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忘れられない思い出

ほんの些細なことなのに忘れられないことがあります。
私は卒業した後絵本と児童書の編集だけをする小さな会社に就職しました。当時としては珍しく女性ばかりの会社で社員は10人足らず。加えて印刷屋さんのご実家から編集見習いで派遣されていた一学年歳上の青年がひとり。
社長はもと大手出版社S社から独立したのだそうです。それで、ほとんどの編集はS社から出版される書籍でした。

人数が少ない会社でしたので、最初から画家や執筆者とのやり取りもしなければなりませんでした。自信などないのですが、そんなことは言ってられないくらい、次々に仕事が舞い込んでくる毎日でした。

私が入社した時はもうすでにあるシリーズ本の編集が決まっていました。画家も執筆者も決まっていました。(1冊だけ執筆者が決まってないものがありましたがこれについては別の機会に書くことにします。)
私が担当した数冊のうち1冊は「うぐいす」など昔から知られるお話の絵本でした。
依頼した画家は渡辺藤一さん。
当時立原えりかさんのご主人でした。

会社の先輩と絵の依頼に伺った時の話です。
渡辺さんのご自宅に伺うと、立原さんがいらっしゃいました。気さくな明るい雰囲気に、それまで固まっていた私の緊張感が解けるようでした。
しばらくして、立原さんはコーヒーを淹れてくださいました。
トレーの上には人数分の違ったカップが乗っていました。
「うちには揃ったカップはひとつもないのよ。
違うカップしかないの。
お客様がみえると、お客様に合うカップを選んでお茶をお淹れするの。」
と立原さんはおっしゃいました。

「あなたはこれ。」
私の前に差し出されたカップは、記憶が曖昧でよく覚えていないのですが、ちょっと地味な、けれど誰か作家物の上等な物だろうとすぐ分かるカップだったと思います。

ひとりひとりに似合うカップを選んでお茶を淹れてくださる、なんて素敵なんだろう。そんな淹れ方をなさる立原さんの気遣いが優しくて、社会人になったばかりの私は思わず泣きそうになりました。

忘れられない思い出のひとつです。

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