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アニメの愉悦、文字の声

 日本最初のアニメーション作家の1人である幸内純一の作品に感激した、ということを書く。

 まず話題にするのは1917年に制作された「なまくら刀」という短編だ。ノートや教科書の隅っこで棒人間を動かすのに比べたら途方もない試行錯誤や労力があったに違いない1篇の動画には、絵を動かすという達成をはるかに超えた面白みが詰まっていると思う。4分しかないからまあ見てほしい。洋の東西の初期アニメもぽつぽつ眺めてみたのだが、この作品は異常といっていいくらい分析的だ。

 大抵のアニメーションは生き物や物体のある姿勢からある姿勢への移り変わりを少しずつずらしていくことによって動いているかのように見せる。それはだから、当たり前のことだけれど一定の大きさの画面があり、絵が動く、なんていったらいいか、極めて平面的な運動だ。実写の映像も同じで、フィルムをほどいてみればある姿勢の馬が連続する。それによって足の動きが分析できたわけではあるが、そこで動いているのは一頭の馬であって馬の脚ではない。馬の一連の動き。一連の馬の動き。

 幸内のアニメにしたって平面であるわけだが、それは体のパーツがそれぞれ別の糸に繋がれた操り人形のように、あるいは歯車や滑車がそれぞれの持ち場を動かずに全体を動かしていく工場のように、バラバラのまま連動する。その手法はまるでこのドジな侍のチグハグな動作を表現するためにこそ編み出されたかのようだ。

 映画という技術が肉眼で見えない速度の動きを分析することを可能にしたとすれば、アニメーションは不可能を束ねて動きにすることができる。そんな当たり前かもしれないことが1917年という、世界でも極めて早い時期に実現されていたとするならこれはすごいことじゃないか。

 幸内によるアニメーションでもう1点現存しているのが、後藤新平の政治演説である。原作の演説をもとにしたアニメーションで、言葉はサイレント映画と同じようにインタータイトルの形で挿入されるのだが、映画には無いような演出が文字の上に加えられている。

 たとえばこんな風。(左から右に見てね)

スクリーンショット (1)

「諸君!」の3文字が矢印に変化し、画面右上に視線を誘導する。そこに後藤の顔が現れ、文字が1文字ずつ表示される。最後の三点リーダーが再び矢印になって右上に移動する。

 傍点の動きも1通りでなく、強調される単語と同時に出現することもあれば、一通り文字が出てから改めて傍点が打たれることもある。さらには一度出た文字の一部が消えていくつかのキーワードが移動するといった動きがあったりする。

 当時こうした政治アニメが弁士つきで上映されたものなのか分からないのだが、言葉のなかの「声」を捉えて視覚的に再現する試みとしてものすごく新鮮だし秀逸だ。音声情報を文字にする仕事をしていると、こんな風にリニアな文字列をはみ出すことが出来たらどんなにか充実するだろうと思う。

 そして、こんな風に文字という記号を動かせるのは、人間という具象の動きを徹底して分析した先行作品あってのことなのではないかとも。映像に音声が付けられるようになったら、こうした遊び(余地の意)の幅はごく狭くなってしまったことだろう。1つの時代のあだ花と言ってもいいのかもしれない。


日本の初期のアニメーションのアーカイブはこちらから

後藤新平演説はこれです。


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