等価交換ときまぐれ
小さい頃から母に、「親切にしてもらったらお礼を言って、お返しをしなさい」と教えられてきた。
この教えについて間違っていると思ったことは一度もないし、基本的にはこの教えに沿って生きている。
友達に旅行のお土産をもらったら次自分が旅行に行ったときにはお土産を買って帰ったし、誕生日プレゼントや年賀状の交換などもそれに当てはまるだろう。
大学生になるとその意識はさらに明瞭になり、同じ講義を取っている友達との協力プレイには常に「等価交換」のルールがあるように感じた。おそらく社会人になってビジネスの世界に飛び込んだ暁には、「取引・交渉」という名の「等価交換」がベースにあり、それを前提に仕事をしていくのだと思う。
恋人がいるときも、自分は相手が注いでくれているのと同等の「好き」を相手に注ぐことができているのか考え、自分の「好き」の方が多く感じた時は不安になったり、「好き」が減ってるフリをして気を引いてみようと企んだこともある。
こうして徐々に徐々に私の人生を構成する、公(学ぶ、働く)と私(遊ぶ、付き合う) の人間関係に「等価交換」の考えが侵食し始めた。
**でも人間関係において常に「等価交換」の考えがベースにある必要があるのだろうか?**
「公」の場面ではおそらく必要だと思う。たくさんの人が協力して利益を生む目的で何かを成し遂げようとする過程の中では「等価交換」は必要だと思う。
なら、「私」の場面ではどうだろうか?
なんだか私の人生は随分と「等価交換」に縛られてきたような気がしてきたのだ。そのせいで自分がしたことへの見返りを無意識に求めるようになってしまったし、自己の中で自然発生する優しい行動が制限されている気がする。
何ももらってなくてもきまぐれに親切にしてみたり、逆にしんどい時は甘えてみても良いのではないだろうか?
人に優しくしたところで自分の中から何かが減るわけでもない。(自分の身がすり減るような優しさは本当の優しさだとは思ってない)、お返しが返ってこなかったからって、自分がやりたいと思ってやった自然発生的な行動なんだから別によいではないか、と思うようになった。
つまり、無理はせず、優しくしたくなったら自分の意思でする、しんどい時は自分の意思で甘える、ということでいいではないか、と思うようになった。
そんなことを考えて日々生きてると、意外なところで嬉しいことに出会ったり、意外な人からお誘いを受けたりするサプライズがあってたのしいのだ。
おわり
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