表現の自由ということ(『明日のハナコ』に関して)
「表現の自由」という言葉はどんどん軽くなる。「誠に遺憾に思います」という言葉を聞いても真摯な謝罪だと感じられなくなっているように、「表現の自由」がおびやかされたと聞いても、そもそもなぜそれがそんなに問題なのかを考えることがなくなっている気がする。
福井県の高校演劇大会において福井農林高校が上演した『明日のハナコ』をめぐって問題が起きている。経緯などは「福井の高校演劇から表現の自由を失わせないための『明日のハナコ』上演実行委員会」のサイトに書かれている。→サイト
署名活動、それに動かされるように新聞に取り上げられたことによって事態は少しずつ改善している面もあるみたいだけれど、私が怖いのは、これがいわゆる“どこかの団体からはっきりと”規制されていないのに、いわゆる忖度によって物事が決まったことだ。そこにあるのは「やめといた方がいいんじゃない?」という空気だけだ。
人にはそれぞれ違った考えもあるし、経済に絡んだ損得も人によって違う。だから誰かの発言や表現が別の人にとっては面白くないという事だって当然ある。けれどその発言や表現を葬るのはダメだ。いわれのない中傷はもちろん許されないけれど、個々が自由に表現し、その上で最善の道を探るのが民主主義だ。だからこそ都合の悪い表現もしっかり保証されていないといけないのだと思う。
私はもともと面倒なことが嫌いで、日々の自分ごとにばかり目を向けて暮らしている。今回の問題だって、この上演実行委員会のメンバーである鈴江俊郎さんが昔からの大切な友人であり、彼から話を聞いたことで知った。もちろん私だって当事者ではないので本当のところは分からないけれど、いくら事態が改善しようが、責任の所在が曖昧なままであることと、「生徒を巻き込むな」という意見を大義名分にして批判している人がいることには苛立ちを覚える。上演実行委員会は今回のことでは生徒を巻き込まないようにしているし、そもそも生徒の本当の声も知らないくせに、それを大義名分にしていることこそ、悪しき「空気」そのものだと思う。