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ここじゃないどこか/玉田真也

 伊勢に猿田彦神社という古い神社があって、ここ数年友人のKさんら数名と参拝している。参拝と言っても僕たちが行うのは、5円玉を賽銭箱に投げ込んで天井から伸びているあの綱状のものをガラガラさせるという一般的な参拝の仕方ではなく、数千円のお金を払って神主的な人に祈祷してもらうというけっこう本格派な参拝だ。普通ならわざわざそんなにお金を払って祈祷なんてしてもらわないのだけど、Kさんがそれをやるという。驚いて聞くと、なんでもこの神社は「みちひらき」の神様が祀られているたいへん有り難い神社。Kさんは数年前から家族でここで祈祷してもらっていて、その日から道がひらかれて仕方がないという。Kさんはコントグループを生業にしているのだが、その活動に新しい道がひらかれ、今まさにその道を邁進中とのことだった。具体的に何がどうひらかれたのかはいまいち分からなかったのだが、そんなに言うのなら僕もひらかれたいと思い、祈祷してもらうことになった。そこから3年ほど、とくに何かがひらかれた感覚があるわけではないが毎年同じメンバーで参拝しに、というか松阪牛のすき焼きを食べたり、鳥羽の方に行って美味しいお刺身を食べたり、海に行ったり美術館に行ったり、もはやただの旅行なのだが、一応大義名分として参拝しに行っているということになっている。

 Kさんとは5年ほど前にあるイベントの出演を機会に出会った。お笑い芸人と演劇の人間が共演するイベントで、僕は演劇側の出演者として楽屋にいた。普段芸人さんたちと付き合いなどなく、しかも一方的に知っている、ある種憧れに近いような気持ちを抱いているコンビの方たちも同じ楽屋にいて、話しかけるのも気が引け、楽屋の隅のイスですらない、壁から突き出ている出っ張りのような場所に腰掛けている僕に、Kさんは近づいてきた。「隣いいかい?」そんな翻訳劇のようなセリフで話しかけられたわけではなかったと思うが、僕の記憶には何となくそんなようなニュアンスで定着している。「ここ、座っていい?」「あ、はい」「このイベント初めて?」「あ、初めてですよろしくお願いします」「僕らはさ、誰からも無視されてきたから」急に何を言ってるんだと思った。Kさんが言うには、Kさんの所属するコントグループはお笑いでも演劇でもない、どこの界隈にも所属していない道を愚連隊のように歩いてきたので、誰にも見つからず、誰の視界にも入らず、通った場所に残り香すら残さない隠密ぶりを発揮して今日までやって来たというのだ。いきなりそんなことを伝えられて戸惑ったが、Kさんの構えのない自然体さで、人見知りの僕でも緊張せず話すことが出来た。そしてその日の本番で観たKさんらのコントは面白かった。誰にも見つかってないんだとしたらおかしいと思った。

 Kさんとはそれ以来親しくなり、よく一緒に飲みに行った。饒舌で話題豊富なKさんと飲むのは楽しく、年上だが特に気を使わなくてもいいオープンな人柄のため、2人で飲んでも居心地がよかった。一つだけやっかいなのはたまに飲みすぎて泥酔してしまうことだ。

 最終的には寝てしまうのだが、そうなると何をしても起きない。この体には本当に魂が入っているのかと疑うほど、意思を感じられないただの重くてぐでんとした物体になってしまう。文字通り泥のよう。そしてそういうときに時折、予言めいた言葉を発することがある。いきなりむくっと起き上がり、据わりきった虚ろなまなざしで相手の目の中を覗き込み、口をぱくぱくさせて、何かしら芯を食った言葉を発する。そういうときのKさんはまるで何かに操られている人形のように空虚で、にもかかわらず不思議な力強さを持っている。そしてKさんは翌朝にはそのことを全く覚えていない。僕も以前、「お前はこれからどんどん嫌われていく」と呪いのような言葉をかけられたことがある。言ってすぐにムニャムニャと寝てしまうので、まるで何か神がかった存在に憑依されて発した言葉のように感じられて謎の信憑性を帯びる。やめてほしい。

 実はそういうKさんを見ると羨ましく感じる。僕は酔いつぶれて記憶をなくしたことが一度もなく、少しでも酔いが回ってきたらすぐに酒量をセーブしてしまう。結果、意識を保ったまま、まぁそれなりに楽しく最後まで飲むことになるのだが、なんだか窮屈な感じもする。自分の理性に常に守られているように、常識に制御されているように思えて、あぁ自分の人生はきっと自分の制御している範囲内でしか展開していかないんだろうなと思って残念な気持ちになる。目が覚めると昨日の夜の記憶がまったくないだとか、目が覚めると隣に全く知らない人が寝ているだとか、目が覚めると聞いたこともない駅のベンチで寝ていただとか、そういう経験に憧れる。常に目の前の流れに身を任せようというオープンな態度がKさんをそうさせるに違いなく、僕のように常に自分の柔らかい部分を何かでガードするような意識でいると、人生を面白くするチャンスを逃してしまうんじゃないかと思う。

 僕がKさんの勧めに応じて「みちひらき」の祈祷をしてもらおうと思ったのはそんな憧れと無関係でない気がする。道をひらかれ、ここじゃないどこかに行きたいのかもしれない。

 ある日、2人で飲んでいるときに例のごとくKさんが酔いつぶれた。無理やり引きずって店を出て、タクシーに一緒に乗った。しばらく走り、僕の家の近くで一旦停車してもらう。車を出る前に「Kさん、俺ここで降りるから、住所言って」。もちろんKさんには何の反応もない。座席に座っているのは泥人形だ。強く揺すぶりながらもう一度Kさんに声をかけるが、もはや魂が抜け落ちた物体に過ぎないKさんに何を言っても無駄だった。結局そこで降りるのは諦め、Kさんの自宅マンション前まで送り、無理やり車外に引きずり出した。魂が抜け落ちた状態ではあるが、Kさんはそこに直立している。疲れもあって玄関まで送り届ける気にはなれず、車を出してもらった。やっと家に帰って寝られる。そう思って後部座席に深く腰掛けていたが、ふと気になり、振り返ってみると、Kさんは車から降ろしたままの場所から一歩も動かず、ぼんやりと直立している。こちらの方を虚ろに見ていて、口元をぱくぱくさせて何かを言っているようにも見える。

 僕はリアガラスから遠ざかっていくKさんの姿を見ながら、猿田彦神社の祈祷を思い出していた。泥人形となったKさんの体に「みちひらき」の神様が乗り移っていることを想像した。Kさんはあのまま家には帰らず、ひらかれた道を歩いてどこか遠くに行ってしまうのではないかと想像し、不安と同時に、なにか有り難いものを見ている気分になった。住宅街を走るタクシーの中で、リアガラス越しにKさんを見ながら僕は手を合わせた。

(初出:「新潮」2021年10月号)


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