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慰む

生温い風に少しだけ湿り気が出てきたら、一刻と夜が迫っている報せだ。
それでも初夏の夕時はまだ白い月を残したまま、リビングにただ薄い影をつくる。

本棚に溢れるほど積まれた本の中から覚えた言葉は多い。みんなが褒め称えるわたしの一風変わった表現は鞄の中の詩から盗んでいる。
あの人が大切な人と別れたのは知っていた。
誰からの寵愛も受けるその人は、周囲の人から浴びせられる優しい慰めの言葉よりも、わたしの既製品の慰めを欲しがった。

半分ほど残ったロイヤルブルーのインク瓶に万年筆を浸す。
こだわって選んだ小洒落た雑貨屋の便箋の上に刻まれる文字の横で、真っ白な紙にポタポタと溢れるインクが青く染みをつくった。

偏愛とは、どこまで気持ちを傾けたら愛になるのだろうか。
例えば、生温い湯船に浸かりながらひたすらその人のことを考えていれば、身体の火照りを冷ますのにちょうどいいぬるま湯が気持ちよくてたまらなくなるとか。
でも、思い浮かべるのは横顔でいい。
笑顔はむしろ取り繕われた表情のように見えるから、上の空みたいな心を閉ざしたような表情がいい。

例えば、本当に愛おしくて仕方がないものは食べてしまいたくなる。目の前から消えたら苦しくてたまらないくせに、舌で味わえば甘い味がすると信じている。
砂糖菓子になったあの人を頭から舐め尽くして齧って食べてしまう夢を何度か見た。
自分の身体の中に取り込みたい。
その砂糖菓子の表情はまるで、食べてと言っていたから。

あぁ、やっぱり優しいね。
手が触れ合わない距離なのにいつも隣にいる存在は、間違わなくて気楽らしい。
間違わなければ離れることもない。

真っ白な紙に一言記す。
わたしにはいつでも弱音を吐いていいですよ。

鏡台の上の香水の瓶を手に取る。
少し前に女友達から、書いた手紙を封筒におさめる前に香水をひと吹き吹きかける術を教わった。
鼻から吸い込んだ空気って、直接心臓に流れていくからだろうか。
嗅覚が蘇らせる記憶はいやに鼓動をどくどくと刺激する。
手紙を開けたときに香る匂いが、普段からそれをさり気なく纏うわたしのことをあの人に思い出させる。思い出させたい。
パフに手をかけて、嬉々としてその術を試そうとするうちに手元の電気しかつけていないリビングが寂しく感じた。

もうすぐ日が暮れる。

所詮、この手紙をあの人が開ける頃には、手紙にできた茶っぽい染みとラストノートの微かな残り香しか届かない。
その微かさに気持ちが揺れる人だろうか。

ひとつに結んでいた髪を解くときに、昨夜のシャンプーと汗と首筋につけた香水が混じり合った香りが解き放たれる。
一瞬目がくらむ。
わたしの記憶として刻みつけるなら、罪深い濃度をもったそれがいい。
一度だけ間違えて、月が綺麗だったあの夜みたいだ。

好きな人の前では強がりでいることを貫くあの人がわたしに欲しがったのは、慰めの言葉だ。

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