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盛り塩とおやこで哲学

飲食店の入り口で見かける「盛り塩」をやりたくて、色々調べた。
すると、盛り塩が簡単に作れる入れ物があることを知った。
陶器製で、三角の中身が空洞で、その部分に塩を入れ、塩を入れた方と真反対を地面に向けて置くと、こんもりとした盛り塩が出来上がる。まるで、お砂遊びの型抜きのようだ。
遊び心がくすぐられたが、買わなかった。結局、玄関の両隅に手持ちの豆皿を置き、素手で塩を入れ、砂山のように盛り立てた。

ふと、塩の取り替え時期が気になり、調べたら正解はないらしい。数日毎に交換という解釈もあれば、月に2回とも書いてある。
つまり、いつでも自分がやりたい時期で交換すればいい。

しかし、自分で決めていいとなると、ズボラなゆえいつまでも取り替えない。
形式にとらわれると、こういう堂々巡りをして、自分で自分の運気を下げてるようなものだから、本末転倒だ。だから、運気がなかなか上がらないのかもしれない。

「おやこで哲学」は、高橋由紀子さんの私塾「ココロエ」の受業。3歳から小3までは親子で通う。小4からは、親子ではなく一人で通い、共に参加する人と肩を並べ共通のテーマについて哲学的に考える。そして、授業の最後に、作文で自分の考えをまとめる。

今日は、小3の娘と一緒に「自由」をテーマにして、哲学的な視点で話をした。娘なりに色々考えて、熱心だった。だんだんと哲学的な考え方が実践できている。

私は、「自由」について、自分が知っている自由との認識に違いがあることに気が付いた。
自由は、与えられるものではなく自分で克(か)ち取るものだというのは知っていた。しかし、その方法にばかりに目がいき、色々な自由を克ち取る方法ばかり考えては、あーでも面倒だなーあ、これもなんかイマイチと、思考するだけで完結して「行動」を起こしていなかったことに気が付いたのだ。

自由のためには、頭だけ考えている己の怠慢と闘う。そして、行動を起こすことで、自由を自ら克ち取ることができる。
盛り塩は盛らなきゃ意味がない。盛り塩によるお清めも、自由も、そこに「在る」のではなく、行動した結果の「たまもの」なのだ。もちろん、良い結果ばかりではないが。

哲学したあとに、こんな作文を書いた。

自分の自由も相手の自由も護(まも)るには
川口 結実

 〇年△月▢日、こころへ教室で私は、自由について考えました。驚きました。
 なぜなら、自由を得るためには、闘わなければならないと知ったからです。
 今までは、自由は克ち取るものだと思っていました。そのためには、何をしたらいいのかと、方法ばかりに目が向いていました。
 しかし、方法一つ一つが大切なのではなく、方法を考えて実行することが大切なのだと気が付きました。
 そのためには、犠牲を払ったり、奮闘することを恐れずに、私が築きたい未来のために闘います。
 そして、自分の自由だけでなく、私以外の人の自由も護ります。

作文に考えをまとめて、年頭だし今年自分のテーマにしたい言葉を書こう!ということになり、習字をした。
娘は「自由をつかむ」だった。私は、「裡」にした。
裡(音読みでリ)は、「裏」の俗字らしい。内より厚みを感じていいんじゃない?と、由紀子さんが薦めてくれた。墨の匂いをかぎながら、筆をまっすぐに立てて書くと気持ちがいい。娘は、「楽しい。私も習字習いたい」とノリノリだった。
私たちにとって、ココロエでの哲学が、日々の盛り塩のようなものになっている。


娘が書いた字
私が書いた字


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