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寂しさから290円儲ける方法

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ドリアン助川さんによる、一風変わった「旅」の短編小説連載がスタートします。 日本中(あるいは世界中?)の孤独な人、苦悩している人に会いに行き、何か一品料理を作ってあげながら人生相… もっと読む
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第一話 世田谷区 豪徳寺 (前編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 私の料理を求めるその女性とは、お寺の境内で待ち合わせをしました。  世田谷の名刹、豪徳寺です。  東京の冬らしい、突き抜けた青空が広がる日曜日の午後でした。にぎわう三軒茶屋のマーケットで買い物を終えてから、私は豪徳寺に向かいました。東急世田谷線のちょっとした旅です。かつてこの軌道線路を走っていたのは、青ガエルとニックネームで呼ばれることもあった深緑色のちんちん電車です。この日の車輛は白がベースで、運転席がある車輛前方には猫の顔が描かれていました。 この話が読めるのはこちら

第一話 世田谷区 豪徳寺 (後編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 私はピーさんから拝借した寸胴鍋にオイルをひき、薄皮をむいたペコロス(小玉ねぎ)を軽く炒めました。料理に少々の香りをつけるためですが、のちにペコロスを輝かせるためには、ここで焼き色をつけてはいけません。本当にさっと炒めるだけでよいのです。 「それで、ペットの話なんですけれど」 「あとでゆっくり伺いますね」  話したがっているピーさんの言葉をさえぎるようにして、私は寸胴鍋に赤ワインを振りかけました。すべてのペコロスが浸ってもなお、ボトルの三分の二ほどを注ぎ入れます。ほぐした二缶

第二話 伊豆城ケ崎(前編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 手もとには、金目鯛の炙り寿司です。列車から見えるのは広大な青い海原。  苦悩の塊みたいな人に会いに行く途上だというのに、私は列車に揺られながら、すっかり旅気分になっていました。  金目鯛の駅弁を買ったのは、JR熱海駅の売店です。東京駅からは東海道本線の列車に乗ってやってきました。まだ昼前でしたが、伊東線に乗り継ぐまでに少々の時間があったので、駅弁が並んだウインドウの前でつい足を止めてしまったのです。 この話が読めるのはこちら↓ \書籍化決定!/ 2023年5月23日(火

第二話 伊豆城ケ崎(後編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 金目鯛の寿司はすでに列車のなかで食べてきたので、と喉元まで出かかりましたが、職人さんが目の前で握ってくれる寿司と、作り置きの駅弁が同じ味わいのはずもありません。私は、「おいしいところを、おまかせで」と注文しました。  シャイさんは私の顔を見ずに「へい」と返事をし、その場で屈みこみました。厨房と客席を仕切る板壁の陰になって見えませんでしたが、小型の冷蔵庫があるようです。ドアが開く音がして、木魚みたいなシャイさんの頭が前後に揺れました。 この話が読めるのはこちら↓ \書籍化

第三話 池袋北口(前編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 東京を代表する繁華街のひとつ、池袋。  昭和の頃のこの街の暮らしを、私は高さ一メートルにも満たない視点で覚えています。巨大ターミナル駅の喧噪からはわずかに離れた裏町の、しかしやはりごた混ぜの、人間図鑑をひも解くような暮らしです。  たとえばその場は、銭湯でしょうか。  うちは風呂のないアパート住まいでしたので、私は祖母とともに、「平和湯」という名の銭湯に通いました。脱衣場に置かれた白黒テレビでは、少年のように若い布施明が『霧の摩周湖』を歌っていました。番台横の冷蔵庫には飲み

第三話 池袋北口(後編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 平和通りに蛇屋があった昭和の時代、ほんの小さな子供だったブッツリさんを見かけたことがある。  胸のなかでシンバルが鳴ったかのように、私はそう確信しました。赤影のアイマスクを付けて平和文具店の前に佇んでいたのは、小学二、三年生だったブッツリさんに違いないと思ったのです。  でも私は、それを口にはしませんでした。記憶のなかの少年が仮面で顔を隠しているなら、たとえ半世紀という歳月が流れても、彼の正体を暴いてはいけないのです。少年は赤い仮面をかぶることで、何者かに変身する夢を見てい

第四話 上野・不忍池(前編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 空は真っ青な秋晴れです。池を覆うほどに繁茂した蓮の葉の連なりをかすめ、色とりどりのトンボたちが飛び交っています。蓮の葉の一枚ずつがあまりに大きく鮮やかで、魔力を感じるくらいの緑です。蓮とはこういう表現をする命だったのかと、思わず歩くのをやめ、見入ってしまいます。  ただ、周囲をも視界に入れてしまえば、池の印象は変わります。西にはタワーマンションなどの背の高いビルが立ち並び、東の空は東京スカイツリーのシルエットが串刺しにしています。これが二十一世紀の上野、不忍池の風景なのです

第四話 上野・不忍池(後編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 東大の過去問集だけの赤い壁を背にして、十六郎さんは髪を顔に垂らしたまま、パンダ焼きをもそもそとかじります。  陽光がほとんど入らず、昼間でも灯りが必要な部屋です。十六郎さんは空気が湿気っていくようなため息をつくと、パンダ焼きを口から離しました。 「甘すぎましたかね?」  私はわざと軽い口調で尋ねました。「そうですね」と彼は髪を揺らします。 「こういう甘いものを、いきなり一個丸々食べない方がいいと思うんですよ。血糖値が上がって、膵臓に負担をかけちゃうから」 「ああ、そういうこ

第五話 神戸・高架下(前編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 ただ明るい街並や賑やかな通りよりも、どこかに影の世界とつながる扉が隠れているような、なにが飛び出してくるのかわからない気配の薄暗い通路を歩きたくなるときはありませんか。   私は港町神戸に立ち寄る機会があると、「三宮高架商店街」と「元町高架通商店街」に決まって足を運びます。JRの鉄道高架の下に延々と続く、ウナギの寝床とハモの寝床を交互に継ぎ足したような、狭く長い通路から成る商店街です。  地元の神戸っ子にはまとめて「高架下」と呼ばれるこれら二つの商店街は、「いくたロード」や

第五話 神戸・高架下(後編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 トレイにのっていたのは、あの見慣れた黄色っぽいメロンパンではありませんでした。丸さもサイズも同じでしたが、網膜をぐっとつかむような、青、緑、ピンク、紫、そして橙という色彩が並んでいたのです。 「カラーメロンパン、ゆうんですわ」  メレンゲさんは、頬をすこしだけ緩ませ、「春の花壇みたいでしょ」とつぶやきました。私はどう返答したらよいのかわからず、「でっかいパンジーみたいですね」と精一杯のお世辞を頭に浮かべました。ところが、口から出てしまったのは別の言葉だったのです。 「秋の毒

第六話 伊豆諸島・三宅島(前編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 午後十時半、出航の汽笛が鳴りました。私はブーさんに先んじて船内の階段を上がり、甲板への扉を押し開けました。はあ、はあ、と息をつきながら付いてきたブーさんは、船に乗りこむときと同じく、「あたし、そこを通れるかしら」と、不安げな顔をしました。  ブーさんは三十代後半の女性です。たしかに太めですが、いくらなんでも甲板の出入口にお腹がつかえるはずもありません。足を止めてしまったブーさんに、「あはは、大丈夫ですよ」と私は笑いかけました。ただ、私の内なる声は、気をつけろと叫んでいました

第六話 伊豆諸島・三宅島(後編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 活火山である雄山の中腹までは、舗装された道を辿って登ることができます。ただ、坂の勾配はきついです。もし間違っておにぎりでも落とそうものなら大変です。海苔むすびは凶器へと転じ、畑の明日葉や刈り取りのおばちゃん、郵便ポストなどをなぎ倒しながら海まで転がっていくことでしょう。身軽な人でも時折は立ち止まらないと、心臓が口から出てくるほどの坂が続くのです。でも、三宅島の山登りはそれが良いのです。なぜなら、汗を拭きつつ一息つくたびに、どこまでも広がる蒼い海が、「がんばって登りなさいよ」

第七話 小布施(前編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 春の筆先がそっと撫でていったのでしょう。遠くの山々はまだ粉糖のような雪をかぶっていましたが、千曲川の河川敷では菜の花たちが黄色い歓声をあげていました。風はそよ吹き、植物の目覚めの香りを運びます。 「蕎麦はたしかに美味かったけど」  児童文学作家の南吉コンキチさんはハンカチで眼鏡を拭くと、河原に目をやりながら腿や腰を拳で叩きました。 「てっきり、善光寺に詣でるものだと思っていたなあ。残念だよ」  今日は長い距離を歩くと決めていたので、まず腹ごしらえが必要でした。長野駅を出たあ

第七話 小布施(後編)|ドリアン助川「寂しさから290円儲ける方法」

 土塀に沿った道で遊ぶスズメたち。瓦屋根を伝う午後の光。石畳の傍に咲く黄色い福寿草。小布施の町には、ふと足を止めたくなる風景があります。なにげない小径を歩くだけで、遠い日の陽だまりのなかにいるような気分になってくるのです。栗を食べに来たのではないと知って、爆ぜたイガのような顔をしていたコンキチさんも、散策の途上で表情が和らいできました。 「はあ、ここはいいねえ。なんだか、夢でしか見られない、かつての日本の風景と向かい合っているようだ」 この話が読めるのはこちら↓ \書籍化