見出し画像

眼差し――西加奈子『夜が明ける』書評/小池水音

 親しくしていた親戚の窮状を私が知ったのは、彼女の重い病が判り、命を分ける手術が決まってからのことだった。彼女は長きにわたり、家事、育児に励みながら、非正規雇用の仕事で生活を担い、一方で夫は、彼女の稼ぎから浪費していた。その夫とどうにか別れ、ようやく治療に専念できるという段になっても、奨学金の返済が彼女や家族の胸を重くしていたことに、当時の自分は思い及ばせることができなかった。どのような状況であれ、返済に努めることは当然だと、そう思うひともいるだろう。けれど私は、なにかがおかしいと思う。彼女が病を得るよりも前から、元夫が彼女に甘え搾取するようになる前から、彼女が奨学金を借りようとする、そのずっと前からなにかが。どの糸をどこまで手繰りよせたなら、おかしさの正体に辿りつけるものか悩む。悩む私の視線はおそらく、『夜が明ける』の主人公が終盤、カメラを向けることを決意するさきと重なる。

 西の初期作『通天閣』に、「チーフ」と呼ばれる女性が、元恋人の残したビデオカメラを手に取るシーンがある。赤いランプが点り、カメラの向いたさきは自らの吐瀉物だったけれど、物悲しいその場面には、瑞々しい希望を感じもした。思えば西はこれまでの作品でも、この時代の日本に暮らす、主に若者に降りかかる厳しさの一端一端を描いてきた。『夜が明ける』においてその厳しさは、「夜」という比喩を必要とするほど、暗く、深く、見果てないものになる。厳しさの程度ばかりの問題ではない。作品が持続させ、読者に突きつける語りの密度としての厳しさ。ロスジェネと呼ばれる世代に生まれた主人公と、私の親戚とは、同い年だった。

「あいつのことを知ってほしい」

「そして許されるのなら、俺自身のことも」

 この作品は冒頭で、語り手の視点と、語りの目的とをそのように明かしている。主人公=俺は自らの来歴を振り返りながら、高校時代に出会い、青春時代をともにしたあいつ=深沢暁の生涯について語る。手元には深沢暁の残した日記があり、その記述が、自らについて多くを語らなかった彼が人知れず辿った、長く過酷な足跡を、主人公に教える。だからこの物語は、主人公自身が、最も近しい他者のひとりであったはずの、それなのに助けあうことのできなかった友その人について、悔恨とともに「知り直して」ゆく、その途上の物語でもある。

 それなりに豊かに育った主人公の生活は、高校二年生になった年、父親が自動車事故で亡くなったことに端を発して変貌をはじめる。西は今作について、「ある男の人が最終的におぞましい行為をするようになるまで」を書こうとしていると、執筆時期のインタビューで語っているが、主人公が自らのうちに「おぞましさ」を育んでゆく、その緩やかかつ複合的な過程に、この作品のひとつの恐ろしさがある。

 雑誌や書籍のデザインを生業とし、悠々自適に生きていたはずの父親は、実は家族の与り知らぬところで、多額の借金を重ねていた。相続放棄をするほかなくなり、社会経験に乏しい母親が戸惑う姿を目にしながら主人公は当初、ただ呆然としているように見える。しかし、彼にはっきりと喪失を実感させる事件が起きる。彼が幼いころから出入りをしていた、映画のVHS、レコード、書籍などに溢れた「父の部屋」。その部屋にある日、借金をしていた業者が押し入ると、金になりそうな物品をすべて持ち去ってしまう。

 親の世代から幅広いカルチャーを受け継いだ登場人物は西の過去作でも度々登場してきたが、今作の「俺」の人生においてはこの事件以降、そうした文化資本への言及が、はっきりと姿を消す。それは父親の喪失を色濃いものにさせ、だからこそ、父親が退場したのちに現れる中島という、カルチャーに傾倒した父親とは対極に生きる弁護士の存在が、乾いた土に水が染みるように、オルタナティブな男性性として、主人公のうちで存在感を増してゆく。

 中島は保険会社とのやりとり、相続放棄の手続き、さらに主人公の母親への仕事の紹介や金銭的な援助までを行った、主人公が「命の恩人」と仰ぐ存在であり、ハードなアルバイトに勤しむ在学中や、その後の就職活動中、また社会人として働くようになった「俺」のことを、長く、熱心に気にかける。そうした献身的な姿勢や、弁護士という職務にかける高潔な態度、それらはそれとして尊いものであるからこそ、一見したとき、その言動の背後にある価値観を見通すことは難しい。

 どうしてこれほど、自分たちを助けてくれるのか。そう尋ねる主人公に「困ってる人がいれば、当たり前のことだろ。」と返す中島がしかし、引きこもりの実の息子について、「(息子が)いた、て言ったほうがいいかもなぁ。」「甘えてんだよ。」と言い捨てられる、その分裂。「負けるな。」「俺とお前、それぞれ違う場所で弱い人間を助けるんだ。」主人公はそのように中島から鼓舞されながら、並行して、社会には強い/弱い人間がいて、助ける/助けられる固定的な関係があり、勝利/敗北が決されるというような、中島の語彙の裏に透ける二分的な価値観を、はっきりと内面化してゆく。その姿は、父親の死という埋め合わせえない喪失を、それでも高尚な使命を掲げることによって克服しようというような、痛ましい様にも映る。

 物語の前半、苦境にありながら勉学と勤労に励み、虐げられるひとびとの救済を志す主人公の姿勢は実際、共感を呼ぶ。奨学金の返済という、主人公が逃げ出すことをあらかじめ阻む枷の重さに打ちのめされる。しかし、その共感が危うさをはらんでいることに、読者は中盤以降、次第に他罰的になってゆく主人公の姿から、はたと気づかされる。主人公が「おぞましさ」に向かうまでの長い過程。そこには、苛烈なエピソードもある一方で、中島から伝播される価値観を含めた多くの影が縒り合わさって、曖昧なグラデーションをなしている。誰しもが「おぞましさ」に手を染めうるのだと、そのことを字義通りの教訓としてではなく、語りに手を引かれるうちに、読者は体感する。それはこの作品が静かに成しえている大きなひとつであり、だからこそ終盤の後輩の女性=森による、作中において異様な(と感じられる)ほどに健やかな論が、異様さにおいて意味を持つ。前長編『i』で主人公・アイの親友のミナが担ったように、森は社会における理想を体現した存在と言えるが、彼女の語る論に目が眩むとしたならば、それはつまり読者の瞳が、それまで暗がりに慣れるほかなかったそのことを証しもするのだと思う。

 かような「おぞましさ」への接近を体感するのと並行して、読者は深沢暁の人生を垣間見る。彼はアキ・マケライネンというフィンランドの役者と瓜二つの容姿であることから、初対面の主人公から「お前はアキ・マケライネンだよ!」と声をかけられ、それをきっかけに二人の親交がはじまる。マケライネンの主演作を主人公から借りて見て、深沢暁はあまりの類似に天啓を受けたように、自身を「アキ」と称し、次第に「深沢暁」であることから離れ、マケライネンそのものに近づくことを志向する。

 深沢暁=アキはこの物語において、シングルマザーの貧困家庭という境遇と、「無駄にデカい奴」「ただの醜い奴」と周囲から認識され、かつその風貌だけで周囲を脅かしてしまうことに自らでも恐れを抱く、ルッキズムの十字架とを負っている。さらには精神的な病苦に苛まれた母親からは長きにわたり、ネグレクトを超えた、鈍い虐待を受ける。

「私に復讐するようになるんだよね。知ってるよ。大人になったら、私をいじめるようになるんだもんね。みんなそうだよ。」

 そう言って母親はアキの腕をつねり、背を叩く。母親から注がれる愛は彼の成長とともに途絶え、アキから母親に向けた愛もまた、まっすぐに受け取られることはない。マケライネンに近づこうとする「演技」はだからアキにとって、どのようにも逃れられない境遇という、外見という、そして自己という、堅固な檻から脱出するための唯一の術として、深沢暁の心をとらえる。

 他者になることを希求するこのアキという登場人物について、そしてその末路について、作品を繰り返し読みながら思い、悩んだ。深沢暁=アキは、自身も俳優を職業としなければマケライネンと同じではないとして、高校卒業後、劇団に所属する。主宰である東国は、はじめ、主人公を除いてほぼ初めて、はっきりとアキの存在を認め、迎え、「家族」としての関わりを許す、第二の母親というべき存在となる。

 しかし、東国はある戯曲において、「暴力」を体現する役として、アキのことを選ぶ。演技によって深沢暁という檻から逃れようとしたはずの彼が、なによりも彼自身を苦しめてきた、なにをせずとも他者を脅かしてしまうその体躯を前面に生かし、暴力性を体現しなければならないということ。その倒錯の果てに、アキはほとんど自我を崩壊させ、さらには彼が戯曲において表現しえてしまった狂気が皮肉にも、劇団の主宰=母親たる存在からの、二度目の拒絶を引き出してしまう。アキは結局、劇団を離れる。そうして繁華街を彷徨した末に辿り着くバー「FAKE」では、アキよろしく一筋ならない影を抱える者たちが、オードリー・ヘップバーンの晩年や、スターリンや、2PACの風貌をして働いている。アキもまたそのバーで、誰からも言い当てられないまま、アキ・マケライネンの「そっくりさん」として働くことになる。

 自らを偽ること、善良を装うこと、理想の自分を演じること。ひとの「ありのまま」という問題について、西は過去の多くの作品で思考してきた。強すぎる自意識に右往左往する姿は『舞台』の主人公・葉太において。他者の求める役割を自ら演じてしまうことについては、近作の短編「孫係」(『おまじない』収録)において、鮮明に表現している。いずれの作品でも西は、「ありのまま」を称揚しがちな近年の社会で、演技すること、偽ることに伴う、努力や思いやりの側面を言い当て、肯定してきた。それでは今作におけるアキが実践する演技は、それらの演技の延長線上にあると言えるだろうか。少なくともこれまで、アキほどに文字通り、他者になりかわることを希求した者はいなかった。『舞台』の葉太のように、装うことの果てに自らと出会い直すことも、「孫係」の私のように、偽りを他者から肯定されることもない。アキにおける演技は、容易な解釈を拒むものとして、物語の全編に漂いつづける。

 祝福。西の作品でたびたび主題となってきた、その言葉を思う。今作について西は「ハッピーエンドじゃないというのは、私の小説の中で、もしかしたら唯一かもしれない」と語っており、その言葉の通り、むしろ作品を通して、いま社会にたしかにある苦境を、まっすぐに描写することに主眼を置いている。だが、それでもなお、現状を是認することや、苦境を美化することから距離を隔てた静かな祝福が、ためらいとともに、登場人物たちに与えられているように、私は感じる。それは、主人公=俺においては、後輩の女性=森という他者の存在や、アキの日記がもたらす、再生への契機であっただろう。それでは、アキが迎えた数奇な末路からは、どのような種類の祝福を見出すことができるだろうか。

 外見に伴う偏見、貧困、母親からの虐待。それらの境遇を知るとき、他者に重なることにしか救いを見出せなかったアキの願いはどこまでも痛ましく、無関係の他者が、社会が、あるいは作者や読者が、彼に見舞った構造的暴力を差し置いて、安易に是認や肯定をすることは、許されない眼差しであると感じる。そのことを頭に置きながら、それでも密やかに投げかけられているはずの祝福のありかを探して、深沢暁の生涯を改めて辿った。そうして私の胸に迫ったのは、「あいつのことを知ってほしい」として始まったこの物語を通して、主人公がアキに注いだ「視線そのもの」だった。そこには、アキの感じた痛みのひとつひとつを数え、その苛烈さに想像を及ばせるほかないことのやるせなさと同じほど、アキそのひとが辿りえた軌跡に対する、深い敬意を感じた。

「アキは、自分の体を雪と同化させようとした。自分の輪郭をなくし、徹底的に雪に交わり、雪そのものになろうとした。いつか雪と同化した自分、優しい雪になった自分の上を、動物たちが歩いてくれないだろうか。」

 それはアキがマケライネンを知るよりもずっと以前の幼い頃に抱いていた夢で、そこには、近隣に住む子どもたちと親交を得られなかった彼のあどけなく痛ましい心象が表れているのだが、同時に、彼が生涯にわたって保ち続けた、世界に向けた姿勢を示してもいる。

 勝利と敗北、強者と弱者、助ける者と助けられる者。そうした価値を超えて、さらには自己と他者という壁すらも半ば超えようとしてあったアキそのひとの人生に、主人公は彼を喪ってはじめてひしと視線を向け、目を眩ませる。そうしてアキのことを見つめ直す主人公の眼差しには、社会にも、作者にも、あるいは神にすら与ええない、「俺」だけが注ぎうる、近しい他者による悼みという静かな祝福が満ちている。

 是認/美化を遠ざけようとした作者の筆跡を思うとき、このように述べることにためらいがある。しかし、この作品は、社会を覆う暗い影に向けて、赤いランプの点るカメラを突きつけることと、問題ある社会において懸命に生きる/生きたひとの、そのようにしか生きえない/生きえなかった人生に、物語という機構を通して祝福を在らしめることを、同時に成しているのではないか。それこそが物語というものの成せる、ふくよかな可能性であるのだと教えられもする。

 たったひとりの他者を知ることからはじまる主人公の歩みのさきにはきっと、二人の男性主人公の周囲で苦しみつづけた多くの女性たちの人生に向け、想像を広げる道のりが待っているのだろう。その歩みに思いを馳せながら、読者はいまたしかにつづいている、現実の夜に目をこらすことになる。私は病の末に亡くなった親戚を思う。彼女の遺した子のことを思う。その子の祖母は七十代で非正規雇用に従事しながら、その子のことを育てている。会話のうえにはほとんど現れない、喪失の痛手とともに日々を営んでいる。その子はあと六年で、大学に進学する。おそらくはあと六年で明けることのない、あらゆる夜を思う。

 (初出:「新潮」2022年2月号)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?