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スパイに飜弄され祖國を賣つた女性群 (一) —— 臺灣日日新報(新聞) 1934.12.22-1934.12.24(昭和9)

インテリ婦人賣笑婦らが登場
桃色遊戲の破綻から曝露


 國際政局の微妙な動きにつれ、非常時日本をうかかう恐るべき國際スパイの暗躍は極めて深刻と成り其の策謀と祕計の度は愈々巧妙と成つて來た。

 此のとき、端しなくも駐日某國大使館附武官鋪佐官海軍中尉タシエー・ミュー・クロー(二七)をめぐる、日本女性の桃色遊戲の破綻から曝露された美貌の男スパイ事件は、其の遣り口の惡辣さに對し、國民は極度の憎惡と反感を持たない譯に行かなかつたが、美貌の男スパイに飜弄され、遂に祖國を賣るに至つた幾人かの女性の中には、大學教授夫人、官吏夫人、會社員の妻など、いづれも相當の教養と思慮があり、社會的地位のある名流婦人をはじめ、女子大學、女子專門學校を卒業したインテリの獨身婦人もあれば、横濱本牧のチャブ屋で働いて居る賣笑婦までまじつて居て、同中尉の美貌と外交武官の名に魅せられた淺はかな女性群の、ただれた愛欲圖繪には、日本人は一樣にただ呆然たらざるを得なかつたであらう
 由來、我國の女性の中には外來人と云へば味噌も糞も一緒に考へ、尊敬と信頼とを捧げる淺はかな者が今日までに隨分あつた。一部女性の斯くした淺はかさにつけ込んで、不良外人が此れまでに日本女性に對し加へた非道な行爲は決して二、三にはとどまらない。今度の事件は盲目的に外國かぶれのした一部女性に對する手きびしい警告とも云ふことが出來よう

 滿洲事變から上海事變に、我國の國際的立場が機微な動きをなすに從ひ、日滿兩國の軍事上の施設や軍需工業能力の實態に重大な關心を持つた國際スパイは續々と我國に潛入し、暗躍を開始したので、當局では外事專任の憲兵を増員し水も洩らさない嚴重な警戒網を張つて居たが、今囘の美貌の男スパイ事件が發覺されるに至つたのは此の愛欲地獄に踊つた女性間の葛藤からであつた事は、例の歐洲大戰中に、列國のスパイ網を縱横に荒らし廻つた女スパイのマタ・ハリを逆に行つた獵奇的な語草とも云へるであらう
 クロー中尉は昭和六年六月、某國の東洋艦隊乘組員と成つて横濱に入港した事があるが、其の歸途、上海で上陸して同地の諜報機關員と成つた。上海事變の際には、同地に在つた輝子こと門無冬子と云ふ日本婦人を巧にスパイに利用して我が陸戰隊の行動をつぶさに探索した。此の功によつて昭和八年五月、駐日大使館附鋪佐官に拔擢されて東京に來り、表面は語學研究と稱し、來朝以來、住居を轉々と移して常に日本婦人と日本語教授を囮りに誘き寄せ、武官鋪佐官としての身分保障のあるのを利用し、近づいた女性は片つ端から毒牙にかけ、此れを手先きに我が軍機や軍情、國情等を調査して居た。大體昭和九年五月下旬に歸國の豫定と成つてゐたが、惡辣乍ら俊敏な其の諜報成績を上司に認められ、更に一箇年の駐在延期と成つたと云はれて居る

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 クロー中尉が最近まで暗躍の根據としてゐたのは東京澁谷區代々木西箇原九二〇西箇原アパートであるが、同中尉は日本に渡來してから今日まで、殆んど大使館には出勤してゐないそして、閑さへあれば日本語の家庭教師と云ふ名目で、日本婦人を必ず同伴し、參謀本部發行の地圖を携へ、東京灣をはじめ、豐豫、呉、凾館等の各要塞地帶を旅行し自動車や船舶を用ゐるだけでなく觀光旅行だと云ふ振れ込みで、數日がかりで現場を徒歩で詳細に踏査する外、某省官吏夫人谷川はる子(假名)を手先に使つて水交社に出入させ「戰爭と需要」「南洋群島に就いて」などの海軍省發行のパンフレットをはじめ、軍事關係部外祕密と成つてゐる書籍類を入手して詳細に飜譯させたり、日露戰爭當時に於ける我が海軍の作戰祕史を蒐集したり、或は商人を裝ひ民間の軍需工業會社に照會して軍需品の製作状況ぶりを調査するなどあらゆる手段を用ゐて軍機軍情の蒐集に狂奔する一方、日本婦人を次から次に取り替え愛慾の滿足にふけつて居たと云ふ
 クロー中尉のなした奇怪な行動は、昭和八年十二月初旬に長谷部みのる夫人を伴つて三浦三嵜にドライブして、油壺をはじめ東京灣要塞を極めて詳細に踏査し、見取圖を作製して引き揚げたのが振り出しと成つて居り、本年四月上旬には東京居住の某國人と共に塚本夏子を伴つて房州の保田海岸に到り、同所を根據として館山の海軍航空隊附近に至る千葉寄りの東京灣要塞を踏査した外五月には近畿、支那、四國、九州地方を觀光客を裝ひ一箇月に亙つて踏査し一たん東京に歸つたが、七月中旬から下旬にかけ今度は方向をかへて北陸地方に赴き我が對滿貿易の輸出港たる敦賀、伏木、新潟等の港灣設備から水深等まで調べあげ、八月中旬から下旬にかけて更に東北、北海道、佐渡地方の軍要地域、都市、要塞地帶を探つた、此れ等の旅行には女子大學出の富樫美彌子を常に同伴してゐた

 クロー中尉が各所から入手した書籍はいづれも關係のある日本婦人に飜譯させたものを刻々に某國大使館附武官房某少佐の手許に提出して居り、前記谷川はる子の手を通じて得た海軍省發行のパンフレットは、本年七月に北陸地方を視察しての歸り途に、長野縣澁温泉に滯留してゐるとき富樫美彌子が飜譯して居る、以上のやうにクロー中尉が日本婦人を使つて調査したり盜んだものは二十數件と云ふ多きに達し、其れ等の中には軍機上から外國に手渡されてはならない地圖をはじめ列強に誇る我が海軍諸艦艇の性能とか裝備及び機密圖等が多數に含まれて居ると云はれて居る、クロー中尉のため甘言にたぶらかされた揚句、貞操を許してスパイの手先と成つた日本女性で東京憲兵隊の取調べを受けた者だけでも、本稿執筆當時に既に十五名に達して居るが、或いは取調べの進行によつては未だ數人の賣國女性を出すかも知れない
 東京憲兵隊當局が此の事件の端緒を握るに至つたのはクロー中尉に身も心も打ち込み甘んじて其の手先と成つて居た仙臺生れの八鋤秋子が、中尉の寵を自分獨りでほしい儘にしてゐると考へてゐた所、中尉は仕事と愛慾を兩天秤に、次から次へ美しい女性に移り歩き出したため、嫉妬を感じ裏切られた愛慾は深い怨恨と成り、遂にアパートで見苦しいいさかひを交すやうに成つた機敏な中尉は秋子の轉心を察し、早くも先手を打つて事情が外部へ洩れるのを恐れ、可成り多額の手當を支給して昭和九年九月關係を斷つてしまつた、中尉に對する復讎を企て機會を狙つてゐた秋子は自分の犯して來た行爲を省みると空恐ろしくならずには居られなかつたのである、スパイの手先と成り、身までまかせて國を賣つた女ではあるが、秋子の心にも祖國愛は猛然と蘇えつて來た、彼女が赤坂憲兵分隊に訴へ出たのは昭和九年の十月中旬のことであつた、同分隊では直ちに實情調査をなすと共に東京憲兵隊特高課に事件を報告し、同課及び澁谷憲兵隊の応援を得て約二箇月に亙り外部的證據の蒐集につとめた結果、事件の全貌は發覺されるに至つたのである

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 どんな女性がスパイの手先きに成つたか、東京憲兵隊の取調べを受けた十五名の中から其の主なる氏名と取調べを受けた事件の内容を次に示さう

谷川はる子

 既に關西に轉居して居るが某省の高級官吏の夫人である、大正六年三月東京の某女學校專攻科を卒業してから佛蘭西語の通譯や飜譯に從事して居たが大正十五年に某省官吏の谷川と結婚した、昭和八年六月某所の夜會でクロー中尉と知り合ひに成つたが、八月に夫君の眼を盜んで大森の某ホテルで深い關係が生じ、其れ以來水交社書籍部をはじめ、某豫備海軍少佐が經營して居る芝白金町今里町の書店から軍事書類を贖入し、自分の手で飜譯したり我國の軍事事情の探知や蒐集に便宜を與へ中尉の甘心を買ふことに努めて居た、獨身時代から外人異性とは種々問題を起してゐた女性ださうであるが、事件發覺當時は三十五歳、相當に身分を考へても好い年頃であつた

西嵜淺子

 父親は某製藥會社社長、某ホテル重役、夫人は某大學の教授である、現に四谷區花園町に居住して居り、芝の聖心女學院を卒業の後、歐米諸國を旅行して歸京後西嵜教授と結婚した、二人の中に子供がない所から、夫婦はよく前記のホテルに出入してゐた、淺子が中尉に紹介されたのは同ホテルの社交場で昭和八年十一月のことであつたが、翌月には早くも麻布區市兵衞町の山形ホテルで中尉に二十九歳の分別盛りの女性であり乍ら身をまかせたと云ふ徹底した不倫ぶりである
 其の後、大森の砂風呂、丸子玉川、澁谷三業地、中尉のアパート等で人目を避けて不義を重ねてゐた、中尉は淺子がタイプライターが巧妙なのを利用して「旅順閉塞船」の飜譯をタイプせしめた許りでなく、淺子の社會的地位を利用して情報の蒐集につとめて居たが、此の方は大した事は得られなかつた模樣であるが、浮わ氣な中尉に似合はず、淺子との關係はずつと事件發覺直前まで繼續されて居たと云ふ話である

長谷川みのる

 赤坂區青山高樹町の某會社員の妻で二十八歳名古屋で高等女學校と專門學校を卒業し昭和七年上京して結婚した其の後、東京に居住する外國人の日本語教師に雇はれて居たが、非常に虚榮心の強い女性であつたためか、よく問題を惹起して居たらしい。中尉に雇はれたのは昭和八年七月であつたが、其の日からダンスホールや映畫館の遊び相手と成り、次第に深みに入り遂に夫の眼をしのび大森の待合や山形ホテル等で泊りを重ねて居た。三浦半島の東京灣要塞地帶へ中尉を案内したのは此の女性である

富樫美彌子

 富山縣中新川郡音杉村北島の生れである。昭和二年三月に神田の佛英和高女を卒業し同六年三月目白女子大學の家政科を出た。昭和八年十月、ジャパン・タイムス紙上に「語學の交換研究を希望す」との廣告をした所間もなく申込んで來たのが中尉であつた。最初は語學の交換だけで月給四十圓の約束をしたのであるがいつの間にか貞操まで提供するやうに成り、赤坂區溜池の不二アパートを振り出しに轉々と數箇所を夫婦氣どりで同棲、檢舉された時にも、中尉と同じアパートの一室を借り受け、清川美子と稱しアパートの外からかかつて來る電話の取り次から身の廻りまで、まるで妾同樣に成つて世話を燒いて居た外、中尉が支那、四國、九州、北海道等の各地の軍事施設や要塞の視察に赴いたとき、此れに同行して官憲の眼をカムフラージしたり地圖と現地を對照して説明するなどの便宜を與へた。美彌子の長姉は某高等師範の教授、次姉は目下賣出しの某著述家夫人である。二十五歳と云ふ若い身空であり乍ら、極度に日本官憲に對し反感を持つて居る女である。

八鋤秋子

 前にも書いた通り此の女性が此の事件發覺の端緒と成つた訴へをなしたのである。麻布區六本木の某アパートに止宿して居るが、仙臺の高等女學校を卒業後、横濱の某英人方の女中を長い間して居た。昭和八年七月から本年四月まで中尉の語學教授兼女中として雇はれてゐるうちに深い仲と成り、中尉は秋子をも手先きに利用せんとしたが、澤山の女性を毒牙にかけてゐる中尉に反感を抱き遂に解雇されるに至つたのである

葦川きせ子

 横濱市中區一の二八に居住して居て、現在は米國貨物船ゴールド・スター號乘組員の妾をして居るが、昭和四年十二月から同九年春まで、本牧町第一キヨホテルでチャブ屋女として働いて居た時、昭和六年五月横濱に入港した中尉と知り合ひ其の後、中尉が上海に駐在してゐた頃にも深い交渉があつた。中尉は女の實父が千葉縣に居るのを知つて渡日後、わざわざ同女を伴つて千葉縣下の實家を訪問し、種々な贈りものをして歡心を買ひ、房州方面の調査の手先に使はんとした模樣である

門無冬子

 神戸のパルモア英語學校を卒業し直ちに渡支して以來、四十歳の今日まで漢口、南京、香港、上海等の國際都市を踊るX27號的存在であつた。中尉が上海駐在中、上海事變の際には其の手先と成つて我が遣外第三艦隊の行動を始め我が陸戰隊の動靜を細かに調査、中尉が駐日武官附と成る動機を與へた女で、現在でも同中尉は冬子を通じて上海方面に於ける我が軍情をスパイして居る疑ひがあると云はれて居る。

次初子

 大正六年三月甲府の高等女學校を卒業し、東京音樂學校に入學したが中途で退學した。大正十二年にクロー中尉と同國の駐在武官A大尉、B大尉、C少佐等の語學教師と成つたが、此の間に兩大尉とは深い關係と成り共同妾のやうな生活をして居たものでA大尉が歸國して中尉が來朝するとき、此の女を中尉に所謂「申送り」したものだと云ふ

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 社會的に相當な地位にある者とか有夫の婦人を巧にまるめ込んで手先に使つた中尉も怪しからんが、あやつられて居た婦人も全く、日本女性の面よごしであらう。外人とさへ見れば、見さかいなく頭を下げて行きたがる一部の我が女性の迷夢を此れが動機と成つて醒めて貰はなければなるまい。中尉と深い關係を結んだ女性たちが異口同音に「最初の會見からどうしても離れる事が出來ぬ不思議な魅力に引きつけられた」と告白して居る事などは、愈々以て醜態である(完)

—— 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(35-158)

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10186911&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

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