『月曜日のユカ』~夢のない接吻と読解力不足

 映画にとってキスシーンとはなにか、なんてことを語るのはちょっと荷が重すぎるけど、私たちは随分と小さい頃からそれをまったく特権的で象徴的な瞬間として与えられてきた。口づけは古代ギリシャ以来物語がやっているカタルシスの具現――オーガズムのあとの虚脱と倦怠を抜きにした――である。ディズニー版白雪姫のせいなのかは知らない。だがハリー・ポッターでもゴールデンタイムのトレンディドラマでも、ギリギリ肉体的になってはいけないロマンスの決定的瞬間にいたるまでの固唾を飲んだやきもきから、私たちはそのときにびゅるるっと解放されることに、なっている。(大人のキスはこの際おいておこう、イングリッド・バーグマンとか。)『月曜日のユカ』はそんな映画の統語法に対するアンチテーゼであり、ゆえにアンチクライマックスの映画であり、それを"読めない"女の子のフェミニストな映画である。

 誰とでも寝るユカは誰にもキスをさせないことで名高いのだが、その理由は終盤になって明かされる。幼い頃に母親と買い手の男との睦み合いを覗いてしまったユカを、通りかかった牧師が「あれだけはいけない、この世で一番いけないことだ、おそろしいことだ」と怒鳴るのだ。そのメッセージは当然のように伝わり損ね、ユカはキス自体を罪深いことだと思い込んで育つ。

 だからこの映画に、誰かを永遠の眠りから蘇らせるトゥルー・ラブズ・キッスなんてものはない。パトロンがユカを取引相手の外国船船長に売る、ユカの恋人である青年は船長を殺そうとするが、かたきの姿を見る前に船のロープに絡まって命を落とす。その死体を前にして、彼の死は賛美歌とともに殉教的なものに高められ、ユカは彼の死体に口づける。このいかにもクライマティックになりそうなシーンはしかし、亡骸にむしろがかけられる別れで閉じられ、清潔なキッスはそれに続く、日本と西洋との関係を上演する次のキッスで台無しだ。殺されようとしていたとさえ知らない船長との。

 ユカは結局船室に送り込まれ、案の定キスから始めようとした船長に悲痛な叫びを上げる。聖書と静止画のモンタージュ。服を脱ぐことなくキャビンを出できたユカの口をパトロンは拭ってやり、どうにか慰めようとして後を追う。遠くから聞こえてくるジャズバンドの響きにユカが踊ろうと誘ったときどれだけ安堵しただろう。自分の女が手中に戻ってきたと。

 この多幸感あふれるダンスシーン、ピピロッティ・リストの代表作「永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に」を思い起こさせもする、にこやかで誰にも咎められない破壊。ユカは彼を海に放り込んで殺すのだ。いや、音もない水没のあとのカットでユカは一旦うろたえるのだから、故殺とはいえないのかもしれない。しかし彼女は溺れて沈もうとする男をいぶかしげな表情で見つめるだけだ。あぶくが消えるのを見届けて、歩き去る彼女の後ろ姿をカメラは追う。最後には人の日常の無表情で。解放も苦悩もない顔だ。

 ユカを魔性と言ってはいけない。彼女がどのような言葉のなかを生きて、どのように語られ、そしてどのように語ろうとするのかをこそ考えなければ。

「いい子だね」「ユカっていうの」「歳は?」「18だったかしら」「横浜の生まれかい?」「そうよ、いい子よ、とっても。パトロンがいるの」「へーえ」「おじいちゃん。若いのもいるわ、恋人よ」「浮気かい」「でもとってもいい子よ」「感じがいいね」「すごくいいわ。明るくて親切よ」

「寝たいね、あの子と」「平気よ、寝るわよ誰とでも」「ほんとかい?」「ほんとよ、男を喜ばせるのが最大の喜びなんだって。人生の目的!」「嘘言え」「本当よ、そんなんじゃないわよ」「だって好きなんだろ?」「そうなのよ、純なのよ」「でもキッスはだめよ」「え?」「キッスさせないの」「伝説でしょ?」「本当だって」「商売道具か」「清潔よ、あの子。商売女と違うのよ。教会にもちゃんと行くんだから」「教会?」「要するにかわいい女」「話を聞いていると、我々の理想的な女性らしいな」

 ナイトクラブを泳ぐユカはカメラに追われながら、こんな風に画面の外の声によって語られる。これがユカを取り巻く声なのだ。彼女はそれを受け取り、そのなかで理想を生きている。しかしこの「理想の女性」という下品な言葉は少しずつユカを裏切っていくだろう。誰とでも寝ること、親切で朗らかなこと、尽くすこと。しかしそれで相手を幸せにすることができなくて悩む。たとえばパトロンが自分の娘に人形をねだられて相好を崩すようなことを、ユカにはできないのだ。

 そこで愛し方が足りないのだと母親に言われたユカは前の恋人になんでも言うことを聞くと約束し、彼の指図でダンスホールに集まる若者たちに教会で抱かれようとする。けれども彼らは聖像の前で服を脱ぎ捨てたユカを前にして踵を返す。かつて彼女が夢中になった奇術師もそう。一緒に寝て欲しいと言ったユカを拒んで去る。

 実にジジェク的な問題だが、誰一人彼女に何がどういけないのかをはっきりと言うことができず、言えない側も困惑しながら苦しむのだ。ユカには、彼らが言葉にしないまま読み取っている行間や余白が読めない。彼女の認識はときに過剰にリテラルで記号的である。神聖ならざる性交からキスだけを取り出してしまったこともそうであれば、娘に人形をねだられて喜ぶパトロンを見ると、自分も同じ曜日に自分の母親を連れ出して、同じ店に行って同じ人形をねだれば同じように彼を喜ばせることができるに違いないと思い込んだこともそう。

 しかし意味を受け取らないことはユカの武器だ。男たちのエニグマを前にした困り顔のユカは、最後まで不幸せにならない。(男たちの、というのはこの映画に出てくる他の女がユカの母親たった一人で、彼女は異常にきっぱりと男にあらゆるサービスをし尽くせと指南するだけの機械であるから。)誰とでも寝る女は罰せられてきたし、あるいは不幸によって誰かに抱かれる羽目になった。そういう物語の要請をはねのけるのは、まさにその物語を読めないことによって、なのかもしれない。

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