配して損した、と言うのだろうか。
「しかしもう仕事の始まる時間だ。今日はさっさと仕事を終わらせて、たっぷり昼寝をしようじゃないか」
 真央の提案に一も二もなく「そうしよう」と、光太郎は答えるのだった。
 光太郎は起床した母に父のことを伝え、もうしばらくしたら起こすように念を押して真央と共に仕事を開始した。


 光太郎と真央が昼寝を終えるころに、父親は庄屋の所から帰って来た。
「父上」
「おう」
 それだけ言うと、父親は畳の上に腰を下ろした。
「父上、阿波の様子はどうだった?」
「よせ光太郎。父上は疲れてる」
 真央に言われて光太郎はハッと口をつぐんだが、父親は構わんとばかりに手を振って「いや、お前らにも聞かせたい。阿波の現状だが―――」
 父親が話し始めると、光太郎も真央も正座して傾聴した。


 まだ夜も明けきらぬ早朝に出発した光太郎の父親は、同じく視察隊の若者と共に昼頃には無事に上坂の領地を越えて阿波へ到着した。
「機動寺院に見つからないように、なるべく木陰の多い場所を選んで進んだ。まぁ、運が良かったのだろう」
 光太郎の父親は国府へ乳製品を納めるのに、庄屋や国府の役人と連れ立って、何度か阿波へは行ったことがあったが、そのとき父親が見た光景は彼の記憶と明らかに異なっていた。
 田畑には、例のモグラ塚を大きくしたような痕跡が点々と並び、家屋は半壊し、山肌はどういうわけから削れて黄色い地肌を露出させていた。
 炉端にはカラスの群れが獣の死体を突いている。否、獣ではない。人間だ! 機動寺院によって徳を骨の髄まで絞られて、干からびた人間を啄んでいる!
 そのむごい光景に、若者の一人がカラスの群れへ石を投げた。黒い影がわっと飛び立つ。するとその向こうに足を抱えて座り込んでいるやせ細った子供がいるではないか!
 果たしてその子は生きているのだろうか?
「おい、大丈夫か坊主!」
 すぐさま光太郎の父親が駆け寄ると、子供はかろうじて息をしていた。
「いかん、すぐにこれを飲むのだ!」と、柄杓で牛乳をすくって子供に寄越すと、ゴクゴクと牛乳を飲み始めた。
 他の地域では機動寺院が活発だと聞いたが、まさかこれ程とは………。
 視察隊の一人が子供を抱えて、阿波の奥深くへと突き進んでいく。
確かこの道は国府へ続いているはずだ。
微かな記憶を頼りに光太郎の父親が道を進んでいくと、その行く手には巨大な木のバリケードがあるではないか!
 様々な建物の廃材を利用したそのバリケードは、一目で急造品と分かる粗末な代物である。そしてバリケードは、明らかに国府の存在する町の中心部と農村を隔てるために作られていた。
あっけに取られて立ち尽くす視察団に、どこからともなく一人の老人が近づいてくる。
「あれはゼロエリアじゃ………」
「ゼロエリア?」
 視察団の若者の一人がたずねた。
「左様、機動寺院を近づけないための最終防衛ライン。だが実際には、あんなものはハリポテに過ぎん。もう何度も突破されておる。じゃから国府はやり方を変えた。機動寺院が襲われるたびに、あの中から不要とされる人間をつまみだして囮にする方法を考えたのじゃ」
「あなたは?」
 光太郎の父親がたずねた。
「この辺りの庄屋―――だったというべきかな。もはや国府に税を徴収する能力は無い。見捨てられたゼロエリアの外にいる住民は死に体も同然。そういうあんたらは何者かね?」
「我々は上坂から来ました。阿波へ物資を支援をするためにです」
 光太郎の父親が代表して答えると、庄屋を名乗る老人はカッと目を見開いた。
「すると上坂に助けに行くと言った連中は、無事にたどり着いたのかね!」
「いえ、美奈と言う娘が一人だけです。あとは全滅したと」
「なんということじゃ、なんということじゃ」
 老人はうわ言のように呟いた。
「あいつらが旅立った後で機動寺院が来襲したからもしやと思ったが、そうか。美奈だけが生き残ったか、何とむごいものよのう」
「庄屋殿、この村の現状を教えてください。我々が力になります!」


 光太郎と真央は父親が語る阿波の状況に戦慄した。その酷さは、美奈が光太郎たちに語った以上の物であった。
「俺たちは持ち寄った食料を阿波の人々に分けたが、雀の涙だ。壁の外にいる阿波の住民は餓死寸前だ。一刻も早く何とかしなけりゃならん」
「それで、新之助さんは何と?」と、光太郎。
「新之助さんはもうある程度、食料を倉庫の方に集めて備蓄している。納税のために集めたものだが、国府があのような状況では、阿波の方へ与えて支援するのがよかろう。機動寺院も襲撃したばかりでしばらくはこなさそうだし、やるなら速い方がいいだろう」
「大量の物資を輸送するならば、我々も牛を供出しては?」
 真央の言葉に父親は大きく頷いた。
「もちろんそのつもりだ。うちからは牛を二頭だそうと思う。夕方になったら庄屋の所へ行く。光太郎も牛を連れていくのを手伝ってくれ」
「わかった」
「それじゃ、俺はしばらく寝るわ。牧場のことはよろしく頼むぞ」
 そう言って父親が床へつき、光太郎と真央は午後の仕事を始めた。
 そして夕方になった。


 父親と共に、光太郎は牛を引いて庄屋の家へ向かった。今回の物資の支援にも父親は同行するらしい。少しくらい休んでも罰は当たらないと光太郎は思うのだが「自分の牛だ、自分で引っ張らねばどうする」と言って聞かなかった。
 牛を連れて丘を下る。父親と連れ立って歩くのもこれきりになるかもしれないと考えると、何だか足が重く感じた。いや、こればかりではない。機動寺院が四国をのし歩く限り、そこにいる住民全員が日々、これきりになるかもと考えねばならんのだ。
 そう気が付くと、自分が何気なく過ごしてきたこれまでの人生が、とても平和で楽しかったように感じられた。ああ、自分はどれだけ日々を無為に生きてきたのだろう。
「父上」光太郎は言った。「やはり阿波へは俺が行く」
「何をたわけたことを」
「父上はこの前、俺を産んですまないといった。だが俺は今日まで幸せだった。だけど、何一つ、俺は父上に恩を返していない! この前だって、俺も真央も心配で眠れなかった。去って行く父上の背中が今生の別れかと思うと、辛かった。だから俺に行かせてくれ」
「ふん、親孝行なぞどうでもよい。子供は親に甘えて生きていけばよいのよ」
 光太郎の父は吐き捨てるようにそう言ってから「ありがとうよ」と言った。
 庄屋の家に辿り着く。既に庄屋の人間には大勢の人間が詰めかけていた。それぞれが食べ物や、布や、要らなくなった日用品を持ち寄ったりしていた。
 年頃の光太郎としては、人間なんて所詮は他人に冷たいものだと若者らしい舎に構えていたところが残っていたから、この光景に驚かされた。そして感銘を受けた。これだけ大勢の人が、見ず知らずの人間を助けようと色々なものを持ち寄ってくれているとは、世の中もまだまだ捨てたものではない。
「どうも忙しくなりそうだな」と、光太郎とその父は顔を見合わせた。
 事実、住民たちが持ち寄った食べ物や品物を仕分けて、阿波へ送る分の物資を計算し、牛に搭載するのは大変な作業だった。計算は庄屋の新之助に任せて、光太郎たちはせっせと物資の仕分け作業に勤しみ、あるものは倉庫に寝かせ、あるものは牛へ積み込んだり、人間が背負う籠へ入れたりした。
 そのときである。
「やめい! やめい!」
 例の機動寺院賛成派のデモ隊が、庄屋の屋敷へなだれ込んできた。今度はプラカードを下げてはいない。その手に持っているのは薪を割る斧、クワ、竹やり、そして刀だ。
「な、なんだ君たちは」
 新之助が狼狽して、荷物を計算する筆を置いて立ち上がり、庭先へと出た。
「阿波へ物資を送るのはやめい!」
 デモ隊の戦闘に立つ刀を持った男は見たことがあった。街中でよくなんやかんやと喚いている男だ。
「阿波へ物資を送るのはやめい!」
 二度目の発言に、光太郎は思わず「え? なんで?」と言ってしまった。
「機動寺院は不要な人間と必要な人間を選別する、ブッダの贈り物だ! 阿波の町の人間が野垂れ死ぬのは、奴らの備えが足りんからだ! この上板の町だって、飢えている人間がいる! そいつらに送らずに、どうして阿波へ食べ物を送るのだ!」
「阿波の方が緊急だからだ」
 光太郎の父親が言った。
「否!」と、男は頑として否定する。「お前らは阿波の人間にちやほやされたいから、物資を送るのだろう! その偽りの名誉に、鉄槌を下す!」
 男が刀を振り上げる。
「やめんかタケシ! 馬鹿なことはよせ!」
 庄屋がタケシと呼んだ男の前に立つ。
「私たちは純粋に隣町の人々を助けるために―――」
 人々の間から悲鳴が上がった。タケシが刀を振り下ろし、庄屋の胸から血しぶきが上がる。
「こいつらは仏敵だ! 仏殺(ぶっころ)せ!」
 武装したデモ隊が、屋敷の中へいる人間へ向かって襲い掛かって来た。庄屋の一番近くで米を運ぼうとしていた光太郎に、タケシが向かってくる。突然のことに呆然とする光太郎の前に「いかん、逃げろ光太郎!」光太郎の父が両手を広げてかばった。
 肉を切り、骨を断つおぞましい音と共に光太郎の前で父親が切り殺された。光太郎は生暖かい血しぶきを浴びてようやく正気に返り、庄屋の屋敷の中へ逃げ込んだ。
 それからどう牧場へ帰ったかは定かではない。デモ隊の怒号と悲鳴を背中で聞きながら、逃げ惑う住民に紛れたところまでは覚えているのだが。
 光太郎は家の前で崩れ落ちた。血まみれの彼を見た真央は、見たこともない蒼白な顔で「どうした!」と、助け起こす。
「怪我をしたのか! 父上は!」
「あ……ああ……」
 目の前で血しぶきを上げて崩れ落ちる父を思い出す。見捨てた。見捨てて逃げ帰ってしまった。
 母親と美緒が真央の声を聞いて玄関にかけつける。
「光太郎様!」
「どうしたんだい光太郎!」
「ああああああ!」
 光太郎は頭を抱えて叫んだ。何も考えることが出来なかった。

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