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『トラックドライバーにも言わせて』の橋本愛喜さんに会いにいく


 いまは対面取材が難しくなっているが、まだコロナが深刻ではなかった日、神奈川県内の小田急線の駅の改札口で待ち合わせた。駅前のチェーン店のカフェに腰を落ち着けると、橋本さんは鞄からノートを取り出し広げた。質問に困らないためのものだという。
 そのノートには、びっしりと文字が埋まっている。「取材をするひとなんだぁ、それも熱心に」が第一印象だった。ノンフィクションライターのひとにもたくさんインタビューしてきたが、ノートを準備してきたひとは30年ちかい中でも彼女がはじめだった(過去に取材ノートが見たいと要望したことは数回あったけど)。最近ゆるさが目立つロートルライターとしては、ちょっとビビる。

聞くひと=朝山実

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 橋本愛喜さんは『トラックドライバーにも言わせて』(新潮新書)を書かれたノンフィクションライター。トラックドライバーだった経験をいかし、一般のひとが「なんで?」と思うことや物流現場の実情を綴った本だ。

 たとえば両足をハンドルの上に置いて、うたた寝する。よくある光景だ。行儀はよくないが、この姿勢には「熟睡防止」の合理的な理由があるのと、ひと目にとまる場所で「仮眠」をとらないといけない事情が綴られる。
 その仮眠の場所に明け方のコンビニの駐車場が多かったりするのも、物流にかかわる深刻な背景があることを、わたしは本書で初めて知った。
 さらに驚いたのは、トラックドライバーたちは「運転」が仕事、荷物の積み下ろしは「業務外」である。にもかかわらず、大半のドライバーがひとりで一時間もかけて積み込み作業をする。サラリーマンのサービス残業のように「強いられている」というのが適切かもしれない。
 背景には運送会社間の競争があり、本来は荷主のすることだったものが、荷主側のコスト削減もあり、末端のドライバーに転嫁されいつしか「当然」と見なされるようになったらしい。しかもその積み下ろしも、リフトを使わず、ドライバーの「手」で運び入れる。清涼飲料水の梱包など膨大な数と重量。手の指が変形することもあるのだという。
 
 そういえば、英国のケン・ローチ監督『家族を思うとき』の主人公が宅配便のドライバーだった。監督に急かされながらドライバーたちが各人自分の配達エリアの荷物を載せていく場面と、主人公が強盗に襲われる場面が印象につよく残っている。
 運転席にあった黄金色のペットボトルを浴びせられるのだ。そこでは説明などなかったが、トイレに行く余裕のないとき尿瓶代わりにしていたものらしく、二人組みの強盗が彼めがけてぶちまけたのはそうした事情を周知していたことになる。元同僚の可能性がありうるということだ。その一点をとってしても切なくなる出来事だ。
 
 本書に話を戻すと、長距離トラックのドライバーたちにとって、届け先での積み下ろし時間は厳密に指定されていることが多いのだという。だから、早朝に到着したドライバーたちは、時間調整のために近辺で仮眠をとらざるをえなくなる。そうした事情を知ればしるほどケン・ローチの映画の主人公に重なってくる。
 そんなふうに『トラックドライバーにも言わせて』には、一般の人が知らないからこそ、驚かされる話が多い。そもそも橋本さんが、ライターになる前にはトラックドライバーだったという経歴がユニークだ。
 父親が経営する町工場でトラックを運転するのは、大学卒業を目前にして父親が急病で倒れたからだ。「ニューヨークに渡ってシンガーになろう」としていたのをやめ、社長の代わりをつとめることになる。
 まず始めたのが、取引先への機械の搬送。父親を慕って集まってきた「ヤンチャな」工員さんたちの信頼を得るには、現場で働く姿勢を見てもらうしかないと考えた。という経緯を新書の冒頭で綴っている。
 
 その一章に綴られる工場の様子が面白かったので「週刊朝日」でインタビューをさせてもらえることになったとき(記事は👉https://dot.asahi.com/wa/2020050700016.html)、橋本さんに「工場のあった周辺を見ることはできますか」とリクエストしてみた。
 当日、駅で待ち合わせた橋本さんは、フードのあるスエットという軽装で現われた。それまで新潮社の会議室での取材を受ける際には「新調したスーツ」ばかりだったそうだが、旧知のひとに会うかもしれず「スーツじゃないよね」と思ったそうだ。
 前日にもらったメールには「普段着でもいいですか?」と書かれていた。「取材をするときの格好がベストです」と返信した。そもそもスーツは今回の本の刊行が決まってから買ったのだという。

 ああ、そうだ。この本のことを知ったのは、わたしがいつも聴いている土曜の午後の久米宏さんのラジオ番組のゲストトーク。その日は途中から聞き始め「へぇー阿川佐和子さん、ドライバーの取材していたんだ?」と感心していたら、どうも感じがちがう。声のトーンと、ときおり混ざる関西っぽい語尾で勝手に錯覚してしまったのだが、インタビューのはじめににそういう話をすると「ええー、メッチャ嬉しい」とウケた。

「うちの父親が、昔は久米さんのライバルやったんですよ。いまはお昼ずっとテレビを見ていて、ライバルは宮根さん。『それ、ちがうやろう』と毎日ツッコミ入れている。それで、ラジオのゲストに呼んでもらったときに、久米さんが『お父さんのファンになった』と言ってくださったおかげで、もう調子にのって『俺のこと、久米さんがファンやと言うてるんやでぇ』と言いはじめて」
 どんなお父さんなの?
 訊ねながら「じゃりン子チエ」の父親が浮かんだ。ヤンチャたちから慕われるだけあって、ちょっとコワイひとだという。橋本さん、生まれは関西だという。4歳で愛知県に転居、関東で何度か引っ越しを経験している。
「なので、いろんな方言を吸収してきているんです。だからコテコテの関西弁でもないンですよ」
 と言うが、イントネーションはしっかりコテコテだった。
「えっ、ホンマですか? でも標準語をしゃべらないといけないとなったら、ちゃんとはしゃべられるんですよ。でも、気を許すとつい地が出てしまう(笑)」

 引越しが多かったのは、父親の工場経営と関係していたそうだ。
「父親のきょうだいは九人いて、全員男。そのうちの二番目のお兄さん(橋本さんにとっては伯父)にビジネスの才能があって、関西にいた頃、こういう工場をしてみろと話をふってくださったんですよね。
 父親も、仕事が面白くなってきた頃、そのお兄さんに、工場の工場長をやらんかといわれて愛知県に行ったんです。さらに関東にも進出するとなって、支社長。その後独立して、自分の工場を建てたんです」

 何をする工場かというと、プラスチックの金型を研磨する。
「車のパンパーとかライトの部分はプラスチックで出来ているんです。あとエアコンの外側とか。それらをつくる金型は、凸と凹をカチャンとやってつくる。間にプラスチックの樹脂を流して、型をとる。その金型は、ほんの少しでもギザギザだとダメで。だからミクロン単位できれいに磨き上げるんですよ。それも、ぜんぶ手作業で」
 へぇー。ミクロンとは。
「最後の『ダイア仕上げ』は、ダイヤモンドの粒子の入ったペーストを綿にかけて、手で磨いて『鏡面仕上げ』にするんです。ピッカピカになるまで。この工程は職歴10年クラスでないと任せられない」

 いかにも職人の世界だ。しかし、どうして磨くという同じ種類の作業をわざわざ分業化するのか? けっこうわたし、工場好きで、つい質問していた。
「分業制にするのは、ひとりに任せると職人は独立する。工場としては独立されると困るんです」
 ああ、なるほど。
 聞けば、ある日突然、職人さんが工具とともに「消える」という事件があったのだという。
「新人だけ残して、工具もぜんぶ持っていかれてしまったんです。しかも、すぐ近くの町に工場を建てていた。それ以来、父親は重要なことは紙に残すことをやめて、ぜんぶ自分の頭にしまうようになったんです。おかげで倒れたあと、高次脳機能障害になって引継ぎもできないまま、わたしが……」

 橋本さんが父親の代役をするようになってから三年くらい「わからないことだらけ」で大変だったという。
「とくに昔取引のあった人から、『昔と同じように』と頼まれると、加減がわからない。あと父親が電話がかかると、いちばんに取るんです。『ありがとうございます』と切ったあと、『おとん、誰から?』『わからへん』。ええっーー!? 後遺症なんですよね。もう電話取らんとってよ、と言うんだけど、仕事をしたいという意欲はあるので、鳴ったら反射的に電話をとっている」
 吉本新喜劇の一場面のようで、話を聞きながら笑ってしまった。橋本さんも何度もこの話をしてきたのだろう。話が練られていた。

「それでテープレコーダーを回すようにしたんです」
 それが、事故を招いた。ある日とっさに録音でなく「再生ボタン」を押してしまった。
「それまで取引先には、父親が倒れたということは隠していたんです。社長が倒れたとなったなら、下請け工場はやっていけないですから。それで、会話中に録音の音声が流れてしまったことから『あの会社、通話記録を残しているぞ』という噂が流れ、ちょっとキビシイことになったんです」
 それでも当時、橋本さんが外回りをして顔をつないでいたこともあり、得意先には事情を説明し大事にならずにはすんだそうだ。

 ところで略歴を見ていくと、父親の工場を引き継ぐことがなかったならば、大学卒業後にニューヨークに行き「シンガーソングライターになる」夢をもっていたという。
 どんなタイプの?
「R&Bですね。アメリカの方が歌うような。ビオンセとか、日本でいうとJUJUさんかなぁ。ジャズも入ったかんじの」

 子どもの頃、父親のトラックの助手席によく乗せてもらっていたという。父親が口ずさむのは演歌。やがて演歌プラスR&Bを自作し歌うようになっていた。カバーで好きなのは「川の流れのように」だというので、憂歌団は知っているかと聞いてみた。
「ユーカダン?」
 はい。大阪バリバリのブルースバンドで、代表曲は「おそうじおばちゃん」「パチンコ」
「えっ、なにそれ?」
 ワークソング、ナニワの労働歌です。
「へえー、おもしろそう。あとでチェックします」

 それで、お父さんが倒れたりしていなかったら、歌のほうにいっていた?
「大学を卒業したらニューヨークに行く手はずは済んでいたんですよ。語学学校とか、ビザのこととかも。でも、卒業の一ヶ月前に父親が倒れた時点で、うちのような超零細工場には、ほかの選択肢はなかった」
 当時、父親は海外工場を建設、従業員を増やし融資も受けていた。病院から帰る車の中で母親から「わかってるやろう。あしたから仕事やで」と言われれば、夢を優先することはできなかった。

 橋本さんの経歴で、シンガーになろうとして工場経営に転換したのはわかる。独特なのは、工場経営からライターへの転職だ。
「小さい頃から人とちがうことをするのが好きで、いろんなことを見たり感じたりしたい子どもやったんです」
 橋本さんは出身大学も生年も「非公開」にしている。久米宏さんの番組でも「先入観をもたれたくないから」と伏せていた。隠された部分があると掘り起こしたくなる癖のある久米さんだけに、本に書かれたお父さんの年齢と橋本さんが工場を継がれたのが何年だったのかを計算して、割り出そうとしていたのが面白かった。
「非公開にしているのは、わたしの場合、記事一本で勝負したいというのがあって、それ以外の要素で判断されたくない。だから、大学も非公表。まぁ、格好つけでもあるんですが」

 ある年齢を過ぎると生まれ年をプロフィールから削除するライターさんたちを見かけるが、橋本さんの場合はちょっと事情が異なるようだった。ジャーナリズムへの興味も、18歳のときに歌の勉強で「海外に行きたい」と思ったことが発端。両親に相談すると「まず大学に行き、あとは自由にしたらいい」と説得され「歌=メディア」と考え、ジャーナリズムを専攻。当時「社会で理不尽なことがあると、それを歌に生かそうと思った」。
 そうして着々と計画を積み上げ、来月にはニューヨークだというところでの進路変更。「だから、ぜったいジャーナリストになろうというのではなかった」

 もうひとつ。経歴を追うと「日本語学校講師」が出てくる。工場経営、トラックドライバー、シンガー、ジャーナリスト、さらに日本語教師?
「そうですよね(笑)。
 工場をやっていると、もどかしくなってくるんですよ。工場と家の往復だけで終わりたくない、悶々とした気持ち。そこで海外を疑似体験するとしたら何やろう?
 日本語学校なら、いろんな海外の人とおしゃべりができるだろう。そういう軽いノリで入ってみたら、これが、奥が深かった。30人くらいのクラスを受け持つと20カ国くらいの人たちと話をする」


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🔼タイトル写真もあわせ、「週刊朝日」の取材でポートレイト撮影しているときの風景。

いったんココらで前編おわりで、後編につづくと切ろうかと考えたけど、ま、いいか。イッキに後編いきます。

 橋本さんは海外からやって来たひとたちに日本語を教える授業を通して、外国の人が日本についてどう感じているかを自身も勉強することになる。彼らの目に「日本がどう見えているのか」。情報として得る一点だけでも面白い体験だったという。
 生徒の国の数も多様だった上に、そうした留学生向けのクラスとは別に「海外駐在員」の個人レッスンも担当した。大手企業の日本支社長や役員もいた。
「学校には、わたしが自動車関係の工場をしているというのは伝えていたので、自動車関連の方が多く。日本語のレッスンなのに、こういう問題は中小企業としてはどうなのか、と英語で討論になったり、彼らも『日産やトヨタやホンダの下請けをやっている工場は、どういう考えをもっているのか』を知りたがるわけですよ」
 日本語学校の講師は、工場を閉めたあとも、渡米するまでしばく続けていた。
 しかし、どうしてニューヨークだったのか?
「いろんな人がチャンポンになっているところに刺激を感じていた。あとは9.11があったときに、何であそこだったのか。知りたいと思ったのもあったんです。それで、翌年ひとりでニューヨークに行ったら、まだ大きな穴があいていて、犠牲になった人の写真もたくさんあって。何で、なんで、と」

 なるほど。それで話は飛びますが、橋本さんが何かの記事で書いていたのをメモしたんですが、工場を「こうじょう」と読むか「こうば」なのか。その差は「ラジオ体操」にあるという。
「そうそう。関東の人は『こうじょう』。でも、わたしの心の中にあるのは『こうば』なんです。というのも、朝8時半に来て、ラジオ体操をするかどうか。
 うちは、しない。歯を磨きながら来る人もいたくらい、ラフだった。多少なら遅刻してもノーカウントにする。情で動く、というか。ラジオ体操って、やらされている感があるでしょう。だから、うちは朝礼もなし」

 仕事は「じゃ、始めようか」ではじまるのだとか。
 語るたびに動く彼女の手が気になった。細くて長い指をしている。しかし、自身も研磨の仕事をやっていたため、左の中指と中指の第二関節から先が外に反っている。
「鉄をこするのには、力がいるんですよ」と磨く仕草をする。父親の指は、彼女以上に曲がっているという。
 その手の爪には、いまはきれいにマニュキアされている。子どもの頃はピアノを習っていたそうだ。きれいと口にすると「ここだけ、女なんです」と笑い返された。
「工場時代は、爪を伸ばしたりできない。手が隅に届かなくなるので。カーブするところを磨くときに、あたるんですよ。
 だから工場を閉めていちばん嬉しかったのは、マニュキアができるようになったこと」

 結局、お父さんの工場を閉められることになる、最終決断をされることになったのは?
「最後には工場長がひとり残ったんですが、父親が倒れて以降、従業員は一人ひとり辞めていった。退院した父親は、会社に毎日やってくるんです。でも、以前のように何かできるわけでもない。そうすると、社員は不安になるんですよね。円高でも、うちは給料を下げたことはないんですが、ボーナスがね……そういうところで、また不安になる」

 父親の仕事を引き継ごうとして、いちばん困ったのは「見積もり」。父親が誰にも任せなかったことだった。
「たとえば、中国産と日本産とでは、鉄でも硬さが違う。機械で削るのと、電機で削るのとでも違いますし。工程にかかる時間で値段の上げ下げをするんですが、そのあたりの感覚は父親でないとわからない。納期も、どれぐらいが適切なのかが掴めない。それで、足元を見られて、だんだん下げられていったりしたし」
 最盛期には35人いた従業員も、最終工程まで出来る工場長ひとりとなり、「僕も辞めます」と言われた時点で閉鎖を決めた。「だから父親には申し訳ないという思いはあります」

 それで工場を閉めて、ライターになるんですか?
「正確には、工場をやっていた間に一回ね、もうガマンできなくなって、一年ほどニューヨークに行ったことがあるんです。歌うために。そのときは向こうの語学学校のアドバイザーとして働くということで、一年間トレーニングビザも取った。
 でも、行ってみたら仕事の内容が聞いていたのと違っていて、辞めて、プーに(笑)。ビザの規定があるから、働くにも制限はある。どうしょう? 困っていたときに採用してもらった会社が日本の放送局の仕事を請け負っていて、『何でもやらせてください』とお願いしていたら、『橋本さん、今度国連の取材があるんだけど?』と音声のアシスタントから通訳まで、なんでも任せてもらえた。ふつうは見られない現場に立ち会えて、火がついてしまったんですよね」


現場で回転工具を扱う筆者

工場時代と日本語講師だった頃の橋本さん

日本語教師をしていた当時の筆者


 はじめてルポルタージュの記事が、ネットマガジンに載ったのが2009年。日本とは生活習慣の異なるニューヨークで暮らした、現地エピソードなどを連載していた。
 ビザの期限とともに日本に帰国。その後「ハーバービジネスオンライン」の編集者と会う機会があり、『トラックドライバーにも言わせて』の元となるネット連載につながっていった。
「トラックの記事をはじめて書いたのは、まだニューヨークにいた頃です。記事のファクトチェックをしようと問い合わせをしていたら、『それは自分の仕事じゃない。担当者に言っておく』と見事なタライまわし。もう締め切りに間に合わないとなって、やむなく工場時代の体験を書いたんです。
 それが、まあ大反響(笑)。自分で言うのもなんですが。『面白いよ。もっと書いてよ』となり、トラックの話と交互に書くようになった。ただ、工場の話はいつでも書けるけど、取材する必要のある運送の話は、自分が動いて聞けるうちに書いておこうというのもあって、トラックの話に絞っていったんです」

 なるほど、ようやく工場とシンガーとライターがぴたっと結びつきました(笑)。
 ところで、『トラックドライバーにも言わせて』で、いちばん印象に残ったのは、2019年9月、横浜市神奈川区で起きた京浜急行電車と大型トラックとの衝突事故。踏切内で立ち往生したトラックと電車が衝突し、67歳のドライバーが亡くなられた。その現場を、橋本さんは6回も訪ねている。二度、三度ならわかるんですが、6回というのは。
「一回行ったときに、涙が止まらなくなったんですよ。彼(亡くなったトラックドライバー)の言われ方が、『ジイサンの癖に』とか、『運転が下手なヤツにさせるな』とか。そんな言い方はないだろう。
 60の定年を超えて、再就職してまで、トラックの仕事をしないといけない。年々物流の需要が高まるなかで周り(現場のドライバーが置かれている過酷な労働環境)は変わらない。
 高さ制限の標識の場所が、もっと手前にあったとしたら路地に入り込むことなく、迂回できたんじゃないかとか。(現場を走ることで)防ぐことができたかもしれないポイントがいくつも見つかった。しわ寄せは、ぜんぶトラックにいってしまっている。典型的な事故だったんですよね」

『トラックドライバーにも言わせて』の中には、こう書かれている。
《現場を初めて走った際、真っ先に思ったのが「標識がもっと分かりやすかったら」ということだった。
 小道手前の道路にあった2枚の標識は、実は情報量が多かった。その道路の制限速度は、時速40キロだが、同時速のクルマは、1秒で約11メートル進む。そんな中、情報過多な標識を早朝4時から働き始めた67歳が瞬時に見て理解するのは、決して簡単なことではない。
 また、その標識は現在、2枚とも道路の奥のほうに設置されているのだが、実はそれよりも手前に、大型車でも余裕を持って回避できそうな側道がある。「最終警告」ともなるこの標識が、もしこの側道よりも手前にあったら、回避のチャンスが一つ増えているのではと思えてならない。

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事故現場付近(橋本さん撮影)

事故現場に残されたタイヤ痕


 ひと月の間に6回、現場に足を運んだ橋本さんは、その都度供えられた花を目にする。なかには彼女が持っていったものも。枯れたままの花を目にすることで、彼の家族構成を考えるようにもなった。
もし、家族がいたら手を合わせにきたんじゃないか、とか。雑草をきれいにするんじゃないか、とか。推測ですけど、行く度に寂しい気持ちになったんですよ。
 もうひとつ。なんで最終的にトラックを降りなかったのか。カンカン鳴って、バーが降りてから電車が追突するまでに20~30秒はあった。降りて逃げようとしたら出来たのに。彼は回避にあてたんですよ」

 その間の心中を想像すると「どんなに、怖かっただろうか」と言葉を詰まらせる。

「本にも書きましたが、わたしは、彼のいちばんのミスは、車を降りなかったことだと思っている。標識を見落とし小道に入ったのがミスだとか、迷い込んだ時点で警察を呼ばなかったのがミスだとか言われる、わたしも、そう思う。だけど、いちばんやってはいけなかったのは、車を降りなかったこと。
 そういうことを問題提起しようと思っていると、あれだけの回数になってしまった。もう本の締め切りを越えていたんですけど、編集者に無理をいって入れさせてもらったんです」

 この本でわたしも、ニュースで知ってから気になっていた事故の詳細をようやく知ることができた。インタビューしたいと思ったのは、この事故の話もそうだが、橋本さんがトラックドライバーにもかかわらず方向音痴だったと書いていたのが動機のひとつだった。わたし自身もひどい方向音痴で、男にもかかわらず地図がさっぱり読めず、駅から3分のところに20分もかかるなんてザラだったりする。

「わたしも、アイホンのナビに、この先東とか西とか言ってほしくない。前とか右とかにしてほしいんですよね。どっちが東やねんとなるタイプ(笑)。
 わたしがトラックに乗っていた頃のナビは、まだ性能もよくなくて、最初は先輩の営業さんに道案内してもらって『このデイリーヤマザキを右ね、おぼえた?』と教えられる。だけど、何回行っても迷う。
 いちばん困ったのが静岡。畑ばっかりで、行けども行けども、茶畑。ああ、またやらかしたかぁ。
 見かけたオバチャンに、この〇〇〇という名前の工場はどう行けばいいですかと聞いたら、『畑のところを右に』って、ぜんぶ畑やんって(笑)。
 親切なオバチャンで、頼んで乗ってもらって案内してもらいました。帰りはね、簡単なんですよ。幹線道路の表示を見ていけばいい」

 そういうこともあって、高齢のドライバーが慣れない道に迷った末の事故というのに、つよく反応されたんですか?
「そうですね。彼に、何があったのかを知りたい。そのためには一回行っただけじゃ推測できない。二回目に行ったときに新しい発見が、タイヤ痕とは別にえぐられた傷を見つけ、標識の設置場所もそうですが、何回か行くことでわかることがあるんですよね」
 小道に入り込むことを回避する手立てはなかったのか。手前の陸橋に立ち、3時間ほど車の流れを見ていたこともあるという。

「事故を起こしたのと同じくらいの大型車は、どこで曲がるか。なんで彼は回避できなかったのか? いろんなことを考えながら見ていました。三回目くらいになると記者らしい人もいなくなって、何か残さないとこの人は報われないよなぁ、そう思えてきた」
 現場を聞き込みのようなことはされたんですか?
「近くのコンビニの人とかに聞いたりしました。警察は来ましたか、とか。駅員さんは『僕たちは、話せません』って。目撃者を探しても『大きな音がした』というくらいで、6回では現場を見たという人は見つからなかったですね」

 あと迷路に入り込んで立ち往生したときに「なぜ警察官を呼ばなかったのか」と書かれていました。読者として、警察官に誘導してもらえるというのと、その場合、減点とかにならないというのを本書で知りました。
「そうなんです。違反キップも切られないんですよ。なぜなら、交通整理と同じ警察官の仕事だから。ただ、プライドが邪魔をして呼ばないという人もいるんですよね。プロなんだから、自分で対処するんだという」

 亡くなられたドライバーは「無事故」を続けていたひとだったんですよね。
「そうなんですよ。こんなことになるはずがない、というのもあったのかなぁ。わたしは方向音痴もそうですけど、『自分は出来ない』がベースなので、すぐ人に聞くんです。ただ、トラックドライバーの中には取材をしていて『僕だったら呼ぶ』という人もいて、今回参考になりました」

 道に迷ったときに聞くひとと、自力でというひとの違いみたいなことなんでしょうか? わたしは昔は、聞かないというか聞けない性格で、何度もひどい目にあってきました。もう最近はすぐ聞くようになりましたが。
「たぶん、今回のドライバーさんは聞けない人だったのかもしれないですよね」
 ところで、ドライバーの家族に取材をされたんですか?
「会ってないです。これは会わないでいこうと思いました。わたしが彼の立場だったら、ご家族のところに行ってほしくないだろう。花を見て勝手に想像したことですけど、家族に会うのは止めてほしい。そう感じてしまった。枯れた花が残っているのを見て、わたしが家族であれば、行って悔しい思いをぶつけると思ったんです」

 手向けの花を見て、家族が足を運んだ形跡を見てとることが出来なかったということですか。
「ええ。それに彼がということではなく、60代で再就職するトラックドライバーたちの家族構成を聞くと、あたたかい家庭ではないことが多いんですよ。ひとり身だったり。そういうこともあって、一歩踏み込めなかった。自分自身が彼だったらと思うとね、『来てくれるなよ』と思うんじゃないかなぁ、とか。あと、トラック協会の人に聞いた話では、彼が勤めていた会社の社長さんが最近亡くなられたそうなんですよ。詳しい事情はわからないんですが、このタイミングでというのもあって」

 これが人物ノンフィクションを意図したルポだと、書き手にとって「家族を探す」というのは不可欠なんだと思うんです。物語として。でも、橋本さんはそちらに意識を向かわずに「事故」の原因を探ることに重点を絞って事故現場に足を運ばれた。6回も。そこは独特ですよね。
「もちろん彼自身の背景を知るというのも大切なんでしょうけど、わたしはトラック全体のことを考えてみた。『下手くそに運転させるな』というネットの書き込み。それはトラック全般に言われたことで、個人の問題ではない。トラックドライバーは、弱い立場にさらされている。そこがいちばん書きたかったことなんですよね」

それは、本書のテーマに還流することでもありますよね。
「たしかに。だから、彼の人生を追っていくというよりは、トラックドライバーについて言われることも、実はそうじゃないんだよということを書きたかったんですよね」


👇雑誌の記事に載せるポートレイトを担当したのは、加藤夏子さん。せっかくだからメイキングふうにカメラを構える彼女の後ろから「元工場」を写し込んでみた。終わると「あの窓ですよ」と光が挿しこむ天井近くを指し、橋本さんが笑う。本にも書かれているが、工場の跡取りを欲していた父親はバリバリ現役だった頃、事務所へと上がる外階段の窓から工場を覗き、眼下で働く従業員たちの中から花婿を選べといったとか。トンデモな父親だという。
「元工場」は、建物はそのままに、いまの隣の会社の駐車場になっている。顔なじみのご近所さんだった工場長さんにも菓子折りを携えて挨拶を交わし、懐かしそうだった。

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