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創作笑顔

「総理。今月の報告書です。いやはや、やっと全ての出版社の倉庫の点検が終わり、例のジャンルの本の在庫を一冊も残らずに焼却場に送りましたよ。もはやこんなものを読む必要は全く無くなりましたからねぇ。」
総理大臣を目の前にしているというのに緊張の面持ちを見せることなく満面の笑みを浮かべた大臣は、一冊の本を総理に手渡した。
おそらくわが国に存在する最後の一冊であろうこの本の黒地の表紙には、白い文字で大きく『表情から読み取る心理術』と書かれていた。
「もちろんだよ。トラブルの原因はなんだと思う?考え方の違い。嫌気や悪意が透けて見えること。攻撃的な態度。
それらが全部相手に分かってしまうことだ。
残念ながら、人間とは気持ちが顔に出てしまう愚かな生き物だ。昔からこんな諺があるではないか。『愚者は役者になり、賢者は道化師になる』その意味を知っているか?
愚か者は、表情をころころと作り変えて感情を訴えようとする役者になりたがるが、本当の賢者とはいつも気持ちを厚化粧の下に隠してどんなときも笑顔を作るピエロになる。
みんなが笑顔でいれば、人は誰かに対して嫌な思いなんてしないんだよ。笑顔は伝染する、
笑顔は世界を救う、なんて言うではないか。」
好々爺のような笑顔を浮かべた総理は、大臣から手渡された本を迷わずゴミ箱に投げ入れた。

あの出来事からおよそ25年。例の法律が施行されてから、我が国において人間関係のトラブルとは、ちょうど淹れたての茶に茶柱が立つくらい、もしくは一つの卵を割ったら2つの卵黄が入っている、そのくらい国民にとっては稀な存在になっていた。
法律が施行された最初こそ、国民は戸惑いの声をあげたとはいえ人間関係のトラブルの報告件数を示すグラフはきれいな右肩下がりの直線を描いている。
これは間違いなく世紀の大改革だった。

「ほら、こっちにおいで。あなたは今日からこれをつけて暮らすの。」
お母さんはいつものように優しく笑いかけながら、わたしの肩をそっとつかんだ。
おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、家族全員が優しくてはつらつとした笑顔を浮かべている。
今日の夕食はいつもよりも豪勢だ。
ハンバーグにフライドポテト、チョコレートのプレートに丁寧な文字で「ももちゃん 6さいのお誕生日おめでとう!」と書かれたケーキまで用意されている。
お母さんは、ケーキに夢中になるわたしの顔をそっと振り向かせながら髪を撫でて、じっとわたしの目を見つめた。
いつもの優しく細められたお母さんの目は今日はいちだんと細く、少し潤んでいて特別綺麗なガラスで作られた勾玉のようだと思った。
「笑顔はね、みんなを幸せにするの。笑顔でいれば、みんな仲良しでいられるの。だからこれからはずっと笑顔でいましょうね。」
その日から鏡に映るわたしは、嬉しい時も悲しい時もどんな時も、変わらない少し不器用な笑顔を浮かべ続けていた。

わが国では、国内での喧嘩などの人間関係のトラブルを撲滅するために、「笑顔はみんな幸せ。笑顔でみんな仲良し」をスローガンに掲げ、国民は6才の誕生日を迎えた日から、笑顔の仮面を被って生活をしなければならないとする『笑顔平和法』が20××年に正式に施行されていた。この仮面を一度つけたら、死ぬまで外すことは許されず、さらに喧嘩などのトラブルを起こした場合は矯正施設での収容刑が課されることになる。

今晩は台風で大荒れの天気になるのだろう。
空は真っ黒な雲で覆われ、吹き付ける強風に、電線は今にも千切れそうに大きくしなっていた。
それでも、わたしの木製の仮面は、頑丈な作りで強風の日に外を歩いてもびくともしない。
その時だった。目の前でびゅっと強い風に襲われた女性が勢いよく倒れ込むのが見えた。
わたしが慌てて彼女に駆け寄ろうとした瞬間、それよりも早く、仮面警察はどこからともなく現れて彼女の顔面に笑顔の仮面を押し付け、彼女を連行していった。
一瞬の出来事だった。
彼女は転んだ拍子に仮面を割ってしまったらしい。
一瞬だけ見えた彼女の水晶のような目からはとても美しい涙が流れていた。
その日わたしは初めて、誰かが流す涙を見た。
彼女の半分割れた仮面が息つく間もなく吹いた風にあおられて遠くへと飛んでいった。

「おかえり。外は強い風でしょう。大丈夫だった?」いつもの優しい笑顔の母の出迎えに、喉から絞り出した「ただいま」という小さな声が掠れて響いた。
「…どうしたの?何かあったの?」心配そうな母の笑顔がゆらゆらと歪んで見える。
「ううん。何でもないの」こんなときにもわたしはちゃんと笑えてしまう。
ふいにふわっと優しくて懐かしい香りを感じた瞬間、わたしの顔は母のエプロンに優しく押し付けられていた。
「気を付けて。木製の仮面はね、水を吸うと色が変わってしまうのよ。」
母はわたしの耳元でそっと囁いた。
「大丈夫よ。あなたの気持ちは知っている。
だって、お母さんがあなたの仮面を作ったの。
あなたを守るために、強風でも吹き飛ばされないように頑丈な木で。
せめて…本当のあなたの笑顔を忘れないように、あなたが一番嬉しそうに笑った時の笑顔を思い出しながら一生懸命彫ったの。」
木製の仮面は、強く強く吹き付ける風には立ち向かえるはずなのに、母の柔らかいエプロンの前には脆く滑り落ちてしまいそうになる。
「よく覚えておいて。愛とは、見かけのきれいな笑顔を作ることじゃないの。
届けたい真心を、真剣に込めて創ることなのよ。」
いつのまにかすっかりと濃い色に変色してしまった仮面で覗き込む鏡の向こう側には、いつか見た古いアルバムに大切に眠る幼い頃のわたしがいた。

noハン会の小冊子に寄稿した作品のオリジナルバージョンです。
小冊子では2000文字という制限があったため、オリジナルバージョンから少し削ったものを寄稿させていただきました。
せっかくですので、noteではオリジナルバージョンを投稿しました。

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