見出し画像

七夕にちょっとした願いをこめて

前回のnote で少しデミロマンティックかもみたいなことを書いていて、それ以降もずっと自分のデミロマンティック具合がどんなものなのか少し持て余していたのだけど。

子供の頃に唯一年中行事としては遠ざかってしまった七夕になんとなく祈りを込めたくなったので、また少し書きます。

子どもの頃からそれなりにずっと好きな人はいたし、告白だって自分からすることのほうが多かったので、自分としては今まで違和感を持ったこともなかったのだけど。高校以降くらいで考えると、好きな人のでき方はかなりパターン化されていて、その上で恋愛感情を自分で認めるのがすごくおそい。

なんか、自分でずっと言い訳をしている感じ。
言い訳をしている間に、結局感情は募っていっていて、手がつけられないような感じになってようやく認められて、認めてしまったらそれはそれで伝えずにいられなくて告白してしまってタイミングが合わなくて玉砕。みたいなことをしていた。

そんな感じなので、デミロマンティックという言葉を知ってから、「わかる」と思うものと、そうでないものが混在していて、さらにいろいろ読んでというのを繰り返してました。

そして今、好きな人がいるけれど、私がその人を好きということが事実ではあって、付き合いたいとも思っているし、その先恋人同士ですることへの欲求もあるんだけど、この先をどう行動したいのかがわからなくて、また悶々としてました。

なんというか、相手が今恋人を作りたいと思っているかわからなくて、そこを踏み込んできく勇気はまだ出ないし、そもそもまだ知らないこともいっぱいあるしとか、ずっとまた言い訳を重ねていて。じゃあ私の好きって何なんだ、って。

そんなことを思っていたら、私の「好き」にはまる言葉を書いている人がいました。

“私の中では、人を好きになったとしても特に何かが変わるわけではありません。きれいなものを見たとき、美味しいものを食べたとき、なにか辛いことや苦しい事があったとき、一番にその気持ちを共有したいと思う人が、その人になる、といった感じです。”

めちゃくちゃわかる。そうなんですよ、基本はここなんです。
なんなら、私の場合はその上で、とにかく何かコミュニケーションができていればOKみたいにもなるんです。

でも、その先を望む自分もいるのが事実。これがセクシュアリティの関係なのか、デミロマンティックの度合い?によるのかはまだわからない。
それが今自分でどうしていいかわからなくなっている理由だと思う。

過去の失恋から臆病になっているとも言えるし、複雑すぎる。自分が。

だから願いを込めようと思う。

好きな人の前で、素直でいられますように。素直な気持ちのまま、話をして、リアクションをして、少しずつお互いを知るきっかけを作っていく。怖がらずに進めますように。そして、自分なりの良いタイミングで気持ちを伝えられますように。

今日はいい天気だったから、織姫と彦星も会えたかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?