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「かたち」は必要ない

まだまだ、ひたすら断捨離中。

長い人生の中、今までにも断捨離モードに突入し、猛烈な勢いでモノを捨てたことが何度かある。

でも今回の断捨離は何かが違う。
「捨てる」というよりも、「整える」をやっているような気がする。


そもそも断捨離というのは、単にモノを捨てまくることではなく、

・「そのモノに張り付いた思い」に気づき、きちんと成仏させてあげること

が重要なのだと、私は勝手に理解している。

とはいうものの、今までは一気にモノを捨ててスッキリ!だったと、今さらながら気づいた。

今回はいつになくスローペースで、いろいろと思いをめぐらせながら、家の中を整えていっている。
そんな中、ある記憶が鮮明によみがえった。

   

「かたち」は必要ない。


そう思った瞬間が、私にはある。

  

     

それはずっと昔、まだ会社員だったころ。
毎年の長期休暇は夏休みではなく、秋に保高養生園へ行くのが習慣でした。

有明駅に降り立つと、おもわず「ただいま~」と言いたくなる。
初めて訪れたときから、穂高の空気はしっくりと自分になじむのです。

滞在中、昼間はずっとひとりで、森の中や川沿いを散歩します。

あるとき、お気に入りの河原でひとり、時間を過ごしていると、あまりにもその瞬間が満ち足りてしあわせで。

『ああ、この瞬間を忘れたくない。
記念にこの川の石をひとつ、持って帰ろう』

そう思ったのです。

   

  

川の流れを見ると、ひとつの石に目がとまりました。

またあの日常に帰っても、この石に触れればきっと、この瞬間を思い出せるだろう。

『私と一緒に来てくれる?』

と、その石に問いかけてみたら、「うん、いいよ~」と言っているような気がした。

じゃあ、これを持って、そろそろ宿に帰るか~、
と思った瞬間、なんとなく引っかかりを感じました。


ああそうか。
許可をもらわないと。


そう思い浮かび、神さまなのかなんなのかわからないけれど(笑)
そのあたりの空間に問いを投げました。

「連れて帰っていいですか?」
  

すると、

まだ「かたち」が必要かい?


そう言われた気がしたのです。


   

ああそうか、そうだよね。
もう「かたち」は必要ない。


川の流れの中に小石を戻し、それを眺める。

それはもう、私の一部だった。
そして私自身ももう、この風景の一部だった。


川の流れに反射する光
川の底にたたずむその小石

水の冷たさ
空気のにおい
流れの音

なにもかもすべて、私の中にある。


これから先、私はいつでもどこにいようと、
この瞬間この場所に、帰ることが出来る。

通勤電車にゆられているときも、
人ごみの中を歩いているときも。

会社でパソコンに向かっているときも、
会議室で不毛な議論にうんざりしている時でさえも(笑)

それはいつも私の中にある。


想い出や記憶ではなく、
いつでも常にその瞬間、
私はそこにいる。

すべて私の中にあり、すべての中にわたしがいる。


いつのまにか忘れていたあの感覚が、自分の中によみがえった。

だから今、この瞬間も。
わたしはそれと共にいる。

この私で、これから何を伝えていくのか...

それをぼんやりと考えています。