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大アジア主義 ——孫文氏演説

神戸高女にて 戴天仇氏通譯

 大アジア主義講演とは、1924年(大正13年)11月28日、孫文が神戸で頭山満と会談した翌日に行った講演。神戸商業会議所など5団体を対象として、現在兵庫県庁となっている場所にあった旧制神戸高等女学校講堂において行われた。当時は録音設備も無いため速記などによって記録されたためか大阪毎日新聞、神戸新聞、民国日報(上海)などによって多少の違いが有るようである。
 講演は中国語で行われ、随行した戴季陶によって日本語に通訳された。この演説は東洋の王道、西洋の覇道を区分し、東洋の王道をたたえ、その先端を行く日本の近代化への賞賛と行き過ぎによる覇道への傾斜を非難したものとらえる見解が従来有力であった。しかし、近年では、この演説で収容所国家化しつつあったソビエトを、自身への援助開始のゆえにおべっか的に礼賛し、反面自身への支援をためらった日本への嫌味をつらねた孫文の独りよがりの見解にすぎなかったとする指摘もあらわれている(渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』祥伝社新書 2013年) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AC%9B%E6%BC%94

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(1) 文化の發祥地

 諸君、本日諸君の尤も熱誠なる歡迎に応じて自分は誠に感謝に堪へぬのであります、今日皆さんに申上げる所の問題は即ち大亞細亞主義であります。

 惟うに我亞細亞と云ふのは即ち世界文化の發祥地である、世界最初の文化は即ち亞細亞から發生したのであります(拍手)今日歐羅巴の一番古い文化の國である所の希臘の文化にしても、又羅馬の文化にしましても、夫等の文化は總て亞細亞の文化から傳へられたのであります、我亞細亞の文化と云ふものは一番古い時から數千年前から、政治の文化にしましても、道徳的文化にしても、又宗教的文化、工業的文化、總て世界のあらゆる文化と云ふものは、悉く亞細亞の文化から系統を引いて居るのであります、近來に至りまして…最近の數百年に成りまして亞細亞の各民族が段々衰頽しまして、そして歐羅巴の各民族か段々強盛に成りました、其の結果、彼等は支那に向つて、—彼等の力を以て亞細亞に壓迫を加へました、さうして亞細亞に於る各民族的國家と云ふものは段々彼等に壓迫され、亡ぼされ、殆ど今から三四十年前までは亞細亞に於て一の獨立したる國家と云ふものはなくなつたのであります、大勢茲に至つて、即ち機運が非常に衰頽し、亞細亞の運命が衰頽の極にあつて、そして此の機運が此の三十年前に至つて愈々復興の機運に成つたのであります。

 此の三十年前に於て亞細亞の復興機運が發生したと云ふ事實はどう云ふことから認められるかと云ふと、即ち三十年前に於て日本國が各國との間に存在した所の不平等條約、平等ならざる條約の改正を得たと云ふ時から、亞細亞民族と云ふものが始めて地位を得たのであります(拍手)此の日本の條約改正によりまして、日本が獨立したる民族的國家と成りまし度けれども、其外の亞細亞に於る各民族國家と云ふものは、總て獨立したる國家でなく、總て歐米各國の植民地の境遇に居るのであります、我支那であつても、又印度波斯、亞剌比亞、其の他のあらゆる亞細亞の民族で國家と云ふは總てまだ植民地と云ふ境遇に居るのであります、さう考へると云ふと日本と云ふ獨立したる民族的國家の建設せられた所以は、即ちお國の國民が努力して、此の不平等なる條約の撤廢、廢止其れから得たのでありまして、其の後段々亞細亞の各民族の國家に亙りまして、亞細亞の獨立運動と云ふものが、段々其の機運が熟して來たのであります(拍手)

 三十年前におきまして亞細亞の人間は、歐羅巴の學術の發達を見又歐米各國の殖産興業の發達を見、彼等の文化の隆盛を見、又武力の強盛を見ても、迚も我亞細亞各民族が歐洲人種と同じやうな發達を致すと云ふことが出來ないと云ふ觀念を持つたのです、此れが即ち三十年前に於る亞細亞民族の考へである、處で日本の條約改正によつて亞細亞の民族は始めて歐羅巴の壓迫から遁れる事が出來ると云ふ信念を持つたのであります、けれども尚之を全亞細亞民族に傳へるだけの力を持たず、其れから十年たつて日露戰爭が始まり、日本が歐羅巴に於る尤も強盛なる國と、戰つて勝つたと云ふ事實によつて、亞細亞の民族が歐羅巴の尤も強盛なる國よりも強い又亞細亞民族が歐羅巴よりも發達し得ると云ふ信念を全亞細亞民族に傳へたのであります(拍手)

 自分の見分する所知る所を之から諸君に申上げます日露戰爭當時自分は佛蘭西の巴里に居りました丁度其の時日本の艦隊が日本海に於て露西亞の艦隊を撃破したと云ふ報が巴里に傳はつた、其れから數日後に自分は巴里を去つて蘇士の運河を經て歸國の途に就いたのであります、さうして蘇士の運河を通過する時、亞剌比亞の士人—蘇士の運河の士民が大分船の中に入つて來て、自分の顏が黄色い黄色民族であるのを見て、自分に「あなたは日本の人であるか」とききましたが、さうぢやない自分は支那の人である日本の人でないと云ふことを答へて、さうしてどう云ふ事情であるかと聽いたら、其の人達が『我々は今非常に悦ばしい事を知つた、此の二三箇月の中に、極最近の中に東の方から負傷した露西亞の軍隊が船に乘つて、此の蘇士の運河を通過して歐羅巴に運送されると云ふことを聞いた、是は即ち亞細亞の東方に在る國が歐羅巴の國家と戰つて勝つたと云ふことの證明である、我々は、此の亞細亞の西に於る我々は、亞細亞の東方の國家が歐羅巴の國家に勝つたと云ふ事實を知つて、我々は恰も自分の國が戰爭に勝つたと云ふことと同じやうに悦ばしく思つて居る』と云ふのでありました(拍手)

 彼等は亞細亞の西の民族である、亞細亞の西に於る亞細亞民族は一番歐羅巴に接近して居つて、一番歐羅巴の國家の壓迫を受けつつある、故に彼等は、此の亞細亞の國家が歐羅巴の國家に勝つたと云ふ事實を知りまして、亞細亞の東の民族よりも、國民よりも非常に悦んだのである、其の時から始めて埃及の民族が獨立、埃及國の獨立運動と云ふものが始まつた、其れから亞剌比亞民族も、波斯の民族も、土耳其も、又亞富汗尼斯坦も、印度に於ても、印度の民族に於ても總て其の時から初めて獨立運動と云ふのが盛んに成つたのであります(拍手)

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(2) 王道の文化

 日本が露西亞と戰つて勝つたと云ふ事實は、即ち全亞細亞民族の獨立運動の一番始りである(拍手)其れ以來二十年間におきまして、此の希望、運動が益々盛んに成りまして、今日にあつては埃及の獨立運動も成功し、又土耳其の獨立も完全に出來上り、波斯の獨立も、又阿富汗尼斯坦の獨立も成功し、さうして印度の獨立運動も益々盛んに成る次第であります、是等の獨立運動、獨立思想と云ふのが亞細亞の各民族に起りまして、さうして西方の亞細亞民族は總て此獨立運動の爲めに結合し、非常に大なる團結運動に着手しつつある、けれども唯亞細亞の東におきまして、日本と我國との此の二國の結合、聯繋と云ふのが未だ出來てゐないのであります、斯う云ふ運動、總て此の亞細亞の民族が歐洲民族に對抗して亞細亞民族の復興を關るのであると云ふことは、歐米の民族が非常に明白に觀て居ります

 此の亞細亞民族が眼を醒したと云ふことを、歐米人がどう觀て居るかと云ふと、此の最近米國の學者が一の書物を作りました、其の書物にどう云ふことを論じてあるかと云ふと、即ち此の亞細亞民族の覺醒と云ふことを論じてある、彼等が此の亞細亞民族の覺醒と云ふとをどう觀て居るかと云ふと、彼等は亞細亞民族の覺醒と云ふのは即ち亞細亞民族が世界の文化に對する謀叛であると云ふのです。此の米國の學者のストータと云ふ人が作つた此の書物の名は即ち「文化の謀叛」と云ふ名であります、即ち彼等が亞細亞民族の覺醒したと云ふ事實を觀て、是は世界の文化の一の危險であると論じてあるのであります、此の書物は出版されてから僅の日數を以て數十版を重ね、更に各國語に飜譯さり、歐羅巴の人も、亞米利加の人も此の本に論じてある事を殆どバイブルに書いてある事のやうに非常に尊重して居る次第であります(拍手)此の書物に論ぜられた亞細亞の覺醒と云ふことも矢張り日露戰爭が始まりであると論じてある。さうして此の亞細亞民族の覺醒と云ふのを世界に對する威嚇であり世界の文化に對する不穩であると彼等は觀て居る、即ち彼等は歐米民族だけ世界の文化に浴せらるる此の權利がある、亞細亞民族と云ふものは決して世界の文化に浴せられる權利を持つてゐないと彼等は觀て居り、信じて居るのであります(拍手)

 歐洲民族の考へでは、彼等は世界文化と云ふのは單に彼等が持つて居る文化—彼等の文化と云ふのが即ち一番高尚な文化であると思つて居る、成程此數百年來歐羅巴の文化は非常に發達しました、彼等の文化は我東洋の文化より進んでゐた、東洋の文化は此の四百年に於て確に歐洲文化に及ばないけれども、彼等の文化と云ふのは何であるかと云ふと、即ち唯物質的文化であり、又武備武力によつて現れる所の文化である(拍手)即ち亞細亞の昔の言葉を以て評すると、歐洲の文化と云ふのは霸道を中心とする文化でありまして、我亞細亞文化とゆふのは王道であります、王道を中心とする文化であります、彼等は單に彼等の國を以て我亞細亞を壓迫し、亞細亞民族を酷使する道具である、故に近來歐洲の學者で東洋の文化と云ふのは道徳的で、道徳的文化に至つては、彼等よりも歐洲の文化よりも進んで居ると云ふことを段々認めて來たのであります、一番著しい事實と云ふのは、即ち近來歐洲の文化と云ふものが發達して以來世界的道徳、國家的道徳と云ふものが非常に衰頽して來ました、さうして昔此の亞細亞の文化が非常に發達した時代では國家的道徳が非常に進んでゐたのであります今から二千年前から五百年前までの間と云ふのは即ち我國の一番強盛な時代である、世界に於て二千年前から五百年前までの間の支那と云ふのは世界に於る尤も強盛なる國であり、第一の國である、今日の英國、又米國を以て較べても尚我國の其の時代に於る世界的地位に及ばないのである(拍手)其の時に亞細亞の南、又亞細亞の東、又亞細亞の西、阿富汗尼斯坦邊まであらゆる邦國、又あらゆる大陸的國家、民族が總て我國に來朝した、我國を祖國と思ひ、喜んで我國の屬國と成つてゐまし度けれども、此等の屬國に對して何をしました、又之等の屬國、領土を得ましたのは、果して海軍の力を用ゐて征服したのであるか、或は陸軍の力を用ゐて征服したのであるか、決してさうでない、單に我國の文化に浴せられまして悦んで心服して我國に來朝しただけであります

 此の事實は今日に成りましても尚はつきり證明し得る證據があるのであります、亞細亞の西藏の西に二つの國がある、極く小さい國である、一は即ちブータンであり、即ち一はネパールでありまして、此の二ツの小さい國の一ツのネパールは小さい國ではあるけれども其の民族と云ふのは非常に強い民族である、今日英國の印度に於て用ゐて居る軍隊の一番尤も強いコーカストと云ふ軍隊は即ちネパールの民族を用ゐたのであります、英國はネパールと云ふ國に對して非常に尊敬し、出來るだけネパールに尊敬を拂ひました、さうしてあらゆる工夫をして漸くネパールへ一人の政治を研究する人を寄越すことが出來た、此の英國があらゆる禮□を盡し、さうしてあらゆる方法を以てネパールに厚意を表した所には即ちネパール民族が非常に強い民族であり、英國が此のネパール民族を、コーカスト民族を利用して、其れを用ゐて、此れを軍隊にして、此の印度の鎭壓に使ふと云ふ目的を持つて居るからである、英國が印度を減亡したのには既に非常に長い時間がたつて居るけれども、此のネパールと云ふ國は英國に對して今日尚獨立の態度を以て英國に對し、決して英國を自分の上國、祖國であると思つてゐない、さう云ふことを感じてゐない
 我國は非常に弱くなつてから既に數百年たつて居る、けれども此のネパールと云ふ國は今日に成つても、此の尤も國力の弱い我國に對しては從來の通り我國を上國と思ひ、又我國を彼等の祖國であると觀て居るのであります、さうして民國元年まで此のネパールの國は依然として祖國の禮を以て我國に來朝した事實があつたのであります(拍手)其の事實を見れば是は實に尤も奇怪なる事實であると見るのであります、此の一の事實を觀れば即ち歐洲文化と東洋文化の比較と云ふのが此の事實によつて非常に明白と成り得るのである、我國は衰頽して以來既に五百年たつた此の五百年も衰頽した我國を尚ネパールは祖國と思ひ、上國と認めてゐる一方英國は今日世界中に於ける尤も強盛な國であるけれども、ネパールと云ふ國は如何に英國が強くてもまだ彼は自分の祖國であると云ふことを認めてゐない、此の一ツの事實は即ち東洋の民族は、此の東洋の文化、此の東洋の王道により文化に信頼を持つて居るが、歐洲の覇道を中心とする文化に對しては決して信頼して居らぬのである(拍手)

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(3) 日本と土耳其

 大亞細亞問題と云ふのは何う云ふ問題であるかと云ふと、即ち東洋文化と西洋文化との比較問題である、即ち東洋文化と西洋文化との衝突する問題である、此の東洋の文化は道徳仁義を中心とする文化でありまして、西洋の文化と云ふのは即ち武力、錢砲を中心とする文化である、其れで此の道徳仁義を中心とする文化の感化力と云ふものはどれだけあるかと云ふことは、即ち五百年間衰頽して來た所の我國に對して尚ネパールと云ふ國が今日に成つても我國を祖國であると認めると云ふ一の事實が即ち仁義道徳の感化力のどれだけ深いと云ふとを證明するのであります(拍手)

 さうして西洋文化、武力による文化の力がないと云ふことは即ち今日英國の武力をもつてしても、尚英國の勢力である所の埃及と、又は亞剌比亞、又波斯の到る處に於て此の獨立運動、革命運動と云ふのが起り、若し五年間英國の勢力が衰頽したならば、即ち總ての英國の屬地と云ふものが悉く獨立運動を起して英國に反對するのであります、夫は即ち東洋文化と西洋文化との文化の何方の文化が良いかと云ふことを證明するのである(拍手)

 其れで此の大亞細亞主義と云ふのは何を中心としなくちやならぬかと云ふと、即ち我東洋文明の仁義道徳を基礎としなくてはならぬのである(拍手)勿論今日は我々も西洋文化を吸取しなくてはならぬ、西洋の文化を學ばなくてはならぬ、西洋の武力的文化を採り入れなければならないけれども、我々が西洋文化に學ぶと云ふは決して之を以て人に壓迫を加へるのでなく我々は單に正當防衞のために使ふのである、歐洲の武力による文化を學んで非常に進んだのは即ち日本でありまして、今日日本の海軍力も陸軍力も自國の人により自國の技術により、製造力により海軍をも用ゐ、又陸軍をも完全に運用し得たのである。
 さうして又西の方におきましてモウ一ツ土耳其と云ふ國があります、此れは歐洲戰爭の時には獨逸に加擔して、さうして負けましてから殆ど歐洲各國に分割される境遇に成つたのであるが、彼等國民の努力獲鬪によりまして、之を打破して全く完全なる獨立を今日得たのである、即ち此の亞細亞の東に於て日本あり、又西に於ては土耳其あり、此の二ツの國は即ち亞細亞の一の防備であり、亞細亞の尤も信頼すべき番兵である、又亞細亞の中部に於ては阿富汗尼斯坦と云ふ國があり、又ネパールと云ふ國がある、此の二ツの國は矢張り強い武力を持つて居る國である、此れ等の國民は今日の戰鬪的能力と云ふのは非常に強いのである、將來波斯にしましても、又□羅にしましても、總て皆武力を養成し得る民族である、又我支那では今日段々國民が覺醒されまして、此の四億の民衆を以てして將來歐羅巴の壓迫に對して矢張り非常に大なる叛抗力を持つのである(拍手)=完=
 訂正 前號王道の文化中「文化の謀叛」の著者をストータとしたのはストツダードの誤

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(4) 我等の覺醒

 さうして此の亞細亞におきましては、我國に四億の人間が居り、又印度は三億萬の人民を有し、亞細亞の西に於ても亦一億萬の人民がある、南洋一帶に於て數千萬の人間かある、日本に於ても數千萬の人が居る、さうして此の世界四分の一の人種を抱擁して居る亞細亞は全部仁義道徳を以て聯合提携して、此の歐洲の亞細亞に對する壓迫に對抗するだけの武力、力と云ふのが必ず出來るのである、即ち我々は宜しく我々の東洋の文化、此の仁義道徳を中心とする文化を本とし、我亞細亞民族團結の基礎にし、又此の歐洲に對して我々が學んで來た所の武力による文化を以て歐羅巴の壓迫に對抗するに使ふものである。(拍手)

 歐米の人民は僅四分の一の四億の民衆でありまして、我亞細亞民族は十二億萬あるのである、今日の事情は即ち歐米各國は四億の人間を以て、我十二億萬の人民に對して壓迫をするのである、此れは即ち正義人道に違反する行爲である(拍手)今日歐羅巴におきましても、又亞米利加におきましても、總て彼等は非常に專横極まる力を揮つて居るけれども、彼等の國に於ては、米國におきましても、英國におきましても、あらゆる歐米の國の中には依然として矢張り少數の人が、此の仁義道徳を重んじなてはならぬと云ふことを知つて居る人があるのである、さうして見ると云ふと即ち段々彼等の中にも東洋の文明、即ち仁義道徳を中心とする文明を信ずるやうに段々なり得るのである。

(孫氏は之に於て『露國は歐洲文化の幣害を見て仁義道徳を重んじなければならぬと感じ、歐洲各國の政策と分裂する方針をとり、爲に白晢人種の國より謀叛視せられて居る」と説き尚語をつづけて)

 其れで大亞細亞問題と云ふのはどう云ふ問題であるかと云ふと、即ち此壓迫される多數の亞細亞民族が全力を盡して、此の横暴なる壓迫に—我々を壓迫する諸種の民族に抵抗しなければならぬと云ふ問題である、今日の此の西洋文明の下にある國々と云ふのは、單に少數の民族の力を以て、多數の亞細亞民族を壓迫するのみならず彼等の國家の力を以てして、彼等の自分の國内の人民に對しても依然として壓迫をするのである、故に此の亞細亞の我々の稱する大亞細亞問題と云ふのは即ち文化の問題でありまして、此の仁義道徳を中心とする亞細亞文明の復興を圖りまして、此の文明の力を以て彼等の此の覇道を中心とする文化に抵抗するのである、此の大亞細亞問題と云ふのは我々の此の東洋文化の力を以て西洋の文化に抵抗すると云ふ、西洋文化に感化力を及ぼす問題である、米國の或學者の如き我々の亞細亞民族の覺醒と云ふのは、西洋文化に對する謀叛であると云ふ、我々は確に謀叛である、併し此の謀叛と云ふのは、單に覇道を中心とする文化に對する謀叛でありまして、我々は仁義道徳を中心とする文明に對して、我々の此の覺醒は即ち文化を扶植する、文化を復興する運動である。(拍手喝釆、了=昨日「完」とありしは誤り)

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引用:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 人種問題(2-019)
大阪毎日新聞 1924.12.3-1924.12.6 (大正13)


外務省調査部訳編『孫文全集. 第3巻』第一公論社 昭15年より

亜細亜復興の起点

我が亜細亜は最も古い文化の発祥地である。即ち数千年以前において、巳にわが亜細亜大は非常に高い文化を持ってゐたのであって、欧洲最古の国家、例へば希膿、羅馬等の如き国の文化は、いづれもわが亜細亜より伝へたものである。又亜細亜は昔から哲学の文化、宗教の文化及び工業の文化を持ってゐた。

これらの文化はいづれも古より世界に非常に有名なもので、現在世界の最も新らしい文化は、いづれも我々のこの古い文化より発生したものである。然るに最近数百年来、我亜細亜の民族は漸次萎痺し、国家は次第に衰微して来た。


一方、欧洲の民族は漸次発展し、国家は次第に強大となって来たのである。欧洲の民族が発展し、国家が強大となるに伴れ、彼等の勢力は次第々々に東洋に侵入し、わが亜細亜の民族及び国家を漸次滅亡せしむるにあらずんば、圧制せんとする勢となりて来た。

この勢がズツと続いたため三十年以前まではわが亜細亜には1国として完全なる独立国家はなかったのである。

この勢が続いたならば国際関係は益々面倒となったであらう。然し否塞の運命も極点に達すれば泰平となり、物極まれば必ず通ずとあって、亜細亜の衰微が斯くの如く極点に達した時そこに福の転換機が発生した。その転換機こそは即ち亜細亜復興の鷲をなすものだったのである。

亜細亜は一皮は衰微したが、三十年前に再び復興し来った。然らばこの復興の起点はどこにあったのか。

それは即ち日本が三十年前、万国と締結した一切の不平等条約を撤廃したことである。日本の不平等条約撤廃のその日こそ、わが亜細亜全民族復興の日だったのだ。

日本は不平等条約を撤廃したので遂に亜細亜における最初の独立国となったのである。当時その他の国家即ち中国、印度、波斯(ペルシャ、イラン)、アフガニスタン、アラビア及び土耳古(トルコ)等は、何れもまだ独立の国家でなく、欧洲より勝手に翌を割かれ、欧洲の植民地となってゐたのだ。

三十年前においては、日本も亦欧洲の植民地と目されてゐたのであるが、日本の国民は先見の明があり、民族と国家の栄枯盛衰の関係を知ってゐたので、大に奮発して欧洲人と闘ひ、凡ゆる不平等条約を廃除し、遂に独立国となった。日本が東亜の独立国となってからは、亜細亜全体の国家及び民族は、独立に対し大なる希望を懐いて来た。

即ち日本は不平等条約を撤廃して独立したのであるから、吾々も日本に倣はねばならぬとの考へを持つに至った。之より勇気を起して種々の独立運動を起して、欧洲人の束縛より離脱せんとし、欧洲の植民地たるを欲せず、亜細亜の主人公たらんとする思想が生れた。


三十年以前において、わが亜細亜全体の民族は、欧洲は逸歩した文化を有し、化学も非常に進歩し、工業も発達し、武器は精巧であり、兵力は強大である。然るにわが亜細亜は欧洲より長じたものは1もない。亜細亜は欧洲に抵抗出来ない、永久に欧洲の奴隷となる外ないと考へてゐたのである。

即ち非常に悲観的の思想だった。然るに三十年前日本は不平等条約を廃除して独立国となった。而してそれは日本と近接してゐる民族国家に大なる影響を与へたが、当時はまだ亜細亜全体に充分の反響はなかった。即ち亜細亜民族は全体的にはそれ程大なる感動を受けなかったのである。

然しながら其後十年をへて日露戦争が起り、その結果、日本は露国に捷ち、日本人が露国人に勝った。これは最近数百年間における亜細亜民族の欧洲人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利こそは全亜細亜に影響を及ぼし、亜細亜全民族は非常に感謝し、極めて大なる希望を懐くに至った。


〔日露戦争と亜細亜民族の興起〕 

私はこれに関して親しく見たことをお話する。日露戦争の開始された年、私は欧洲にゐたが、或る日、東郷大将が露国のバルチック艦隊を全滅させたことを聞いた。この報道が欧洲に伝はるや、全欧洲の人民は、恰も父母を喪ったが如くに悲しみ憂ひ、英国は日本の同盟国でありながら、大多数の英国人は眉をひそめ、是がかくの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものでないと思った。正に血は水よりも濃しの観念である。

帰途私はスエズ運河を通ると、沢山の土人(注・現地人)-それはアラビア人だつたがーは、私が黄色人種であるのを見て「お前は日本人か」と問ひかけた。私は「さうでない、私は中国人だが何かあったのか、どうしてそんなに喜んでゐるのか」と問ふと、彼等は「日本は露西亜が新に欧洲より派遣した海軍を全滅させたと聞いたが、それは本当か、自分たちはこの運河の両側にゐて露西亜の負傷兵が船毎に送還されるのを見た。

これは必定、露西亜が大敗した証拠だと思ふ。以前は吾々有色人種は何れも西方民族の圧迫を受け、全く浮ぶ瀬がなかったが、此度日本が露酉亜に勝ったといふことは東方民族が西方民族を打破ったことになる。日本人は戦争に勝った。吾々も同様に勝たなければならぬ。これこそ歓喜せねばならぬことではないか」といふのであった。

これを見ても日露戦争が亜細亜全体に如何に大きな影響を与へたかが判る。日本が露西亜に勝ったことは、東方にゐた亜細亜大はそれほど感じなかったかも知れないが、西方にゐて常に欧洲人から圧迫を受け、終日、苦痛を嘗めてゐる亜細亜大がこの戦勝の報を聞いて喜んだことは異常なものであった。

日本が露西亜に勝って以来、亜細亜全民族は欧洲を打破らうと考へ、盛んに独立運動を起した。即ち、波斯(ペルシャ・現在のイラン)、土耳古(トルコ)、アフガニスタン、アラビア等が相継いで独立運動を起し、やがて印度も運動を起すやうになった。
亜細亜民族は、日本が露国に勝って以来、独立に対する大なる希望を懐くに至ったのである。蘭来二十年に過ぎぬが、填及、土耳古、披斯、アフガニスタン及びアラビアの独立が相次いで実現したばかりでなく、印度の独立運動も亦漸次発展し来った。

これら独立の事実は、亜細亜の民族思想が最近進歩したことを語るものである。この思想の進歩が極点に達した時、亜細亜民族は容易に適合して起つことが出来、この時こそ亜細亜民族の独立運動が成功するのである。亜細亜の西部に居る各民族は近来相互に親密なる交際を続け、又真面目な感情を持つに至ったから、彼等は容易に連合するであらう。亜細亜東部の最大民族は日本と支那とである。中国と日本とはこの運動の原動力をなすものであるが、今まで両国とも相関せず焉の態度を採れるため十分の連絡がとれなかった。


然し将来吾々亜細亜の東部に居る各民族にも必ず相連絡するの気運が動いて来ることを信ずる。欧米は斯る趨勢を十分に知ってゐる。故に米国の或る学者の如きは、曽て一書を著して有色人種の興起を論じ
た。其の内容は日本が露国に勝ったことは、黄色人種が白色人種を打破ったことである。将来この現象が拡大さるれば、有色人種は連合して白色人種に刃向ひ来り、酷い目に逢ふから、白人は予め注意せねばならぬといふ意味である。彼は後に更に1冊の本を著はし、一切の民族解放運動は凡て文化に背反する運動なりといってゐる。

彼の主張によれば欧洲における民族解放運動は固より亜細亜の民族解放運動も亦文化に背反してゐるといはねばならぬ。斯る思想は欧洲における特殊階級の人々が何れも抱いてゐる所のもので、彼等は少数の人を以て欧洲及び自国内の多数の人々を制圧してをり、更にその毒牙を亜細亜にまで拡張し、わが九億の民族を圧迫して彼等少数人の奴隷と為さんとしてゐるものである。而してこの米国の学者が、亜細亜民族の覚醒を以て世界文化に対す
る背反なりといふ所から見れば、欧洲人は自ら文化の正統派を以て任じ、従って欧洲以外に文化が発生し、独立思想の起ることを文化の背反となしてゐるのである。

彼等は欧洲の文化は正義人道に合し、亜細亜の文化は正義人道に合致しないと考へる。最近数百年の文化に就いて見るに、欧洲の物質文明は極度に発達してをり、東洋の文明は何等大なる進歩をなしてゐない。従て、之を単に表面的に比較すれば、欧洲は東洋に勝ってゐる。然し根本的に之を解剖すれば、欧洲における最近百年来の文化は如何なるものであるか、彼等の文化は科学の文化であり、功利主義の文化である。この文化を人類社会の問に用ゐたものが即ち物質文明である。物質文明は飛行機爆弾であり、小銃大砲であって、一種の武力文化である。

欧洲人はこの武力文化を以て人を圧迫する。これを中国の古語では覇道を行ふといふのである。わが東洋においては従来、覇道文化を軽蔑し、この覇道文化に優った文化を有してゐるのである。この文化の本質は仁義道徳である。仁義道徳の文化は人を感化するものであって、人を圧迫するものではない。又人に徳を抱かしめるものであって、人に畏れを鞄かしめるものではない。斯る人に徳を抱かせる文化は、わが中国の古語では之を王道といふ。

亜細亜の文化は王道の文化である。欧洲において物質文化が発達し、覇道が盛んに行ほれてより、世界各国の道徳は日日に退歩し、のみならず、亜細亜においても亦道徳の非常に退歩した国が出来た。近来欧米の学者中、東洋文化に多少とも注意してゐる者は、東洋の物質文明こそ西洋の物質文明に及ばないが、東洋の道徳は西洋の道徳より造かに高いことを漸次諒解するに至った。

〔覇道文化と王道文化の相違〕

 覇道の文化と王道の文化と結局何れが正義人道に有益であるか、私はこゝにー例を挙げて説明する。今より吾年前より二千年前まで二十年余の問、中国は世界における最強の国家であった。

現在における英国及び米国と同様の位置にあった。英国も米国も現在の強盛は列強であるが、中国の昔の強盛は独強であった。然しながら独強時代の中国は、弱小民族及び弱小国家に対し如何なる態度を取ったか、当時の弱小民族及び弱小国家は中国に対し如何なる態度を執ったか。

当時弱小民族及び弱小国家は何れも中国を宗主国となし、中国に朝貢せんとするものは中国の属藩たらんと欲し、中国に朝貢することを以て光栄とし、朝貢し得ざることを恥辱とした。当時中国に朝貢した国は、亜細亜各国のみならず、欧洲西方の各国まで、遠路を厭はず、朝貢した。当時の中国はこれら多数の国家、遠方の民族の朝貢に対し如何なる方法を用ひたか。

陸海軍の覇道を用ゐ彼等の朝貢を強制したであらうか、否、中国は完全に王道を用ゐて彼等を感化した。彼等は中国に対して徳を感じ、甘んじて其の朝貢を希ったのである。彼等が一度中国の王道の感化を受くるや、二代中国に朝貢したのみならず、子々孫々まで中国に朝貢せんとした。これらの事実は、最近に至っても尚証拠がある。

例へば印度の北方に二つの小国がある。三はブータンであり一つはネパールである。この二つの国は小国ではあるが、其民族は非常に強く、又非常に精博で、勇敢に戦ふ。中にもネパール民族は殊に勇敢である。現に英国は印度を治めるに当り、常にネパール民族を兵士に採用して印度を服従せしめてゐた。

又英国は印皮を滅して之を植民地とした程の力がありながら、ネパールに対しては容易にかゝる態度を取り得ず、毎年多額の補助金を送り、たゞ政治監察の官吏を駐在せしめてゐるに過ぎない。英国の如き現在最強の国家が、尚且つネパールに対して、斯の如く愚慰な態度を取ってゐるのである。即ちネパールも亦亜細亜における一の強国といへるであらう。

然るにネパールは今英国に対して如何なる態度を取ってゐるか、英国に朝貢せぬばかりでなく、却って英国から補助を取ってゐるのである。然るにネパールは中国に対しては如何なる態度を取ってゐるか、中国の国際的地位は現在二落千丈して、植民地にも及ばぬ有様であり、しかもネパールから極めて遠く且つ両国間に非常に大なる西蔵を挟んで居りながら、ネパールは今以て中国を宗主国としてゐるのだ。

即ち民国元年には西蔵を経由して朝貢した。その後、四川の辺、疆交通不便となった為め、遂に朝貢を見なくなったが、斯く中国及び英国に対するネパールの態度は異ってゐる。諸君はこれを不田議と思はぬか。
単にネパールの態度を以てしても、中国の東方文明と英国の西方文明とを比較することが出来るであらう。中国は数百年来衰微してゐるが、文化は尚存在してゐる。それ故にこそネパールは今以て中国を宗主国として崇拝してゐる。然るに英国は今非常に強大で、且立派な物質文明を以てゐるに拘らず、ネパールは「同これに対して頓着しない。中国の文化は真の文化であり、英国の物質文明は文化でなくして覇道であると見てゐることが解るのである。

今私が大亜細亜主義を講演するに当って述べたことは、これを簡単にいへば文化の問題である。東洋文化と西洋文化との比較と衝突の問題である。東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道である。王道は仁義道徳を主張し、覇道は功利強権を主張する。

仁義道徳は正義公道によって人を感化するものであり、功利強権は洋砲大砲を以て人を圧迫するものである。感化を受けた国は仮令宗主国が衰微しても数百年の後まで其徳を忘るゝものでないことは、ネパールが今日尚中国の感化を庶幾ひ、中国を宗主国として崇拝せんとしてゐる事実に依って明かである。
之に反して、圧迫を受くれば、仮令圧迫した国が現在非常に強盛であつても、常にその国より離脱せんとするものであることは、英国に対する竣及及び印度の関係が之票してゐる。彼等の独立運動は英国から大なる圧制を受けてをるから急には成功すまい。

然しながら、もしも英国が一度裳徹したら、印度は五年ならずして英国の勢力を駆逐し、独立の地位を恢復するであらう。吾々は今斯る世界に立ってゐる。故にわが大亜細亜主義を実現するには、わが固有の文化を基礎とせねばならない。

固有の文化とは仁義道徳である。仁義道徳こそは大亜細亜主義の基礎である。斯の如き基礎を持つ書がなは欧洲の科学を学ばんとするは、以て工業を発達せしめ、武器を改良せんがために外ならない。欧洲に学ぶは決して他国を滅したり、他民族を圧迫することを学ぶのではないのである。

亜細亜の国家で欧洲の武力文化を学んで完全に
これをコナしてゐるのは日本のみである。

日本は軍船の建造操縦、必ずしも欧洲人に頼るを要せず、陸軍の編成運用も亦自主的に行ふことが出来る。日本は極東における完全なる独立国である。わが亜細亜には、欧洲大戦当時、同盟国の一方に加入し、敗戦するや忽ち分割されながら、現在では一個の独立国となった国がある。それは土耳古(トルコ)である。現在では披斯、アフガニスタン、アラビア等も欧洲に学んで武力を備へて居り、欧洲人も敢てこれら民族を軽蔑しない。中国は只今非常に多くの軍隊を有してゐるが、一度統一さるれば非常な勢力となるであらう。亜霊民族の地位を恢復するには、仁義道徳を基礎に各地の民族を適合し、亜細亜全体の民族が非常なる勢力を有するやうにせねばならぬ。

〔功利強権文化の粉砕〕

 只欧洲人に単に仁義を以て感化を計ったり、亜細亜在住の欧洲人に平和裡に権利の返還を求めるのは、恰も虎に食物を与へて其皮を取らうとするもので、到底出来ない相談である。
故に吾々の権利を回収せんとするには之を武力に訴へなければならない。日本は早くより完全な武力を有してをり、土耳古、アフガニスタン、アラビア各民族も昔から戦争に強い民族である。

中国四億の民族は平和を愛する民族ではあるが、生死の境に立てば奮闘して大なる武力を発揮する。若し、全亜細亜民族が連合して固有の武力を以て欧洲人と戦ったならば、必ず勝ち、敗けることはない。欧洲と亜細亜との人口を比較すれば、中国は四億、印度は三億5千万、タイ、安南(ベトナム)等は合計数千万、日本は一国で数千万、その他弱小民族を合すれば・亜細亜の人口は全世界の二分の一に当る。

最近少数ではあるが、英国米国等に仁義道徳を説く者が出て来た。これは西洋の功利強権の文化が東洋の仁義道徳の文化に服従せんとする証拠である。(中略)

結局問題は、わが亜細亜民族は如何にせば欧洲の強盛民族に対抗し得るかである。簡単に言へば、被圧迫民族のために其の不平等を除かうといふのである。被圧迫民族は亜細亜ばかりでなく、欧洲にも居る。

覇道を行ふ国は、他洲と外国の民族を圧迫するばかりでなく、白洲及び自国内の民族をも同様に圧迫してゐる。大亜細亜主義が王道を基礎とせねばならぬといふのは、これらの不平等を撤廃せんが為である。米国の学者は、民族の解放に関する一切の運動を文化に反逆するといふが、吾々の主張する不平等排除の文化は、覇道に背反する文化であり、民衆の平等と解放とを求むる文化である。

日本民族は既に一面、欧米の文化の覇道を取入れると共に、他面、亜細亜の王道文化の本質を有している。

今後日本が世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城となるかは、日本国民の慎重に考慮すべきことである。


(参考―外務省調査部訳編『孫文全集. 第6巻』第一公論社 昭15年 「孫文選集」1966年)

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