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レフチェンコに訊く 「日本はスパイ天国だった」 ——リーダーズダイジェスト日本版 第38巻 第5号(1983年5月)

 日本版リーダーズダイジェストは、このたび、元KGB(ソ連国家保安委員会)将校、スタニラフ・アレクサンドルビッチ・レフチェンコ氏と単独インタビューを行う機会を得た。〔本誌編集長 塩谷 絋〕

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 ソ連のニュース誌「新時代 (ノーボエ・ブレーミヤ)」の東京特派員という隠れ蓑の下で、4年8か月間諜報謀略活動に従事していたレフチェンコ氏がアメリカに亡命したのは、1979年10月24日のことである(当時38歳)。その後、彼は長期にわたって、アメリカ防諜当局の厳重な取調べを受けたが、その中でKGBの世界的規模の破壊・諜報謀略戦略に関する幾多の重要な新事実を明らかにした。こうしてもたらされた情報を徹底的に分析したアメリカ当局は、今日、レフチェンコ氏を「ソビエトからの亡命者のなかで、最も価値ある情報をもたらした人物」として極めて高く評価している。
 亡命後3年以上も沈黙を守りつづけていたレフチェンコ氏は、昨年(注:1982年)12月10日、ワシントンで初めて記者団の前に姿を現し、KGBに関する衝撃的な発言をして自由世界の注目を集めた。氏はその日、同年7月14日にアメリカ下院情報特別委員会の秘密聴聞会で行った証言に触れた。証言の要点は、在日中自分は多くの日本人エージェント*)を獲得して操作し、また日本の各地で「積極工作 (アクティブ・メジャー)」を遂行した、というものである。氏の説明によれば、KGBの「積極工作」の最終目的は、日本の世論および政策を親ソ的なものにするように仕向けることにより、わが国の国益を損なわせようとするものである。

*) 以下に用いられる「エージェント」という言葉は、レフチェンコ氏がインタビューの中で解説したところに従って用いるものであり、本誌としてはこれに何らの新しい意味を付加したり、あるいはこれを制限的に用いたりするものではない。

 記者会見の席上、レフチェンコ証言録のコピーが記者団に配布されたが、これにはそれらエージェントの実名はいっさい記載されていなかったし、レフチェンコ氏自身も当日、実名に触れることを拒否している。そのわけは、以下に掲載するインタビューの中で彼自身が説明している。
 これらエージェントが誰だったかについては、アメリカでの新刊書「今日のKGB=隠された魔手」でかなり明らかにされている。執筆者は、KGBに関する著作活動で世界的に有名なジャーナリストで、アメリカ版リーダーズ・ダイジェスト・ワシントン総局主任編集員のジョン・バロンである。同著は、バロン記者がレフチェンコ氏および各国防諜関係者の提供した情報を基に、3年以上の歳月を費やして書き上げた労作である。

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 著者は、レフチェンコ氏がKGBのエリート将校として「積極工作班」に在籍中、モスクワの指令の下にどのような対日工作を展開していたか、なぜ亡命を決意するに至ったか、などの点を国名に説くとともに、彼のエージェント獲得、操作振りをコード名並びに実名入りで如実に再現している。
 実名かコード名、あるいは双方で登場する日本人は、26人である(身分、肩書等は1979年当時のもの。「 」内の解説は原著に依拠する)。

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アトス(佐藤保) 「社会主義協会事務局長」
アレス 「有力通信社勤務。公安関係の友人から膨大な秘密情報を入手し、KGBに渡していた。〝情報の宝庫〟と呼ばれていた人物」
ウラノフ 「社会党国会議員」
カミュ 「東京新聞の記者で韓国問題のスペシャリスト」
カメネフ
カント(山根卓二) 「サンケイ新聞編集局次長。社長と親しい」
ギャバー(勝間田清一) 「社会党中道派のベテラン指導者」
キング 「社会党の有力なリーダーで国会議員。レフチェンコから選挙資金を受取った」
クラスノフ 「財界と実業界で著名な人物で、日本のビジネス・リーダーの間に逆情報を流しうる」
グレース(伊藤茂) 「社会党国会議員で党中央執行委員会の重要なメンバー」
サンドミール(杉森康二) 「日本対外文化協会事務局長」
シュバイク 「アレスの友人の公安関係者。アレスに渡した情報の中には、公安当局が作成したレフチェンコの身上調書の抄訳のコピーも含まれていた」
ズム 「ウラノフの優れた秘書」
ツナミ  「億万長者で財界の実力者。ソ連の影響力が日本の財界や実業界に及ぶのを助けている」
ティーバー  「社会党員で党の政策に影響力を持つ」
デービー  「サンケイ新聞東京版勤務。カントを〝補強〟しうる人物」
ドクター  「経済的に苦しいフリーのジャーナリストで熱狂的マルキスト。以前は共産党員。事務所、家屋、接触予定地点を撮影するなどして、KGBの工作活動に不可欠な、秘密のバックアップ活動を展開した」
トマス 「一流新聞のベテラン・ジャーナリストで、レフチェンコの執筆依頼に応じていた」
ナザール 「外務省職員。各国の日本大使館から発信された通信文を同省の電信課で入手し、撮影もしくはコピーして、自分のケース・オフィサー(KGBの担当官)に渡していた」
バッシン(山川暁夫)  「本名山田昭。ジャーナリストでニューズレターの編集者」
フェン・フォーキング 「自民党の党員で、党内の一派閥の指導陣に影響を及ぼしうる人物」
フーバー(石田博英)  「自民党国会議員。元労働大臣で日ソ友好議員連盟会長」
マスロフ 「内閣調査室関係者で中国問題のアナリスト」
ムーヒン(三浦甲子二)  「テレビ朝日の役員」
ヤマモト 「インテリのエージェントより成るグループの指導者で大学教授。学会で活発に活動中で、ソ連の意思に従った各種著作物を発表している」
ラムセス 「社会党党員」

 アメリカの某所で会ったレフチェンコ氏は、達者な日本語を話した。身長180センチ弱、レスリングの選手だったというだけあって、なかなかの偉丈夫だった。アメリカに来てから生やしたという口ひげがよく似合う。だが、諜報畑の人間特有の鋭い眼光は失っていない。ときどき、射すような目つきでこちらをすばやく一瞥すると、ふたたび視線を足許に落として、東京時代を回想する。何度か声を立てて笑ったが、目は笑わない。
 在京時代、休日には築地に遊び、行きつけの寿司屋で月桂冠をすすりながら、トロをつまむのが何よりも好きだった、と氏は語った。「ハイライトが好きでしてね、アメリカでは手に入らないのが残念です」と言い、両切りのポールモールを続けざまに何本も吸いながら、レフチェンコ氏は長時間にわたって語った——日本におけるKGBの暗躍の実態、ソ連の対日工作の究極目的、自身の日本観、ソ連に残された夫人と息子の消息、等について。
 ソ連は、日米関係を損なうと同時に、日本の政財界に親ソ政策を採らせることに腐心しており、その究極目的達成のためにクレムリンは、東京を世界有数の諜報謀略工作の拠点と位置づけ、精鋭工作員を多数送り込んでいる、と力説するレフチェンコ氏とのインタビューは以下のとおりである。

*本誌とレフチェンコ氏との会談は、今回の会見を含めて、昨年来数回に及んでいるが、その中で浮き彫りにされたソ連の日本に対する諜報謀略工作の実態は想像を絶するものである。オフレコの発言が多く、すべてをお伝えできないことが残念である。
 なお本誌は、バロン記者とも再三にわたって会談を行い、記述の信憑性を確認している。ちなみにレフチェンコ氏は、自ら提供した情報が原著に正しく伝えられていることに満足している、と語っている。

本誌 日本人がKGBのエージェントとして利用されていたというあなたの発言は、多くの日本人にとってショックであり、信じ難いものでしたが。

レフチェンコ 私が日本にいたころKGBのエージェントだった日本人は、確かに200人はいました。そのうち私の扱っていたエージェントは10人前後です。ご存知のとおり、KGB将校は私一人だけではありません。東京狸穴のソ連大使館で働いているソ連人のうち、半数以上は諜報関係者なのです。

本誌  エージェントとは、正確にはどのような人物を指すのですか。

レフチェンコ  KGBがエージェントと言う場合、それはKGBが海外で積極工作を実施していくうえで必要な〝現地協力者〟とみなす人物の総称です。エージェントには、実際には幾つかのカテゴリーがあります。重要なほうから順に挙げてみましょう。まず第一に、正真正銘のエージェント、つまりKGBの完全なコントロールの下に、積極的にKGBのために活動し、KGBから報酬を得ている者がきます。次にくるのが、〝信頼すべき人物 (トラステッド・コンタクト)〟です。これは政、財界、学会、マスコミ等で影響力のある人物で、この種のエージェントは、KGBに協力していることを百も承知で、各種の情報をソ連側に提供したり、あるいはまた国内で逆情報 (ディスインフォメーション) を流したりします。しかし、ときには相手がKGBとは知らずに、うっかり協力させられているようなケースもあります。〝信頼すべき人物〟のなかで、KGBが特に重視しているエージェントに、〝影響力のある人物 (エージェント・オブ・インフルエンス)〟と呼ばれるグループがいます。KGBは彼らに、情報収集よりも、日本政府の政策や世論をソ連よりにするために各種の活動を展開することを期待します。
 その次に、〝友好的人物 (フレンドリー・コンタクト)〟と呼ばれているエージェントがいます。要するに、現段階では本格的な協力者とは言えないが、ジャーナリストやビジネスマンを装うKGB将校と友人関係にある人物です。彼らは自分たちの〝友人〟であるソ連人がKGB将校だろうなどとは夢にも思っていません。そして最後にくるのが、〝脈のある人物 (デベロピング・コンタクト)〟です。これは、KGBが何回か接触した結果、有望であると判断した人物です。〝脈のある人物〟が〝友好的人物〟に仕立てられるのは、多くの場合、時間の問題です。
 以上の説明でおわかりのとおり、エージェントの範囲はかなり広いのですが、KGBにとって大切なことは結果であり、期待どおりの結果をもたらしてくれる日本人ならば、本人の思惑などにはまったく無関係に、すべてエージェント扱いを受けるわけです。

本誌  日本におけるKGBのエージェント獲得工作の一般的な手口は?

レフチェンコ  日本人の〝外人コンプレックス〟を巧みに利用してエージェント獲得に当たる場合が、最も一般的です。KGB将校は、利用価値ありとみなした人間に照準を合わせると、まず、〝日本人と友人になることを純粋に願っているソ連人ジャーナリスト、もしくはビジネスマン〟として振舞います。KGB将校はいずれも日本語が達者ですから、日本人側としては気安く付き合えるわけです。一度接近するとそのKGB将校は、時間と金をかけてじわじわと〝獲物〟を追い詰めていきます。「あなたとお近づきになれて、日本のことが本当によくわかるようになりました」といったようなお世辞を連発し、プレゼント攻勢をかけます。日本人は外国製品に弱いですからね。そうやって〝獲物〟を徹底的におだて上げることによって、KGB将校は相手に安心感を与えるように努めるのです。そのうちに相手は、こう思うようになります——「この人はどうも、自分が思っていたソ連人とは違うようだ。自分を大切にしてくれるのは、きっと不慣れな日本でとても寂しくて、自分を友人として必要としているのだ」と。〝獲物〟が自分を友人としてついに受け入れたと確信したとき、KGB将校はいよいよ、周到に練られたプランに基づいて本格的なエージェントづくりを開始します。日本人は外国人、特に白人に弱いし、頼まれるといやとは言えない性格でしょう。KGBは日本人のこうした特質を十分に心得ているのです。もちろん、金欲しさにエージェントになる人間もいます。でも、ソ連の友人に親切にしたい一心で、相手がKGBだとは夢にも思わないで、自分の勤務先の機密資料を提供していた例は、これまでに幾つもあります。

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 エージェントは、すべてKGBから報酬を受け取るのですか?

レフチェンコ  全員ではありませんが、大半が現金を受け取ります。在任中私は、毎月一人当たり3万円から36万円を渡していました。

*レフチェンコの東京での在任期間は1975年~1979年

本誌  「今日のKGB—隠された魔手」には、相当数の日本人が登場するわけですが、ほとんどがコード名です。全員の実名を挙げなかったわけは?

レフチェンコ  私としては、実名を出すのはできるだけ避けてほしい、とバロン記者に頼んだのです。なぜなら、かつて日本で今回のようなケースがあったとき——たとえばラストボロフ事件(1954年)のときもそうでしたが——必ずだれかが自殺しているからです。私はKGB将校としての任務遂行中に、何人かのエージェントに深い尊敬の念を抱くようになってゆきましたし、彼らの多くも私を受入れてくれました。ですから私は、必要以上に彼らの名前を出さないことによって彼らを守りたいわけです。しかし、状況次第では、今後さらに多くの人々の名前を明かさなければならなくなる、といった事態が発生するかもしれません。

本誌  これまでのところ、あなたのワシントン発言に対する日本の各界の反応は、どちらかと言うと、〝自分を高く売りつけるために脚色された誇大の情報で、信用できない〟というものですが、おっしゃるとおりに、KGBはそれほど深く日本社会に入り込んでいるのですか?

レフチェンコ  そのとおりです。日本人の大半が、ソ連の対日諜報謀略工作の実態およびその究極目的について驚くほど無頓着です。KGBによる対日工作は執拗かつ周到で、政界やマスメディアへの浸透工作は極めて効果的です。この点について、日本の治安当局は十分に承知しているはずですし、日本人エージェント自身がだれよりも明確に認識しているはずです。

本誌  日本政界への浸透工作はどのような成果を上げているのですか?

レフチェンコ  KGBは、自民党、共産党などよりも、社会党に対する浸透工作において大きな成果を上げています。社会党は派閥間の抗争が見られ、党としてのまとまりがよくありません。機構上の問題とリーダーシップのあいまいさにより、社会党はKGBの工作に対して抵抗力があまり強くありません。

本誌  社会党への浸透の実態は?

レフチェンコ  KGBはこれまでに、社会党の綱領を親ソ派に有利で親中派には不利なものにするに当たって、影響力を発揮してきました。社会党の指導層は、これまでのところ、確固たる統一的な政策を打ち出すことに成功したとは言えません。このような体質こそ、KGBにとっての好餌なのです。世界じゅうの社会党や共産党をコントロールすることを目指すクレムリンから見ると、日本社会党はかなりまとまりのない左翼政党であり、KGBにとって浸透しやすい政党、ということになります。しかし、KGBが自民党にも浸透していたことを、私は強調したい。

本誌  在日中、あなたは日本の治安当局にKGBだとみなされていたと考えますか。

レフチェンコ  はっきりとはわかりません。エージェントの一人が、私に関する治安当局のファイルの抄訳を見せてくれましたが、そのとき受けた印象は、私はジャーナリストとして見られている、というものでした。もちろん、ある程度は疑われていたことは事実です。日本にいるすべてのソ連人は、一応は疑いの目でみられますから。

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本誌  あなたの対日工作を通じて、KGBは何を達成したのですか。

レフチェンコ  重要なエージェントの獲得、幾つかの重要な積極工作の遂行、日本のマスメデイアに足掛かりを作ったこと、などが主たる成果です。なかでも特にマスコミに対する工作は、極めて大きな効果を上げました。この点については、バロン記者が書いているとおりです。

本誌  日本人はKGBをどう捉えていると考えますか。

レフチェンコ  はっきり言えば、日本人の認識不足は実にはなはだしいと思います。KGBを映画やテレビに出てくる架空のスパイ集団ぐらいにしか見ていないのではないでしょうか。在日中私は、この点が意外でなりませんでした。もっとも、だから仕事がしやすかったのですが。KGBは現実に存在し、機能している本格的なソ連諜報謀略機関で、日本では東京、大阪、札幌などを拠点に日夜スパイ活動を展開しています。また、KGB将校はすべて、厳しく鍛え上げられたプロのスパイです。ところで、ソ連から日本に常時多くの旅行者や視察団の団体が訪れていますが、多くの場合、彼らの本当の目的もまた、日本やアメリカの産業並びに軍事テクノロジーに関する情報の収集なのです。日本の人々は、ソ連の対日工作の実態をもっと身近で深刻な問題として見直すべきだと思います。

本誌  在日当時、日本をどう見ていたのですか。現時点でのあなたの日本観は当時に比べて変わっていますか。

レフチェンコ  私が日本について勉強するようになったのは、モスクワ大学時代のことです。勉強すればするほど、日本に対する興味と関心が増してゆきました。赴任する前にも、仕事で何度も日本に行きましたが、実際に住んでみて驚いたことは、日本社会がソ連社会とは比較できないほど機能的だということでした。日本は、伝統と進歩が実にみごとに調和している優れた民主国家だと思います。日本人は自分たちの伝統に誇りを感じ、勤勉で創意に富み、礼節を重んじる国民です。また、日本の社会は温かく、とても寛容です。今でも私の評価は変わっていません。ただし、日本の社会は外国諜報員の活動に対してはあまりにも寛容すぎるという点は、ぜひ指摘しておかなければなりません。在日中私は、日本はまさしく『スパイ天国』だと思ったものです。

本誌  「スパイ天国』」は、具体的にどういうことですか。

レフチェンコ  つまり日本では、各国のスパイが大手をふってまかり通れるということです。日本には防諜法も国家機密保護法もないため、政府は外国諜報機関の活動に効果的に対処できませんし、日本人協力者に対して打つ手も限られています。日本は共産主義諸国の近くに位置しており、ソ連、東欧諸国、北朝鮮などの諸国から多くの諜報員が入り込んでいますが、防諜法、国家機密保護法などがないことは、日本の安全を損なうことを目的とする外国スパイやその協力者をのさばらせることであり、これは民主国家の根本原則に矛盾することだ、と私は思います。


底本:リーダーズダイジェスト日本版 第38巻 第5号(1983年5月)

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