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クリスチャン・ボルタンスキー [Lifetime]

 私たちは出発し、たどり着く。

 はじめに喀血に苦しむ男の映像を目撃する。初期の作品であるというそれには、顔の判別できない、絶え間なく激しい咳を続ける男が映し出されている。ヘッドホンがふたつ置いてあって、私たちはその人物の声を克明に聞くことが出来る。私は映像の前に立ち竦んで、吐き気がいよいよとなるまでその音を聞いていた。咳の音にこれほど体が生々しい反応を起こすのは、血みどろの苦しみほどでないにしても、私たちの多くがひどい咳の苦しさを知っているからなのだろうか。だとすればこの匿名の人、それを聞いて吐きそうになっている私、咳を知っている数々の人々の身体が、あるクオリア的経験を通じて結び合わされる。

 次の部屋には鏡が張り巡らされ、電球が吊されている。流れているのは心臓の音だ。誰かの、ほんの気まぐれで収録されたかもしれない心音。電球が鼓動と同じリズムで明滅する。鏡の中の自分を覗き込めば自分の拍動が誰かの心音と同期しているかに感じられる。角度を転じればDEPARTの文字が写る。咳の声はまだ聞こえている。そこで理解する。これらの作品は互いに反射し、反響しあうのだと。そしてまたも私の体は心臓音のアーカイヴに収められた誰とも分からない匿名の人間の心音と結び合わされている。展示室のスタッフも、私も、他の鑑賞者も、そうだ、匿名の、誰とも分からない烏合の衆のいちぶに過ぎないのだった。こんなにつよく体の内側に触れられていてさえ。

 常時中継されているというボルタンスキーの仕事場(展示はその映像からの抜粋)、ボルタンスキーが生きた時間を示すデジタル時計を経て、いよいよ我々は死者の世界に向き合わなければならない。ある作家の固有名、並んで等価になった死者たち、その間にいる私たち。鑑賞者は固有の身体と無名で無数の死のあいだで揺すぶられ続ける。

 展示室の奥まった場所にある堆い服の山、そして周囲の人の形をした何か。衣服の山は強くホロコーストを思わせる。無数の人々の抜け殻。個別性を消去された死者の持ち物。その周囲にいるコートを着た電灯も死者なのだろうと思った。パンフレットには「彼岸の番人」とある。いずれにしてもこの世のものではない。そのような存在に私は突然呼び止められたのだった。死者からの呼び止め、それは「意識があった?」という問いかけだった。コートの内側に小さなスピーカーを擁したその存在たちに耳を傾けると、それぞれの声で問いかけ始める。

"Tell me, were you conscious?"
"Tell me, were you confident?"
"Tell me, was it brutal?"
"Tell me, were you scared?"
"Tell me, did you leave your mother behind?"

 それは死者に対する問いだ。私は問われている。私が死んだときどんなだったんだろう。それはもしかすると中央に積まれたコートの持ち主、肉体を失い死んでは名前も顔も分からなくなったものたちへの問いかけなのかもしれない。しかし、心音や咳の声に紛れそうになるその微かな声を聞かなければならないのは私だ。呼び止められたのは私だ。一度呼び止められてしまえば、翻ってこちらから問い直すことを強いられる。あなたは話すのか。あなたはどんな声をしているのか。どうすればあなたの声が聞けるのか。あなたは何が聞きたいのか。私はどんな風に死んだのか。

 会期終了まで一日にひとつずつ消えていくという電球や来世を経て、無数の引き裂かれた無名の死者を通り過ぎ、ようやく辿り着く。どうやら私は生きたまま、ほとんど年も取らないまま、Lifetimeを歩いてきたらしい。私と無関係な死者の無数の顔。それは幼少期のある記憶を呼び起こしていた。

 私は24年前の大きな地震のすぐ後に産まれた。小学校の同級生の家族は多くがその地震を経験していた。そのなかの一人は地震で姉を亡くしたそうだ。地震のとき1歳に満たない子供だったその同級生に、姉の記憶があったのかは知らない。それについて当人と話したこともないはずだが、誰もが知っていることであったようにも思える。

 ある日、小学5年生か6年生の頃だったと思うが、祖母の家で震災の記録として出版された本を見つけた。それは主に写真などで被害状況を概観するものであったが、巻末にはその地震で亡くなった人の一覧があいうえお順に付されていた。これと言って意図があったわけではないだろうが、私は6000人にのぼる死者の名前のなかから、彼女の姉の名を探していた。それは当然、タ行の最後の方にたやすく見つかった。名前なんて知ってはいなかったのだが、その同級生と同じ名字を持つ死者の名前はひとつだけだった。小さな字で記されたその名前は他の無数の、決して私の知ることのない死者たちとは違っていた。確かな手触りを、生きて、知っている人との関係を持った名前。本当に起きたこと、の、「本当に」とはいかなることかを知った最初のとき。私は自分の行ったことがひどく醜いと悟り、その本を閉じた。軽い気持ちでそんな風に死者の名前を探すべきではなかったのだろう。固有名であることと、いつか無名の死者となることとの間で、私はその経験を思う。

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