見出し画像

きみの世界は

「人生が、パン屋の行列に並ぶようなものならば、どれほど幸福な気分でいられるんだろう。」

「パン屋の行列?どうして?」

「順番待ちをすれば、欲しくてたまらない目当てのものが手に入るの。
必ず手に入るものを目の前に、どんどん前に進んで待つ時間って幸せでしょう?」

「でも、途中で売り切れてしまうかもしれない。
もしかしたら、それが君の目の前で告げられたらどうする?それでも幸せだと言えるの?」

「幸せになれない。目の前の人が、わたしの前に並んだその中の誰か一人がいなければいいと思っちゃう。」

霞んだ視界の先で佇む彼の表情はつかめない。
いつだってそうだ。彼は感情を表に出さないから、能面を張り付けているようだと思う。
その面の下で、わたしの身勝手さに呆れているだろうか。

そういえば、小さい頃、徒競走でいちばんの旗をとった時、ママはわたしをすごいと褒めながら、やたらと周りの視線を気にしていた。
『勝つ人がいるときは必ず負ける人がいることを忘れてはいけないよ。』
そう耳打ちされた言葉は湿った吐息で耳にへばりつく。
飲み込めない言葉は、食べ過ぎた日の不快感みたいに、消化できずに胃の下のほうに重くずしりと残っている。
わたしが勝ったのに、どうして素直に喜んじゃいけないの?
どうして負けた人のことを考えなくちゃいけないの?
考えたところで、わたしに何が出来ると言うんだろう。
まさか勝利を手にするわたしが悪いのだろうか。そんなことはない。
それなのに、わたしは行列で、たまたまわたしの前に並んでわたしの欲しいものを手にした誰かが憎くなる。

「ねぇ、欲しいものが手に入らない、上手くいかないときって一体誰が悪いの?」

さっき、ザラザラとした壁にぶつけた拳にぴりりとした痛みが走った。
中指と薬指の第二関節の皮膚は擦りむけて血が出ている。
咄嗟に、手を開いたりまた握ったりを繰り返すけれど、ちゃんと正常に拳は作れる。
骨折はしていないようだ。
皮肉だった。
所詮、そんなもんだ。自分で自分の骨を折るくらい強くぶつける勇気は無い。

「誰かの幸せが憎いのかい?」

大きな目をかっと見開いたま、彼はわたしを見据えた。
右手で目の付近を擦る彼の手つきはやけに手慣れていた。

「そうじゃない。今、わたしはちゃんと幸せな気分になっているの。だって、大切な友達が喜んでいる姿を見ているんだもん。」

「じゃあどうして泣いているんだ?」

「幸せな気分だと思っていたいのに、どうしてかそれが悲しいの。」

「そうか、そりゃそうだろう。
だって、自分も幸せになった気分になるって言っても、結局は"気分"なんだもんな。
通り雨みたいなもんさ。
ぐっと幸せな気分に浸っていたのに、ひとりの部屋に戻ったとき、急に悲しくなるんだ。」

選ばれる人と選ばれない人は何が違うというのだろう。

同じ目標を目指していた友達の頑張りは賞に変わって、わたしの頑張りは泡になった。
とんだバッドエンドだ。

でも、喜ぶ友達に、祝福を送るわたしは寄り添って同じ幸福を感じるべきだ。
幸せは分け与えられるべきで、悲しみは分け与えてはいけないもの。
美しい友情ってそういうものでしょう。

『勝つ人がいるときは負ける人がいることを忘れないで』
その言葉の裏返しは皮肉だ。
『負けた者は勝つ者のことを忘れられない。』
勝った者にはそれを受け入れる義務があるのだろうか。

でも、そういえば、わたしは人魚姫がバッドエンドだという人が嫌いなはずだった。
だって、王子様を殺したなら彼女は人間の脚が欲しいという希望を叶えられる代わりに、いちばん欲しいはずのものを失うんだ。
彼女が自分の希望を叶えるほうを選んだなら、彼女は後ろ指を刺されながら生きるんだ。
人殺しって。
それならば、泡になって消えた結末のほうが、幾分幸せだろう。

「あぁ、嫉妬なの。本当は悔しくてたまらない。でも、誰かの幸せに嫉妬する自分も惨めで嫌なの。」

「誰も悪くない。本当は、誰も悪くないんだよ。」

わたしの方に擦り寄る彼の身体はやけに温かかった。
「しっかし、人間の世界って大変だなぁ。
おれなら行列になんて並ばないし、欲しいものがあったらジャンプでもよじ登ってでも、何としても取ってきてしまう。
でも、取れなかったらそれまでさ。
他の欲しいものを探せばいいんだよ。
それがおれの世界の掟さ。」

「その努力は?労力は?悔しくならないの?」

「いいか!体力は温存するものだぞ!どこかに放出するなら、そのエネルギーを身体中に溜めておくんだ。ぐーっと。
取れるか取れないかはその日の運次第さ。
毎日探して取りに行けばいつか必ずいいものが見つかる」
そう誇らしげにヒゲを立てる彼の身体は、エネルギーが溜め込まれているから、だからそんなに温かなのか。

「でも、理不尽な憎しみはね、そんなに綺麗なエネルギーにはならないのよ。」

彼の毛並みのいい黒い体を撫でているうちに、誰かを睨みつけた目の奥が刺すように痛かった。

「本当はね、友達に素直におめでとうって言えなかったの。心から幸せな気分にもならなかった。どうしてこの子がって思ってしまったの。でも、そのくせに、もしもわたしがその賞を手にしていたなら、わたしはそうやって思われることに怯えるかもしれない。」

「悪くない。ほんとは誰も悪くないんだよ。勝ち負けも正しさも悪も、ほんとはどれも答えじゃない。」

彼の柔らかい肌に傷をつけないように、日頃から爪は短く切っている。
彼はわたしの膝の上で安心しきった顔で目を閉じた。
「本当はそうやって撫でてくれる手はとっても優しいのに。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?