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仮面

あいつさ、今度彼女と結婚するらしいよ。

背が高くて面長ですっと切れ長の目をしていて、涼やかなブルーがよく似合う人だった。
その薄い唇にうっかりとわたしの口紅をつけてしまったらきっと厚みを増してその人は違う人になってしまう。
彼の指すその人の顔は3年ほど前の面影を残したまま脳裏に浮かぶ。
缶チューハイから滴り落ちる雫が太腿を冷たく濡らした。

わたしが揺れているのか、或いはわたしがこの世界を両脚で蹴っ飛ばして揺らしているのか。ブランコは昼間には子どもの玩具であるのに
夜になるとわたしが腰をかけていても、よく似合うねと許されてしまう。
手にある缶にプリントされているレモンから、いやらしく滴る瑞々しさの象徴みたいな水滴とわたしの手汗がじっとりと重なる。
子どもの神聖な玩具を、夜になるたびに汚している大人たちは本能的で憐れだ。
隣のブランコで同じように揺れている彼のスマホの画面が足元を照らさなければ、たちまち頼りない公園の3本の街灯だけの薄暗さがわたしの蹴り上げたブランコごと夜に吹っ飛ばしてくれそうで、それはそれで良かった。

そうなのね。彼女って、どんな人なの?

意外と普通だよ。釣り合ってないよな。あいつなら正直もっと美人と結婚すると思ってたのに。ほら、この子の前に付き合ってた元カノ。その子は確かミスコン出ていたよね。

彼のスマホに映し出されたふたりの写真はふたりとも正面を見て笑っているのに、どこかから盗撮した写真みたいにどこかぎこちなく見えた。彼女、美しい人。

確かにそうかもしれないね。前のミスコンの彼女の方が彼にはお似合いだったよね。

鋭利な部分で手の甲に一筋傷をつくってしまいそうな三日月だった。
でも、飲み干した缶をグシャリと足で踏み潰して、ブランコに勢いをつける拍子に片足で後ろへ蹴り上げる彼にそれを話したところで特に気の利いた返答を期待してはならない。

昔、神妙な面持ちでわたしに内緒話をもちかけた女の子がいた。
「実はね、話しづらいんだけど風の噂で耳にしたの。あのね、例のあの子があなたのことを、あんまり近づかない方がいいって噂していたよ。
だって、好きになられたら気持ち悪いでしょって。もちろん、わたしはあなたのことそんな風に思ってないけれど。」
噂を教える風というのは、だれかれ構わず人のもとに吹くものだろうか。
その風は絶対に雨雲がやって来る前に頬に触れるみたいな生温さだ。
彼女の耳元に近づいて、ふっと息を吹きかけるとぎゃっと大袈裟な悲鳴をあげて彼女は逃げて行った。
長雨を打たせるこの梅雨も、こんなに簡単にわたしから離れていってくれればいいのに。
しばらく経った後の風の噂では、逃げていった彼女が忠告したことになっていた。
わたしに近づかない方がいいって身をもって分かったみたいに。

ひとりでいることが寂しいことだと思う人は、鏡を見たくない人なのかもしれない。
或いは、誰かからの耳障りのいい言葉をアクセサリーとして身に纏いたい人。
わたしの艶やかな髪は生まれながらだし、つんと小さく控えめにある鼻はお母さん似。
わたしはそれを小さな時から知っているから、誰かに教えてもらう必要なんてなかった。

でも、あの人がわたしの髪を柳みたいなしなやかな指で櫛みたいに梳かした時には、毎夜の努力のお陰でこの艶やかさを保っているのって嘘をついた。
だって、あの人、ひたむきに頑張る人が好きって言ってたから。
他の誰かから言われる可愛いねって言葉は聞かないふりをしてたけど、あの人に言われると媚薬を飲まされたみたいに肌がぞくりと泡立った。

あの人は美しい人だった。
高くてすらりとした身長はその長い脚じゃなくて、しなやかに伸ばされた背筋が作っている。
誰がなんと言おうとあの人の心は揺るがない。
自分の姿は自分が見つめればいいって、誰の吹かせる風にも揺れない。
化粧気がないわりに、その素顔のほうがよっぽど美しい人だった。

わたしには近づかない方がいいってみんな噂してるって呟いたら、切れ長の細い目をもっと細めて笑った。
私以外、他の人間をあなたに近付けなくてすむってことでしょって。
でも口付けをした後に、彼女が自分の顔を見つめて唯一顔をしかめるその瞬間が好きだった。
何か私、ちょっと違う人みたいねって。
あなたの真っピンクの口紅のせいで私の唇がぽってり見えるって。

いつもわたしたちが約束するのは夜の公園のベンチだった。静まり返った公園は秘密という言葉にぴったりと合わさる気がして、わたしは缶チューハイ、お酒が飲めない彼女はコーラの缶をカチンとぶつけて鳴らした。
一度だけ、ふざけてわたしが缶チューハイを口移ししたそのたった数口で彼女は小さな街灯の下でも分かるほど赤くなっていた。
お酒、本当に弱いんだね、可愛い。ってわたしが揶揄うと、彼女は拗ねたように顔を隠した。
そんな可愛いところがあるって秘密、わたしだけが知ってることにしてねって、彼女をもっと怒らせたくて冗談を囁いた。
そうだね。知ってるの、あなただけだよ。あなただけにしたい。
今度はわたしが赤くなって顔を隠すことになる。
今だから、今だけだよ。

真実が深く絡まり合っているのは、表には見えないその下なのかもしれない。
大胆に見せることで隠されたものがより耽美に映るんでしょう。
その割に白昼の下ふたりで寄り添って歩いていてもとても仲のいい友達として、見知らぬ人の目は欺けた。

缶の下の方に残ったアルコールが思ったよりも強い威力をもって視線を掻き回す。
ブランコの揺れが車酔いみたいで気持ち悪くなってきた。

あのさ、俺たちもさ、結婚する?

真夜中の静まり返った公園でプロポーズって小気味良いリズムで言うわりに、夜の暗闇とあなたが深く被ったキャップのせいで横顔すら上手に見られないの。三島由紀夫の小説のタイトルでそんなのにぴったりなものあった気がする。

仮面の告白ってやつ?

何それ。意味分かんない。

本心を話すときは仮面を被りたくなるものってあの人なら返してくれたかもしれない。
あの人の薄い綺麗な唇を覆った後の仮面にそっと口付けをしているわたしに気が付いても、あの人なら何も言わずに見ぬふりをする。
でも、見ぬふりという無関心を装った粋も、とっくに彼には求めていない。

いいよ。そうしようか。

美人なミスコンの彼女じゃなくて、あの人と結婚する男に、わたしだけの美しい人を取られる儀式が結婚なら。
それならば、わたしは、あいつと一見釣り合わないと言ったその彼女の美しさに気付けないこの彼と結婚するのがいちばん醜くていい。

醜いものを隠すときにするものも仮面でしょう。

反対側 :「揺らぎ」





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