見出し画像

ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品撤去撤回とパブリックアートという未来/福永信

 ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品の撤去が撤回された。あっけない幕切れに思えた。撤去しないことを求めていたのだからそれでよかった。二月からは工事の仮囲いで覆われる予定だったのだから、その前に決着がついたことはよろこばしいことだった。美術評論家連盟が髙島屋社長村田善郎氏と立川市長清水庄平氏宛てに撤去の再考を促す要望書を送付しての、急転直下の「解決」であった。髙島屋は社長名義の回答文でこのように記した。

(国内外で高い評価があり文化的価値の高いファーレ立川内の作品群に囲まれて事業をしてきたと自らを振り返った後で)
そしてこのたび、貴連盟からの書面を拝読し、その文化的価値を再確認するとともに、立川地区の皆様の生活の中にアートの数々が根づき愛されていることを改めて認識する機会となりましたこと、重ねて御礼申しあげます。

 今回頂戴いたしました貴重なご意見を踏まえ、当社グループで管理する2023年秋の立川髙島屋S.C.改装計画におきましては、当社グループの社会的責任として本アートを保存していく方向で関係者の皆様と協議、検討を重ねる所存でございます。

 美術評論家連盟のホームページに全文が公開されている(*1)。四百字詰め原稿用紙一枚程度の文章だったが、事態を百八十度反転させる内容だった。
 要望書が届いてわずか五日後のことだ。去年から公表せずに進めてきた撤去の計画をあっさりとりやめた。理由は書いてない。要望書が保存を求めますと書いたのに対して、保存すると答えたまでのことだ。
「当社グループの社会的責任として」作品を保存するというが、どういうことだろう。今までずっと、三十年近くも、「当社グループ」はこの作品を所有者として「保存」してきた。それが、改装に際し、撤去することへと舵を切った。では、その時は、「社会的責任」とやらは、どこにあったのだろう。忘れていたのだろうか。

 去年の十月十八日、私は徹夜して書いた文章を、読み直していた。髙島屋のホームページにある立川髙島屋S.C.のお問い合わせフォーム用の下書きだった。名前も知らない相手なので、ご担当者さま、と書いた。
 撤去されると聞いたのは、その月の上旬、十月六日のことだ。『群像』の編集者M氏からのメールの末尾に、追伸として、立川の岡﨑さんの作品、撤去されてしまうそうですね、とあった。
 私はすっかり驚いて、仕事の完了をわざわざ告げてくれたメールであったのに、そのメールに返信をして、詳細を訊ねた。岡﨑氏の事務所が新しく名称変更することを告げる案内に、岡﨑氏のパートナーであるぱくきょんみ氏が撤去されるということだけ、一筆書き添えていたという。彼もそれ以上のことはわからず、私は検索をしてみたもののそれらしき情報は出てこなかった。
 一体何が起こっているんだろう。
 公表せずに撤去など、ありうるのだろうか。しかもパブリックアートで? ファーレ立川といえば、百九点もの作品が街のあちこちに組み込まれた大規模なプロジェクトだ。パブリックアートといえばモニュメントを設置して終わり、というのが主流のこの国で、一九九四年にオープンしたファーレ立川は一風変わっていた。当時の海外の潮流と足並みをそろえるように、ベンチや車止め、ビルの外装の一部や換気口のカバーなど、都市の機能や環境を豊かにデザインする役割をアートに担わせた。地元住民との間で軋轢を生まないようにコミュニケーションが重要視される傾向が世界のパブリックアート界ではすでにあったが、ファーレ立川のアートプロジェクトではその必要はなかった。というか、やろうと思ってもできなかった。区画内には「地元住民」がいなかった。アメリカ軍の基地跡だったからだ。
 今から百年ほど前には陸軍の飛行場だった。飛行場を中心に多くの軍事施設や軍需工場があり、軍都として立川は発展した。当然のことながら何度も空襲の標的になった。多くの特攻兵がここから散っていった。
 敗戦後、飛行場はアメリカ軍に接収されて立川は基地の街として再出発することになり、朝鮮戦争の特需で好景気を迎えた。基地拡張計画が発表されたのは一九五五年、反発した住民が抵抗運動を組織した(砂川闘争)。長い戦いの末、一九六八年に中止に追い込み、一九七七年には東京ドーム九十八個分にもなるアメリカ軍基地が全面返還された。国営昭和記念公園、陸上自衛隊駐屯地など様々に再開発が進んだ。一九八三年に住宅・都市整備公団が施工者となり、返還された土地の一部を高密度なオフィス街、そしてデパートや映画館といった商業市街地として構想、それが現在のファーレ立川である(*2)。
 住宅・都市整備公団は、これまでも団地の周辺にアートを置くなどの経験があった。だが、いつも同じ作家が手がけたり、凡庸な作品が並んだり、イマイチというか手詰まりというか限界を感じていたようである。そこで巨額が投じられるプロジェクトであるこのファーレ立川では、五社に対し、当時まだそのような専門家もいなかった「アートコーディネーター」の指名コンペを実施した。勝ち取ったのは、四十代後半だった北川フラム氏と彼をリーダーとするアートフロントギャラリーだった。一九九二年のことだ。ファーレ立川のアートプロジェクトが世界的に見て画期的だったのは一人の人物に任せたことだろう。主催者サイドは作家の人選などに一切口を出さず、むしろ彼を周囲から守るようにしてキュレーションの個性を失わせないようにした。実際には公団側が難色を示す作家もいたようだが、北川氏はそれをはねつけたようだ(*3)。彼はその年の夏に初の外遊でヨーロッパやアメリカをめぐり、リサーチや参加作家の選定にあたった。依頼の時点で存命であることが基準だったというが、それは実際に会って、自分の思いや相手の考えを聞きたい、語りたいということだっただろう。情報がなく、海外の雑誌で見た図版を頼りに作家を探し当てたこともあったそうである。実際、日本ではまったく知られていない作家、美術館にも収蔵されていない作家の作品を、ここファーレ立川では見ることができる。
 作品は当然作者によって手がけられている。そんな言わずもがなのことをわざわざ確認しておきたいのは、パブリックアートというのは、美術館で見る「アート」に比べて「作者が実際に手がけた」感がどこか希薄だからだ。素材がいつも硬く、しっかり固定されており、工場などに発注されることも多い。そのためどこか匿名的な、公共工事みたいな印象があるのかもしれない。もっとも、発注での制作などは美術館に展示されるような作品でもごく当たり前に行なわれているわけで、パブリックアートが作家の「作品」だという印象を持ちにくい大きな原因は、それが野ざらし雨ざらしで、閉館時間もなく、常に「さらされている」からだと思われる。身もフタもない言い方をすれば、貴重なものに見えないのだ。美術館にあるのが美術作品で、野宿しているかのようなパブリックアートは、複製に似た、二次的な、格下の存在のように映ってしまう。だが、パブリックアートに面白さがあるとしたら、むしろそこだろう。実際に作家によって作られたオリジナルな作品であり、美術館で展示されるような作品と比べて全く遜色ない価値を持っているにもかかわらず、貴重そうに見えないところ。緊張して作品と対峙する必要がないというか、「見る」必要さえなく、向こうから、つまり作品の方から何度も視界に遠慮なく飛び込んでくる。陽気な友達、あんまり仲良くないのに話しかけてくるなんだか気のいいヤツ、そんな感じがある。だからアートっぽくないのかもしれない。

岡﨑乾二郎《Mount Ida―イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》(1994)

 岡﨑乾二郎作品は立川髙島屋(当時はS.C.がついてなかった)の裏手、地下駐輪場の換気口のカバーとして作られた(*4)。裏手であり、オープン時はまだ岡﨑作品の前をモノレールは走っておらず、車の行き来があるだけの、寂しい場所であった。スパッと切れたような切断面から作品内部の植栽の枝がハミ出し、いや夏場にはハミ出すなんてレベルじゃなく青々とした葉っぱが飛び出して、彫刻全体のシルエットを変えてしまう。ピラカンサの赤い実が、新たな「素材」として彫刻の一要素に加わる。雪の日には白く積もってその緑と紺、桃色のフェンスの印象を変え、秋には枝だけでスカスカになり、作品の中が透けて向こう側まで見えるほどになった。単純な形がベースにあるはずなのに、全体像を思い描くことができず、かといって、何かうるさく主張するわけでもなかった。雨の日には雨滴がフェンスの格子から滑るように遊んでいるようだった。変化の豊かさ、優しさを感じさせる詩的な作品で、しかも、同時にバカバカしさすら漂っていた。将来的にモノレールから見下ろされることまで考えて設計されていた。いつだったか、作品の中で子猫が休んでいる姿を私は見たことがある。上から下まで、美術館では不可能な表現だった。本作には、岡﨑氏のやりたいことが全部入っていると私は思う。
 一人のキュレーターによってディレクションされたということのほかに、ファーレ立川にはもうひとつ顕著な特徴があって、それは作品が、オープンをもって市や設置場所の地権者に譲渡されるというものだ。岡﨑乾二郎作品の場合は立川髙島屋、つまり髙島屋グループが「所有者」であって、今回の要望書が髙島屋社長に向けて出されているのはそのためである。民間企業の所有物となるわけであるが、「パブリックアートの所有者」なのだからたんなる私物ではない。看板を掛け替えるのとは違うのだし、人知れず撤去するなどということはできるはずがなかった。撤去するとなると、当然工事用の囲いで覆うことになるのであり、どっちにしろ目立つ。むしろ、後から撤去が知れ渡ってしまう方が所有者にとってマイナスイメージになるのは明らかだし、では、なぜ公表しないのだろう。サッパリわからん。これは自分で取材してみるしかないな、と私は思った。
 すぐにREALKYOTO FORUMの小崎哲哉氏に事情を話し、原稿を書くから載せてくれろと頼み、快諾を得た。そして、髙島屋のホームページ内にある立川髙島屋S.C.のお問い合わせフォームから「ご担当者さま」宛てに、四つの質問事項を徹夜して書き終えた。名前や住所、電話番号、メールアドレスの記入ミスがないかチェックし、グイッと親指で強く送信ボタンを押した。
 二日後の十月二十日に受信メールボックスに(1)とあった。送信者は立川髙島屋お問い合わせ窓口であった。返事には明確に「撤去を検討していることは事実でございます」と書かれていた。関係者と合意して、現在は移設先を探しているということであった。「ご担当者さま」と書くほかない、見ず知らずの私に対して、丁寧に、二月一日には作品周辺に仮囲いがされるということ、移設先が見つかっていない困難な状況であること、見つからない場合は解体すること、さらに3Dデータなどで保存し展示することを検討しているというような見通しまで、四百字詰め原稿用紙六枚分の分量で書いてくれていた。
 私はすでにここまで決まっていることに驚いた。
 撤去した後の、長さ二十五メートル以上に及ぶ作品跡地にはパブリックアート作品ではなく、賑わいを創出していくために「(仮)マルシェ広場」という施設が設置される、そう書いてあった。
「議論を重ねた結果」と書き、「様々な検討」と書き、「継続的に協議を行ってまいりました」と書き、「今後の地域発展に不可欠」とまで書いてあったのだから相当な覚悟であるのは間違いなかった。髙島屋のグループ会社で立川髙島屋S.C.の運営管理を手がける東神開発株式会社S氏によるこの返事からは、乱暴にことを進めるどころかむしろ丁寧に、作品をどうアーカイブとして展示するかにまで気を配っていることがわかった。
 だが、私一人に伝えるのではなく、広く公表するべき案件であるという発想は一切、彼の脳裏にはよぎらなかったようであり、それが奇妙に思えた。あえて公表せずにおく、というのではなく、彼自身、そのことにちっとも思い当たらぬようなのであった。公表していないが隠してもいない。奇妙な事態のように思えてならなかった。

 その翌日、私は、アートフロントギャラリーの担当者T氏に、午前の十一時のことだったが、電話で取材をした。T氏は、髙島屋サイドと作者の間の連絡係のようなポジションであると私に告げた。
 このことも私には妙に感じられた。なぜならアートフロントギャラリーの会長であり、ファーレ立川のアートプランナーである北川フラム氏は、六年前の著作でこう書いていたからだ。

建物の改築・解体の際にそこに設置された美術作品をどうするかについては、所有者の一方的な判断で作品の保存・撤去が決定されることを避けるために、所有者と作家とプランナーの三者が話し合って決定するということとなりました(*5)。

 しかし、このT氏は、「三者」の一角を担う存在であるとは自身を見なしていなかった。「オブザーバーなので」ときっぱり述べた。「ニュートラルな立場ですから」とも語った。オブザーバー? ニュートラルな立場? これは一体どういうことだろうか。「所有者と作家とプランナーの三者が話し合って決定する」のではなかったのか。私は誰と話をしているのだろう。もちろんT氏は、しっかりした受け答えをする立派な社会人のようであり、見ず知らずの私からの電話に一時間以上も応対してくれるような丁寧な人物であった。向こうから話を打ち切るようなこともなかった。
 岡﨑作品の撤去を公表していないのはなぜですか、と私は気になっていたことを訊ねた。撤去には合意していないとT氏は述べた。
「え? 合意してないんですか?」
「ええ、決まってません。おそらく髙島屋さんがおっしゃったのは、地権者内で合意したということでしょう」
「え? 地権者内で?」
「ええ。最終的な協議では合意していません」
「え? 最終的な協議?」
「ええ。ファーレ立川アート管理委員会との協議段階を出ていませんね」
「え? 何?」
 ファーレ立川アート管理委員会というのは、立川市と、ファーレ立川のビル所有者の集まりであるファーレ協議会と、ボランティア組織であるファーレ倶楽部で構成される、二〇〇五年にできた組織であった。大規模なメンテナンスなどの事業に取り組んでおり、今回の撤去においても、協議の場に参加していた。S氏からの返信にもその名前は出てきていた。この「ファーレ立川アート管理委員会」が、「プランナー」のポジションと入れ替わったのだろうか。いや、そんなことはないだろう。北川氏の先の記述は二〇一七年の著作のもの、このファーレ立川アート管理委員会の設立後のものだからだ。だが、と私は思ったが、考えるのをやめた。こんがらがってしまったのだ。
「公表していないのが気になるんですが、今回のことは公表されているんですか、どこかで?」
「それは、合意してませんから」
「え? 合意してないと公表できない?」
「そうですね」
「でも、撤去や移設の合意ができてしまってからでは、反対しても意味がないような気がしますが……」
「でも決まってませんから」
「合意してから発表する、と」
「そうですね」
「でも、そうなると、撤去に反対しても意味ないですよね、決まっちゃってるんだから、その時は」
「そうですね」
「撤去に反対はなさらないんですか」
「あまり所有者の権利を無視した態度は取れません。ダメだとは言えませんね」
「二月には工事の仮囲いがされてしまうそうですが」
「そんなこと言ってましたか」
「ええ、書いてありましたよ、S氏からの返事で」
 T氏はやや慌てたようだった。彼自身、あまり状況を把握していないようだった。

 作者岡﨑乾二郎氏とは数回の電話やメールのやり取りを行なった。一昨年に脳梗塞で倒れたことなどまったく感じさせなかったが、時折、その言葉の隙間から、以前のように自転車に乗ったりスタスタ歩いたりできたなら今回の協議にだって直接参加できるのに、という思いがにじみ出ていた。T氏との間で意思疎通がうまくいっておらず岡﨑氏自身の考えを伝えるのには、伝聞というのは不十分であったようだ。
 何度かの電話で、彼は、撤去に関して、受け入れてもいいと思うこともあったよ、と打ち明けた。
「自分の体がこうやって病気で不自由になり、バラバラになった感覚がある。そんな今の自分の感覚と、撤去されて解体していくあの作品とを、重ね合わせることは、作者として、出来るから。自分の中ではそう決着できるよ。だけど、自分のことをもう離れていると思うから。最初に救急搬送された病院のね、リハビリの担当の人がさ、彼はファーレのあの作品の前で育ったんだよ。子供の頃から見てたんだって、あの作品を。こんな偶然あるのかなって驚いたけどさ、ワハハハハ! そんな人がすっかり大人になっているってことでしょ。人間が大人になるだけの時間と環境があそこにはあったってことでしょう。そういう人はたくさんいると思う。福永君だってそうでしょ。ワハハハ! 僕の手をもう離れているんだよね」
 ファーレ立川のパブリックアートは、先に触れたように、「地元住民」がいなかったエリアに生まれた。だが、当然、周辺の、基地の跡地以外の場所には市民が生活し、以前から人々が働き、暮らしていた。そしてファーレ立川として新たに整備された街には、後から人が入ってきた。そこに暮らしが、生活が生まれた。後からであろうとパブリックアートはそこに住んでいるとか働いている人々に受け入れられなければならなかった。パブリックアートの潮流に大きな変化を与えた「事件」として今でもよく持ち出されるのは、一九八一年、ニューヨークに設置されたリチャード・セラの彫刻の顛末である。三十七メートルにも及ぶ巨大な鉄板の作品で、タイトル通りの「傾いた弧」がオープンスペースを通せんぼするかのように設置された。分断されるとか邪魔になるとか、設置前後からさんざんな反発を食らって結局撤去された(*6)。以後、パブリックアートはそこで生活する人々としっかりと共有できるような作品であること、すでに触れたようにコミュニケーションをとりながらプランを立てることが求められるようになった。都市の環境の中で、誰もが目にし、常にそこにあるパブリックアートは、美術館でのインスタレーションとは違うというわけだ。当時の北川氏の戦略が優れていたのは、ファーレ立川に興味を持ち、好きになる住民を育て、味方につけたことであった。教育普及というのは美術館で行なわれているが、それを応用したわけである。愛情が生まれたなら掃除もボランティアでやることになるだろうし、作った当初だけ賑やかで後は廃れ寂れていくだけ、というパブリックアートの従来のパターンからも脱却できる。住民を「指導」するというわけで彼らしい発想と言えるかもしれなかった。
 S氏、T氏、岡﨑氏からの話を聞いた私は、十月二十三日、一本の記事「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品の撤去について」を書いた。続けて十二月七日発売の『群像』二〇二三年一月号に考察をさらに深めた原稿を載せた(*7)。これらの原稿によって「撤去」問題が初めて公表された。

 反応は鈍かった。ツイッターを見ると、美術や建築、文学の領域で仕事をしてたり関心を持っている個人は、興味を持ってくれたようだが、ツイート止まりで、新聞やTokyo Art Beatや美術手帖ウェブ版などのメディアがこの問題を取り上げてくれるのではないかという私の期待はかなわなかった(期待していたのだ)。
 事態が動いたのは、一月十三日である。
 美術評論家連盟が四百字詰め原稿用紙六枚ほどの要望書をホームページに発表した。これによってその日のうちに広く「撤去」の事実が伝わることになったのである。
 同時に、いくらかの反発も見受けられた。梅津庸一氏は十四日に「(美術評論家連盟なくなってほしい)」と率直に「要望」を書いた。また十九日、これは「保存」の報道があったその日だが「(ファーレ立川の岡崎作品撤去問題。民意ではなく美術のインナーサークルの力によって企業の方針を揺るがすことができた。その程度には力があることを証明できたわけだし作品の保存も決まった。その一方で現代アートの公共性が逆に損なわれてしまったように感じるのはわたしだけだろうか)」とツイートした。小田原のどか氏は二月十五日に、ファーレ立川の件をうけていっそう「美術評論家」とは誰なのかと考えているとした上で「自らが寄って立つものや制度を批判できず、長いものにはまかれろ(大きな権力・勢力を持つ者には敵対せず傘下に入って従っておいたほうがよい)のが「美術評論家」なのか?」と問題提起し「ふざけてる」と最後っ屁のように書きつけていた。小田原氏の「大きな権力・勢力」はおそらく北川フラム氏、アートフロントギャラリーを指しているのだろうと思われるが、あるいは髙島屋のことなのかもしれない。明示していないのでどちらなのかわからないけれども、いずれにせよ、梅津、小田原両氏の指摘は妥当である。美術評論家連盟の要望書は、髙島屋に頭を下げてお願いしているだけの、また、「所有物」の価値の大きさを「所有者」に知らせただけの、文字通りの意味で「要望」を書いた文章だったからである。撤去を公表しなかった事実に触れず、撤去に関して「三者が話し合って決定するということとなりました」と公言していた北川フラム氏の名前すら、そこには出てこなかった。
 あんな要望書になったのは、「保存」という果実を得るためだった。撤去から保存へ、方針を変えさせるために、ただそれだけのためにあえて書かれた。
 北川フラム氏については触れないでおきましょう、という申し合わせが起草者の間にあった。なぜなら、美術評論家連盟には彼と近い人物が何名もいたからである。共同意見として成立するには常任委員の三分の二の賛成が必要だが、彼について否定的に触れることになりそうな文書ではそれが危うくなる可能性があった。すでに年末であり、草案の作成も急がねばならず、正月が明けて最短でも中旬に可決することが、できるか、できないか、だった。年末のZoomによる起草者達の会議を、私は会員ではないが、ゲストとして傍聴していた。確かその時は「要望書」という言葉は出てなかったはずだし(「一月十五日、声明」と私のこの時書きつけたメモにはある)、「アートフロントは犯罪的だと思うよ」という言葉まで飛び出すなど、不穏な空気が時に流れていたが、分割された画面からは出席者達の表情はよくうかがえなかった。ただ、焦燥感はビンビン伝わってきた。万が一、否決されるようなことがあれば、二月から、いつ始まるともしれない工事期間に入ってしまうからだ。
 もちろん、もっと早く書けばよかった。私が二ヶ月以上も前に第一報を書いているんだからその時に皆さん動けばよかったじゃないですか、何やってたんですか、批評家なら迅速に行動してくださいよ、と、私は言わなかった。言わなかったどころか、最後にコメントを求められて、
「新聞に載ることが大事ですから。そうしないと、広がらず、世論も動きませんから。ぜひ可決してください」
 と、微笑を浮かべながら背中を押したのである。美術評論家連盟という組織を危険な死の淵に追いやったのは私なのかもしれず、ふざけるなと怒られても仕方がなかった。だが、逆に言えば、組織などその程度のものであると私は思っていた。
 実際、要望書の効果はてきめんだった。Tokyo Art Beatと美術手帖ウェブ版、それと全国紙(毎日新聞だけだが)が報道し、SNSで「撤去」の事実が広く知れ渡った。翌日には作者岡﨑乾二郎氏が、今回の撤去について所感を百字で述べ、「撤去計画を知った経緯」の詳細を原稿用紙五枚ほどで綴り、作品の解説をさらに五枚ほどの長さで書きそれを自身のホームページに掲載した(*8)。十七日になると、水野幸司氏がchange.orgで署名運動を開始した。

 今、三月二十日であるが、私はこの三週間ほどずっと髙島屋からの回答の書面を、おそらくその執筆者よりも長く見つめている。私宛てに届いたわけでもないのに、どうも引っかかって仕方がないからである。気になっているのは、「社会的責任」というフレーズだった。

当社グループの社会的責任として本アートを保存していく方向で(以下略)

 色紙にサッと筆を走らせることができるほど見ずに書けるようになってしまったが、ここにある「社会的責任」とは何か。作品を保存することが「社会的責任」だと「再確認」した、そういうことだろうか。
 それなら、一時的であっても、撤去の話を進めていた去年は、その「社会的責任」をすっかり、忘れていたということだろうか。うっかり、忘却していたということになるのだろうか。
 髙島屋のお問い合わせフォームからの返信でS氏は「議論を重ねた結果」と書き、「様々な検討」と書き、「継続的に協議を行ってまいりました」と書き、撤去は「今後の地域発展に不可欠」とまで書いていた。それほど入念に進めていたわけである。「社会的責任」を忘失するとは、考えにくかった。
 要望書が公表されて、撤去の報道が駆け巡り、評判を落とすことに対して、火消しの意味で、「保存」へと方針転換をしたのではないか。「社会的責任」とは、そのように世間をお騒がせしてしまったことに対しての、騒動を収束させるための態度のことを示しているのかもしれなかった。
 いずれにせよ、そこには撤去を公表しなかったことへの反省はなく、ひたすら前向きな気持ちがうかがえた。そのことも私には奇妙に映ったのである。
 報道によれば、作品撤去後に設置するとしていた「(仮)マルシェ広場」は予定通り作るという(*9)。しかし作品は保存するというのであり、髙島屋は、最初から撤去しないで「(仮)マルシェ広場」を作ることができるということを、皮肉なことに、自分で証明してしまった。

 この奇妙な、ひたすら前向きな気持ちは、北川フラム氏も持っているようだ。彼が「所有者と作家とプランナーの三者が話し合って決定するということとなりました」と書いていたのはすでに触れたとおりだが、その実態は存在していなかった。アートプランナーは「ニュートラルな立場」の「オブザーバー」でしかなかったからである。では、北川氏のこの記述は一体何を意味するのか。原型と思われる文章が、彼自身が監修するファーレ立川に関する書籍の中にあった(*10)。

 建物の解体時における作品の行く末については、所有者の一方的な判断で作品の保存・撤去が決定されるということを避けるという意味で、基本的には作品を保管する方向で検討されることが望ましいと思う。しかし、その場所・空間に設置されることを前提として作られた作品にとって、果たしてそこに恒久的にあることがどんな場合でもよいとは限らないだろう。また移設されたり、別の場所に保管されることがよいとも思われない。その場所に在った数年、数十年という時間のなかで、作品は民衆と時代の眼にさらされ、そのセンスによって鍛えられていく。建物の変容があまりに速い現代にあって、作品の生命がこうした契機に問い返されることは、現在の美術の宿命でもある。そしてその運命は、所有者と作家とプランナーの3者が話し合って決するしかないのだろう。そこに3者の誠意があれば、生き残るべき作品は生き残り、社会的に支持されなくなった作品は使命を終えることもありうるのだろう(*11)。

 現在の状況を予見しており、またパブリックアートの「終活」についても非常に考えさせる文章だ。筆者の前田礼氏はアートフロントギャラリーの古参のメンバーである。前田氏と北川氏の文章がかなり似ていることが気にならなくもないが、大事なのは「三者」の「話し合って決定する」がここでは単に仮定として記述されていることだ。北川氏の「話し合って決定するということとなりました」とは見解が違う。オープン当時の前田氏の「3者が話し合って決するしかないのだろう」と、二〇一七年の北川氏の「三者が話し合って決定するということとなりました」の間に、一体何があったのか。
 もちろんそれは私にはわかりようがない。わかるのは、今はそんなものはどこにもないということだ。今回の、ファーレ立川でおそらく初めて生じた「撤去」問題において、その「三者」は全く機能しなかった。「プランナー」はいつの間にか「オブザーバー」に退き、ファーレ立川アート管理委員会が「三者」の枠組みの中に滑り込んできた。だが、それはバランスのとれた「三者」とは言い難い。その委員会の委員長は商工会議所の会頭であり、所有者の立場と変わらないからである。北川氏は、今回の「撤去」問題に対して、全く何も発言していない。私は、自分にできる範囲で彼の最新の動向を追っていたけれども、十一月二十五日発売の『月刊アートコレクターズ』二〇二二年十二月号に「変動の時代の空間意識」というエッセイを見つけた時は、もしや、と思った。そのタイトルから、「撤去」や「移設」について書いているかと思ったからである。が、そこにはパンデミックのこと、学生運動の昔話、コロナにかかったことが書いてあるだけだった。砂川闘争で頭を割られて入院したというもう何度も読んだ話題をここで繰り返すくらいならファーレ立川の「撤去」問題について書くべきだったのではないか、四百字詰め原稿用紙十枚分もあるのだから。

 もし、美術評論家連盟が要望書を送付・公表しなければ、岡﨑乾二郎作品はこの二月には、工事の仮囲いで覆われて、イリュージョニストの大型マジックのように、いつの間にか消えてしまったに違いない。いや、今回の「保存」の方がむしろマジックなのかもしれない。髙島屋からの回答で「2023年秋の立川髙島屋S.C.改装計画におきましては」とわざわざことわっているのは、次の「改装計画」での消失の予告のように聞こえなくもない。
 パブリックアートが美術館で見るような「アート」に比べて二次的な、格下な印象を与えていることについてさっき触れたけれども、消えてしまう、撤去されてしまうのは、そのような「格差」に原因があるように思われる。美術館の展示と違ってパブリックアートは作品のように見えず、ただ茫漠とそこにあるだけのように見えてしまう。
 だが、何度でも言うが、作品のように見えないのは、パブリックアートのいいところである。気づこうが、気づくまいが、ずっとそこにある、その時代、その時間を「一緒に生きている」という感覚である。美術館のアートと、人は「一緒に生きている」という気持ちは持てないに違いない。展示替えがあり、閉館時間があるから。人は必ず美術館から追い出されてしまうからだ。
 ファーレ立川は、いや、パブリックアートは、その「当時」の人々が設置したものであって、今の人間にとってはピンとこないとしても仕方がない。なんだかでかいとか、いい迷惑な場合もあるだろう。関心もないよ、と。地方でたまに朽ち果てたパブリックアートを見かけることがあるが、そんな時、「最初だけ盛り上がったんだろうな」と今の人間として、切なく思うことがある。当時の自治体と今の自治体とで、考え方に差があって、うまく引き継げなかったのだろう。同じ人間でも、当時と今とで、すっかり熱が冷めちゃっている場合だってあるが、自治体や人は変節しても、野ざらし雨ざらしでボロくなってもパブリックアートは、そこに「ある」。そこには設置当時、つまり「過去」が保存されている。周囲はすっかり変わってしまっているかもしれないが、なぜ、これが、ここにあるかも含めて、「消失」した背景も含めて、作品があることで、当時の時間が保存されているといえるだろう。これがここにあるのは、過去があるからであり、それは今につながり、ここにはない不可視の未来という時間へと伸びるだろう、植物の枝のように。
 パブリックアートは、そこに設置された瞬間から、未来へ向けて「機能」し始めている。

*1 https://www.aicajapan.com/ja/statement_2023_01/ 美術評論家連盟からの要望書は若干内容に変化をつけて髙島屋社長と立川市長宛てに一月十二日付で、郵送された(ホームページでの公表は翌十三日)。その要望書と回答はここから読むことができる。なお要望書の起草者は、加治屋健司、沢山遼、成相肇、松浦寿夫、藪前知子の各氏。「美術評論家」と呼べるのは沢山氏だけかもしれない。立川市長からの回答は四百字詰め原稿用紙二枚程度で、一月三十日付と遅れて書かれたにもかかわらず、ファーレ立川の一般的な紹介に終始しており、「回答」になっていない。要望書を読まず、どこかの書類からコピペしただけなのではないか。
*2 ちなみに事業終了は二〇〇二年。十一棟目のビルを建設中だったが不況により、ファーレ立川のオープンの年の一九九四年度で一時中断した。十二階建てのビルになるはずが、結局地下二階部分だけで断念、地上部分は駐車場になった。
*3 例えば以下の発言を参照。「北川……「ファーレ立川」に関しては、話すことがいっぱいあるんだ。まずね真面目な話でいうと、建築家や公団は、このアクパンの作品は絶対OKしなかった。嫌いなわけよ、こんな具象のものは気持ち悪いって。最後にくたびれて公団がまいっているときに、一体だけのOKとって、アクパンに14体の彫刻をつくってもらって、コンクリートで固めちゃった」(北川フラム『希望の美術・協働の夢 北川フラムの40年1965-2004』(角川学芸出版/二〇〇五年)。北川フラムの一代記とでもいうべき本からの抜粋であるが、計画を実現するためにほとんど出し抜くようなやり方で、スリリングな活動をしていたことがわかる。こういう時の彼は本当に素晴らしい。この本では彼自身の語り、テキストによってその多彩な活動が一望できる。なおアクパンとはナイジェリアの作家サンデー・ジャック・アクパンで、今ではすっかり人気者、ファーレ立川の「顔」のような存在になっている。作品は彼が日本に滞在して制作された。
*4 作品タイトルは「Mount Ida―イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)」。ファーレ立川の作品群にはタイトルの表示プレートはあえて取り付けられていない。タイトルを知るにはマップや書籍などを見るしかないが、マップや書籍を見てもそもそもタイトルが付けられていないものも多い。岡﨑乾二郎作品のタイトルも最初はなかった。だが、『たくさんのふしぎ』二〇〇七年三月号の巻末の「ふしぎ新聞」でやっていた私のコラム「今月も美術」での本作紹介時に、おそらく初めてそのタイトルが公開された。
*5 北川フラム『ファーレ立川パブリックアートプロジェクト 基地の街をアートが変えた』(現代企画室/二〇一七年)。
*6 工藤安代『パブリックアート政策 芸術の公共性とアメリカ文化政策の変遷』(勁草書房/二〇〇八年)などを参照した。「傾いた弧」の撤去後にはしばらく植栽のプランターが置かれていたという。
*7 「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品撤去とパブリックアートの未来」。この文章では岡﨑氏の他のパブリックアート作品「谺の原っぱ」や「時の恐竜」についても言及した。「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品の撤去について」は以下で読むことができる。https://icakyoto.art/realkyoto/reviews/86891/
*8 保存の報を受けて現在は百字の所感と詳細な経緯の部分は削除された。その上で、新たな所感が付された。その冒頭に「2022年6月、ファーレ立川(東京都立川市曙町)立川高島屋に設置されていた、岡﨑 乾二郎彫刻作品「Mount Ida―イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)」が2023年2月に撤去されるという計画が作者(岡﨑 乾二郎)に知らされました」とある。おそらくこの箇所が誤読されて一部の論評では、二〇二二年六月からこの「撤去」問題について公表されていたかのように書かれているが、もちろんそんな事実はない。
*9 Tokyo Art Beatの記事「ファーレ立川、撤去問題に揺れた岡﨑乾二郎作品の保存が決定。高島屋は「ファーレ立川と作品の文化的・歴史的価値を再認識した」とコメント」。なお、この記事には保存を受けての沢山遼氏のコメント、また作品の背景として登場する砂川闘争についての解説もある。
*10 木村光宏/北川フラム監修『〈都市・パブリックアートの新世紀〉ファーレ立川アートプロジェクト』(現代企画室/一九九五年)。本書は企画段階から施工、進行プロセス、メンテナンスの例まで具体的に記述されており、また作家インタビューなど当時の熱が「保存」されている貴重な内容。この文章を書くのにも参照した。
*11 この前田氏の文章の存在と北川氏の文章との類似/異同については、加治屋健司氏にご教示いただいた。

(初出:「新潮」2023年5月号)


新潮noteのための後書き

 文中の小田原のどか氏のツイート文について、「大きな権力・勢力」とあるのは北川フラム氏、またはアートフロントギャラリー、もしくは髙島屋を指すのだろうと私は書きましたが、本稿を掲載誌で読まれた美術評論家連盟の加治屋健司氏から、小田原さんのツイートはおそらくそうではなく、ファーレ立川の件では声明を出したのに飯山由貴氏の作品に対する、東京都の上映不許可問題ついて、この件では動かない美術評論家連盟を暗に批判した内容だろうとのご指摘をいただきました(美術評論家連盟は、3月21日に東京都人権啓発センターに対し声明を出し、ホームページに公開)。私の勘違いでしょう。丁寧にご指摘くださった加治屋氏に感謝し、ここに明記しておきます。
 また、私の「第一報」に先立つ7月末あたりの夜更け、ツイッターの音声配信サービス「スペース」で岡﨑氏や若いアーティストによって、すでに撤去問題について議論になっていたとの指摘を、当時それを聞いていた出版長島の長島明夫氏からご指摘いただきました(「立川の作品ももうなくなっちゃうしさ」と岡﨑氏も諦めモードだったようですが)。長島氏には、それを受けてツイッターでも若干の反応があったと教えていただき、あの作品について、長島氏をはじめ、私よりも先に危惧を抱いていた人がいたということに大変励まされました。
 以下、執筆の際に私が作成していた資料年表を、この機会に合わせて多少増補し、掲載します。

福永信

2022年
10月23日 REALKYOTO FORUM (web)「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品の撤去について」福永信
12月7日 群像1月号「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品撤去とパブリックアートの未来」福永信
2023年
1月12日 美術評論家連盟、「岡﨑乾二郎氏《Mount Ida――イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》保存に対する要望書」を髙島屋社長、立川市長宛に送付。翌日ホームページで公表
1月13日 TOKYO ART BEAT(web)「ファーレ立川での岡﨑乾二郎作品撤去について美評連が声明。「作品を未来につないでいく方法を示して」」
同日 毎日新聞(web)「東京・立川のパブリックアート作品 美評連が市と高島屋に保存要望」
同日 岡﨑乾二郎、コメント及び「撤去計画を知った経緯」、作品解説をホームページに公表。作品解説を残し、現在は削除。現在読めるコメントは削除について触れながら新たに書かれたもの
1月16日 美術手帖(web)「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品、撤去は避けられるのか?」
1月17日 水野幸司、change.orgで署名活動開始
同日 髙島屋社長、回答書を送付。美評連のホームページに掲載
1月19日 TOKYO ART BEAT(web)「ファーレ立川、撤去問題に揺れた岡﨑乾二郎作品の保存が決定。高島屋は「ファーレ立川と作品の文化的・歴史的価値を再認識した」とコメント」
同日 美術手帖(web)「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品、髙島屋が一転保存へ」
同日 毎日新聞(web)「東京・立川のパブリックアート作品 高島屋が一転、現地保存へ」
同日 朝日新聞(web)「ファーレ立川の彫刻作品、撤去の危機から保存へ 美術界から要望書」
1月28日 美術手帖(web)「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品の撤去問題とはなんだったのか」加治屋健司
1月30日 立川市長、回答書を送付。美評連のホームページに掲載
同日 朝日新聞「屋外アートの価値 向かい合うには  その未来は、作者・所有者・市民の手で」小田原のどか、加治屋健司の短文コメント掲載。2月14日の長文コメントを簡略化したもの(長野県立美術館所蔵の中谷芙二子「霧の彫刻」の無断改変問題と合わせた記事)
1月31日 REAKYOTO FORUM(web)「公共領域における対立――立川ファーレ問題について」アズビー・ブラウン(訳・小崎哲哉)
同 美術評論家連盟会報23号(web)「「パブリック・アート」とは何か ファーレ立川・岡﨑乾二郎作品から考える」藪前知子
2月3日 週刊読書人「論調 〈2月〉公共空間そのものの原理的な可能性 岡﨑乾二郎撤去騒動をめぐって」森脇透青による論壇時評。公共空間の保持は常に抽象的な「文化」や「精神」に依拠せざるをえない脆弱性を指摘
2月14日 朝日新聞(web)「パブリックアートは誰のもの? ファーレ立川から屋外彫刻を考える」岡﨑乾二郎、小田原のどか、加治屋健司の長文コメントを掲載。本記事で岡﨑は、設置当初と現在での関係者間での認識の乖離、短期的なイベントとは異なる公共の場の重要性などについて語り、東京大学教授の加治屋は、高島屋が撤去計画を公表せずに進めていたことや所有者と作者の間に入るべきアートフロントギャラリーの役割の放棄を批判、密室ではなくパブリックな議論の重要性などを指摘した。彫刻家、批評家の小田原は業界内部的な人的ネットワークに頼らない仕組み、作者の死後どうすべきかなども含めた書面の必要性、アートコーディネーターを務めた北川フラムの説明責任に言及
2月27日 FASHIONSNAP(web)「立川高島屋S.C.敷地内のアート作品撤去は何が問題だったのか」齋藤恵汰
3月6日 朝日新聞「取材考記 パブリックアート 作品の価値・管理 再確認を」(西田理人)
3月7日 読売新聞「揺れる「パブリックアート」各地で存廃問題 設置場所の改築や解体、作品の劣化で」
4月6日 すばる5月号「知らぬ間に知っている――ファーレ立川 岡﨑乾二郎「Mount Ida イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)」滝口悠生
4月7日 新潮5月号「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品撤去撤回とパブリックアートという未来」福永信/本稿
6月7日 群像7月号「空間という葛藤――岡﨑乾二郎《Mount Ida イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》」沢山遼

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?