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揺らぎ

ぴったりと合わさらないそれが好きだった。

ぽってりとしたかわいいあの子の唇が私に被さるとき、私は食べられていると思った。
僅かな躊躇いも、秘めた慾望も誰にも口にしなかったことも、このタブーも全部。
私の薄い唇からこぼれたひとまわり大きい真っピンクの口紅のせいで私の唇はやけにぽってりと見える。
その時だけ、私はあの子に近づける私になれた。

朝日のゆらめきに、薄く白いリビングのカーテンが揺れているように見える。
揺らぎに触れてみたかった。
誰にも教えられていないのに、それに指を触れたら、柔らかいシーツのように心地よい感触なのだろうとずっと信じてきた。
友達とカーテンにくるまって遊んでいた小さな頃は、その中が秘密基地のように思えて、秘密話をたくさんした。
薄いカーテンを隔てたくらいでは、その秘密話は全て外に筒抜けだったと知らない無邪気な頃。

おはよう。トーストが焼けたよ。でも、ごめん。ちょっと焦げちゃったかも。

私と揃いの指輪を薬指にはめた彼はとても優しい。
私よりも背が高くて、いつも、通りすがった女の子達の視線を浴びているのに気付かないふりをする。
目をそらすということがとても上手な人は、真っ直ぐにその先を見つめない代わりに、斜めにみた景色を知っている。
そんな彼だからこそ私に触れたかったのだろうか。
揺らぎに触れてみたい好奇心で私に触れたなら、どうかそれが柔らかいと錯覚したままでいて欲しい。

おはよう。ううん、私、ちょっと焦げたところが好きなの。

知ってる。君のことなら、全部分かるよ。分かりやすいからね。

仕事に行くためにきちんとメイクを施した後にとる朝食は、少しだけ時間にゆとりが生まれる。
彼が焼いてくれたトーストの焦げた部分をさくりと齧ると香ばしい苦味に頬が緩む。
パンをまるく齧った部分に口紅の紅く細い線が付いたのを見て目をそらす私を、彼は見逃さなかった。

あれ、そういえば今朝は口紅もうつけちゃったの?
いつも玄関の鏡でつけてるのに。

あぁ、ちょっと間違えちゃって。

ティッシュで抑えるようにして口紅を拭ったそのまま、彼の唇に合わせた。
彼の薄い唇はわたしのそれとはみ出ることなくぴったりと重なる。僕たちは相性がいいねと笑う彼との口づけは、その言葉通り、口づけるという行為のように思う。
毎朝の、行ってきますの口づけは彼が望んだ儀式だった。

彼は、私の揺らぎの外にいる。
彼と出会ってから始めたメイクもすっかりと手早くなって、いつかの朝に、あの子がやっていたみたいに、伏し目ながらに鏡を見てアイラインを真っ直ぐに引くこともそんなに難しいことじゃないと知った。
紅い口紅を、薄い唇からはみ出さないように丁寧になぞるように引くたびに、女という性が強調される気がする。
あの子に食べられていたこの唇は、今は彼との儀式のためにある。
でも、この女の下に隠したタブーを、薄いカーテンの外にいる彼は知る由もない。
だって、あの子が全部食べてしまったから。

秘密というのは、お互いの信頼において大切に守られるものでは決してなくて、隠しておかなければならないというタブーを握り合った者同士が頑なに閉ざし合って出来上がるものだと、あの子も私もちゃんと知っていた。
あの頃の私たちが夜の公園の薄い街灯のもとでしか見つめ合うことがなかったのは、それを秘密にしておかなければいけないことだと思っていたから。

私とあの子が愛し合うことを、美しいことだと決して言わないでほしい。
美しいと言われると、特異なものとして見られることを受け入れなければいけなくなる。
私とあの子が愛し合うことは、その辺りに見られるごくありふれた感情と何も変わらないはずなのに。
私たちが白昼の下ではとても仲の良い友達同士としての仮面を被って堅くその秘密を守っていたのは、密かな夜の公園での感情を高ぶらせるためだった。

私たち、こういう関係っておかしいのかな。

私が飲めないチューハイを、あの子はいつも美味しそうに飲みながら、ベンチの上で自分の膝を抱き寄せた。
口にしづらい独り言を言うときはいつも真上を見上げる癖。

普通は、あなたの隣にいるのは男の人じゃなければならないの?それとも、私たちはずっと昼間の仲のいい友達同士の関係でいなければならないの?

でも、わたしには近づかないほうが良いってみんな言っているの。

あの子に近づく誰もに、隠れた激しい嫉妬をおぼえるほどあの子を愛する私にとっては、むしろそれで良かった。
でも、眉を寄せて暗い空を見上げるあの子を見ていると、途端にいたたまれなくなった。

そうね、私もあなたも、普通じゃないから。

ちょっと安心したように笑わないで欲しい。
公園の街灯の灯りは、湿った空気の月よりもぼんやりとした輪郭をしていて、いつもよりずっと穏やかな夜だった。

私たちの秘密は、守るべきものだからではなく、タブーだというその事実で堅く守られてきたということを、痛みに似た快楽と共に、さんざん味わった。

普通であるということは、素面なのか、それとも仮面なのでしょうか。

彼が昔付き合っていた女の子は、誰の目に見ても美しい子だったのに、彼は自分と釣り合わない私を選んだ。

お似合いだと言われる彼女が嫌になった。
誠に身勝手な理由で、彼は、逆さにした砂がこぼれ落ちるように私を見初めた。
自然に隣にあるようなものよりも、違和を感じるものを選ぶことが見る目があることだと信じているくせに、ぴったりと合わさるものに安心感を覚える口づけ。
アンバランスな彼の思考が、不釣り合いな私たちの関係を永遠にしたのかもしれない。

彼は、普通であることを嫌って私を選んだならば、私とあの子は普通でないことを秘密にするために、この関係を友情に書き換えた。

だって、本心を隠すときは仮面を被りたくなるもの。

あの子が結婚したらしい。
彼に届いた友達の結婚式の招待状で、そう知らされた。

私はずっと、高い背と切れ長の一重まぶたを好きになれなかった。
でも、覚えた化粧で、この顔はいくらでも美しい嘘を被れることを知った。
彼には、あの子が愛した私の化粧気のない素っぴんを一度たりとも見せたことがない。
肩まで伸びた自分の髪を梳く指が物足りない。

女という性を前面に押し出すとき、私はあの子の前だけでの私を隠すことができる。

毎朝の口づけを終えて家を出る。
振り返った窓から、身支度をする彼の姿は見えなかった。

外から見る人に、リビングの頼りなさげな白いカーテンに遮られたその中が見えるようで決して見えないのは、朝の光の揺らぎが、透けて見えるような薄いカーテンの中を隠しているからだと知った。

反対側 : 仮面





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