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あわれみに触れる

「あのね、あんまり好きになりすぎないように頑張っているの」
わたしが誰かに伝えることが出来る感情は、いつも引き算されたものだった。
自分の中にある強い感情を誰かにダイレクトにぶつける時、それが「あなたのことが好きだ」という愛おしい感情だったとしても、わたしはそれを手で顔を覆う隙間から漏れ出す光の程度にしか相手に伝えられない。
愛おしい感情だからこそなのかもしれない。
怒りや悲しみこそ、火山の噴火のように躊躇なく誰かにぶつけてしまいたくなるのを理性で必死に自分の身をつねって抑えるものならば、愛おしさとは、天邪鬼な後ろめたさが、手放しに伝えてしまいたくなる気持ちを抑え込む。
わたしは、我を失うということを人一倍怖がる臆病な人間だ。

なによりも、何かを失うということが怖い。

酔い覚ましのブランコに揺さぶられながら、呟いた言葉はどうか聞こえていないでほしい。
横並びで互い違いに揺れるブランコは、顔が見えなくてちょうどいい。
「適度な無関心」という心地の良い線引きをするための自分なりの呪文を唱えると、少しだけ強くなれる気がする。

「好きになりすぎない。気にしない。誰に嫌われたってわたしは構わない。」
誰かに好かれたり嫌われたりすることを全く気にせずに生きることが、いちばん正しい生き方だと思っていた。
ちょうどいい場所で白線を引いて、そこを超えない関係は気にすることが少なくて心地いい。
知らないほうが幸せなことは、知りすぎないことがいい。
だから、あえて左隣のブランコに座ってわたしの横顔を垣間みようとしている彼の視線を振り切るように、街灯よりも高く登っている半月に視線を向けた。

いつからか、何事にも期待をしなくなった。
決して期待が出来ないんじゃなくて、あえて、しないだけだ。
そのくせに、悪夢ばかり見てはうなされて目が醒める。それを自分が見せていることにすら気付かない。
悪夢を見て泣けば、その悪夢が現実じゃないことが幸せに思える。
幸せな未来が待ち構えていることを当たり前のように想像しないことで、それが手に入れられなかった時の失望に耐えようとしている。

そうやって生きることが、どれほど後ろ向きで臆病なのかはよく分かっていた。
幸せも悲しみも、潔く受け入れてしまえばいいのに。「楽しむ」ということが、子供のころみたいに純粋に「楽しい」という感情のみで満たされるならいいのに。

ずっと、幸せだと思うことに罪悪感があった。
人って幸せになるために生きているはずなのに、幸せの定義はみんなそれぞれ違う。
誰かが思う幸せの定義が、自分に当てはまらないと感じることなんて度々ある。
新しい幸せを今にも溢れそうなほど両手に抱えては、幸せだと笑う人たちに、本当にそれが守りきれるのかと問いたかった。
臆病者の嫉妬だった。

幸せが、怖い。手に入れたものを失うのが怖い。幸せを手に入れたら、守るために生きなければならないのが、怖い。
守れなかったら、失ってしまうことが何よりも何よりも怖い。

わたしはいつだって、自分が今立っている足元じゃなくて、まだ見えもしないずっとその先を見ようとする。
「カタチあるものは必ず壊れる」と信じて疑わなくて、幸せのその先に訪れるであろう不幸を恐れて、幸せを見つめることから目を背けてきた。

それなのに、幸せになりたかった。
きっと誰よりも、幸福で満たされてみたかった。
天邪鬼だと思うだろう。
失うことを恐れるわたしは、幸せを手に入れる方法だってきちんと知っている。

脳裏によぎる壊れた未来の幻を今はまだ勝手に見ることの無いように、閉じた目から涙が溢れた。
誰の前でだって決して泣きたくはないけれど、お風呂とお布団と暗闇の中では、涙が空気に溶けてくれる気がして、自然に涙を流せたことを思い出した。
何でもないような顔をして生きるわたしが、
本当は、こんなにも弱くて臆病だということをいつか悟られるだろうか。
涙で滲んだ街灯の灯りは、雪洞みたいに丸くて明るかった。

「大丈夫?寒くない?」と問いながら優しく触れてくる彼に、「ちょうどいい」とあえて、無関心を装った。
頬に触れた空気が冷たく涙を乾かした夜に。

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