今の自分が「ありたい自分」になるために考えること

なんでそうなるんだろう?~比較の罠と強制労働~

比較の罠に入ってしまう自分。理想の自分が、「こうあるべき」という世界の中にいて、そこから現実の自分を見下ろしている。もう一人の自分は、「xxさんだったら、こうできるのに、自分はなんてダメなんだ。」と他の人との比較をし始める。

まだ見ぬ「その答え」に、近づけている実感を持てているときは、比較を原動力にして、頑張っていけるよね。ただ、そうした努力と我慢の日々の中で、いつしか与えられた正解に辿り着こうとする仕事は、いつしか「仕事」ではなく、自分への「強制労働」になっていた。

行きつく先は?~果てしない消耗戦~

強制労働の中で行う、我慢と努力。それは、「緊張のゴム」が伸び切った状態が続いているようなもので、必然に弾力性を失い、脆くなる。その時が来ていることは、自分でも分かる。ただ、分かったとしても、立ち止まることができなかった。

なぜなら、自分の選択肢は「やるか、辞めるか。」しかないと思い込んでしまっているから。そんなとき、「誰か助けて!」の声を出せば、さすがに、誰かしらが助けてくれるはず。なんて思っていたら、そう簡単な話ではない。

助けを求めたい誰かは、たいがい頑張っている人たちで、「俺だって、助けて欲しいけど、相当頑張っている。」「本当に、お前は、助けてもらえるだけ頑張っているのか。」となって、お互いに、努力比べという消耗戦の中で、チキンレースを頑張っている。

チーン。。。

何が起こるか?~絶望という希望~

「古岩井、会社、辞めたってよ。」閉塞感に苛まれる中でも、希望の光を見出すことができる状態であれば、まだ限界ではない、のかもしれない。ただ、そう思い続けた挙げ句に、限界を見てしまったとき、そこに「絶望」が広がっている。

「絶望できて良かったじゃん!」

へっ!?何それ?と思うかもしれないけれど、私は「絶望という希望」があることを知ることになる。あるセミナーの中で、講師は、明るく、ハキハキイとした声で、一点の曇りもなく、こう言ったのだ。

「絶望できてよかったじゃん。そこからだよ、自分の本当の人生を生きるのは!」

生まれたばかりの赤ちゃんは、無防備で、それこそ、「ありのままの存在」を肯定されているが、その成長過程において、だんだんと「どうすれば、この世の中で、自分の心身の安全を守れるのか?」という生きる術を、両親や先生や色々な人との出会いを通じて、身につける。

そして、それは、自分の「社会的な鎧」となって、これからの自分を守ってくれる。そして、後から身につけた鎧をまとっていることに気が付かないまま、「鎧こそが、自分自身だ。」と信じて疑わなくなっている。

絶望の訪れは同時に、「あなたは、本当に欲しいのは、その鎧ですか?」という問いかけをされたときなのだ。環境的要因によって、外発的に作られてきた価値観と、自分自身の内側から湧き上がってくる価値観とのズレが、はっきりと認識できる時の訪れである。

どうなる?~Want to doよりもWill to do

人は、「死」というゴールテープに向かって生きている。ただ、ゴールテープがどこにあるかは分からないので、ペース配分ができない。急に、目の前に現れることもあるかもしれない。なので、いつゴールを迎えても、気持ちよくゴールテープを切れるようにしたいな、と思う。

そう考えたとき、「どんな自分でありたいか?(Being)」を問うようになった。そして、そんな自分であるためにはという視点から、「どんなことをして生きていきたいのか?(Doing)」を考えるようになった。

「あなたは何をしたいのか?(Want)」という問いは、私はとっても答えに窮する。Doingの中に答えを求められている気がして、ピントがずれているように感じられる。それより「自分はどうありたいのか?」という問いを自分に投げ続け、ありたい自分であるために「で、自分は何をするのか?(Will)」というプロセスで思考を巡らせたい。Wantを明確にするための問いは、「何をしたいではなく、どうありたいか?」、Willを明確にする問いは「何をするのか?」

本当に大丈夫?~強制労働を矯正し、共生活動へ~

ありたい自分に出会い直せたとき、ありたい自分であることを「使命」として受け取り、そこから、どうしてもやりたいことに辿り着いて、そこで自分の中に「志」という旗を立てる。そこから、どうやってその志に辿り着こうかなという手段の一つとして、選択をするのが仕事。

使事>志事>>仕事

そうなると、労働としての仕事を選ぶことはなく、ありたい自分と共生していくための活動の一環として、選ぶのが仕事になる。

マイプロジェクト~自分だけの人生ゲーム~

そんな考えを、今の社会の中で実践したらどうなるんだろうか、ということで、誰かが作った虚構の人生ゲームから外れ、自分の人生ゲームを自分で作るというゲームを開始している。

「人生の正解」なんていうものは存在はしないけれど、それでも、いつ死を迎えたときに「我が人生に一片の悔いなし」と言える状態でいられるのであれば、それは私にとっての納得解であり、満足解であり、それが最適解。そして、自分にとっての最適解に近づいている人生が、私だけの、人生の正解、ということになるのかもしれない。



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