2023/06/04 「お散歩とマラソン」

はじめまして、夢野です。普段書いている日記をここ(note)に載せていこうと思います。気まぐれなので、すぐやめるかもしれません。


・今日は休日で特にすることがなかったので、お散歩をすることにした。私はお散歩がかなり好きな方だ。友人に散歩が趣味であることを話すと「老人みたいだね」という返事が返ってきたことがあるが、それでも好きだ。お散歩はなんとなく外に出てぶらぶら歩くだけのことだが、私にとっては少なくとも特別なものがある。

・その特別さについて少し考えてみる。おそらくは「なんとなく」歩くことを「お散歩」という言葉で表している点がこの不思議な感覚に関係しているのだとおもう。お散歩という単語が「なんとなく」という意味を含んでいることが私にとって有難いのである。生活の中でなんとなく行うことは他にも多くあるが、それを意味として含む言葉は(わたしが知る限りでは)あまりない。

・たとえば、なんとなくで水分補給をすることを「散飲」だとか、なんとなく勉強することを「散勉」だとか、そういうふうに言うことはできるけど、実際にそのような言い回しはしない。特別の事情がない限り、なんとなくで行為することは一般に良しとされないし、そもそも意識されることが少ないから、そのような言い回しが少ないのは当然といえば当然である。

・そうだとすると、お散歩の特別な所は「なんとなくで歩いてもいいんだぞ」と言葉によって肯定されている(ように感じる)ところにあるんだと思う。たとえば、「ちょっとお散歩に行ってくる」と言う人に対して「そんな無意味なことはヤメロ!」と返事をする人はいないし、また、そのように思う人も少ないように感じる。世間では行為の意味を考えずに気を散らしたまま行うことは好まれにくいが、お散歩という行為は「お散歩」という言葉の存在によってそれが可能になっている。「なんとなく」の行為であることが言葉自体に含まれていることによって、世間の内なる視線をギリギリで回避しているのである。

「お散歩って言葉がある世界でよかった、ありがとう!」

・逆に言えば、先にもすこし触れた勉強や運動といった言葉は「なんとなく」で行うことを肯定していない。むしろ、計画性をもって生活することを促す言葉として用いられているようにおもう。たとえば、私の出身高校の(一部の)教師は「そんな自堕落じゃあ、やっていけないよ」とか、「勉強は手段であり、目的を叶えるためのものなんだ」と面談の度に説いてきた。いま思えば、その教師は「あらゆる活動は社会的な目的や動機と結びつけられるべきである」と考えていたのだろう。

・これらは教師の方便としてはもちろん理解できるし、むしろそう理解するべきだが、しかし、当時の私にとってそれがお節介であったのも事実である。私の周囲には、受験や就職といった目的・目標のために心を壊したり、行為に対して過度に意味を求めるあまりに他人をこき下ろしたり、肥大化した自意識の制御に苦しんだりしている人が多くいたので、そうした言説は単に不愉快だった。「なんとなくでいいよね」と肯定されていることで行為が可能になる場合があることを、むしろそうでなければ行為することができない人のことを肌で知っていたからだとおもう。

・余談だが、お散歩として「なんとなく」することを「意識」して行うというのはすこし奇妙に思われる。なんとなくを意識的に行うというのは矛盾しているのではないだろうか。このことについてもっと踏み込んで考えてみたいが、日記で書く内容では無くなってくるので控えようと思う。しかし、とりあえず言えるのは、その矛盾の存在自体が多くの人にとって大事なものになっている、ということだろう。「なんとなくでいいじゃんか」「やり始めてから考えようぜ」という連帯性や公共性の意義を再確認させてくれるような、そんな言葉が必要なのだとおもう。


・夏。わたしの住んでいるところでは日中気温が25℃を超える日が続いている。私は暑さがあまり得意ではないので、もうすでに気が滅入ってしまった。

「ちょっと最近暑くないか?しかも、なんか頭がぼやぼやしてどれだけ寝ても眠たいよ……。」
「……エアコンを付けて、はやく楽になりたい、けど電気代が高いので我慢しよう。」

・毎年、こころの中でこんな言葉を垂れ流しつづけている気がする。直情的な言葉を一方的に投げつづけているのは夏に対して申し訳がないなという気持ちになってきた。ごめん。


・私の住んでいるところでは今日、国際ハーフマラソンが行われていた。舗装された道路の上を大勢が走り抜けていく様子、それを応援する人々や交通整理を行うボランティアの人々。とても楽しそうだった。道路の上を走るのは学校の廊下で鬼ごっこするみたいな感じでとても羨ましい。だけど私は長距離走が得意ではないので参加する気力は湧かなかった。

・マラソンと聞くとコースを完走するという目的達成のための行為であるように思われるが、実際はどうなのだろうか。マラソン自体の目的はそうかもしれないが、マラソンに取り組み始めた動機は意外となんとなくなのではないだろうか。お散歩だけではなくてだいたいのことがなんとなくで始まるのかもしれない。そうだといいな。


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