雷 第五十七話

浜御殿の表門前で、十兵衛は、地下牢から出たような顔をして太陽を見上げ、そのまま背伸びをした。行く当てもない。
(勝さんの屋敷に行ってみるか)
「ただいま戻りました」
 といって、土間に立っていると、勝の一子である小六と、勝の妻である民が出迎えてくれた。
「お帰りなさいまし。お役目ご苦労様に存じまする」
 民の挙措はいつも凛然としている。江戸っ子にそのまま羽織袴をつけたような勝とは対照的である。
「どうでござりましたか、父上は」
 小六は今にも飛びつかんばかりに十兵衛の顎の下を狙っている。
「まあ、とにかく少し休ませてもらえませんか。お役目がお役目であっただけに、少し疲れました」
「まあまあ、これは気が付きませんで、では茶の支度を致しましょう」
 と、十兵衛が間借りしている部屋に、茶を持ってきてくれた。
「それで、勝はどうしているのでしょうか」
「勝さんは、宮島に向かいました。恐らく、長州との戦の関係でしょうが、実はそこで別れて先に江戸に戻ったものですから、どうにも」
「そうでしたか。……将軍様は、勝の事を大のお気に入りだったそうで、何かにつけては頼りにされていたようです。さぞかし、うちの勝も力を落としている事でしょう。楠様、これからどうなるのでしょうか」
 民の心配事は江戸の住民に共通した不安である。二百七十年近くに及ぶ安定した統治というのは、その統治下にいる民衆には
 ―― 天地と共にある。
 という、ある意味では常なるものはない、という自然の法則を軽んじてしまいがちになってしまう。どこか
「どうこうあっても、御公儀は続くものだ」
 と勝手に考えてしまうもので、徳川幕府という絶対政権が、誰の目に見ても明らかなほど揺れている現状を見れば、過大なほどに不安が高まるものである。しかし、十兵衛はそこまで不安はない。大老暗殺、という史上最も凄惨で華麗なテロを目の当たりにしているだけに、すでに耐性は十分についていた。故に、不安がる民をみても、
「何とかなるでしょう」
 と、傍目で見れば無責任ともとられかねない言葉を、尋常に吐き出すことができるのである。
 勝が怒りを足の裏に付けて地面にとばっちりを食らわせ乍ら氷川の屋敷に戻ってきたのは、十月十六日であった。
「どうもこうもねえや。啖呵ぁ切って辞めてきたぜ」
 というのである。何度目かの御役御免である。
「何があったのですか」
 十兵衛は尋ねると、勝は力任せに丸めた紙屑の様に眉をひそめて、乱暴に煙草盆を扱うとこれまた乱暴に煙草をつめ、火をつけた。
「あったもなにも、あの日ほど斬って捨ててやろうかと思ったことはないね」
 といって、話しはじめたのである。
 時間は少し遡る。
 宮島の大願寺における停戦交渉は、一種の外交神経戦の様相で、長州の広沢、井上の両名が出席し、幕府側は勝一人であった。
 大願寺の大広間で、三人は停戦の合意を結んだ。と、こう書くといかにもあっけない表現であるが、実際そうだったらしい。というのも、そもそも長州征討について、勝は当初より反対の意志を持っており、さらに情勢を考えた場合、一刻も早い停戦を結ぶことが何よりも肝心である事を勝は幕府軍の中で唯一理解していた。一方で長州は長州でこの戦には意味がない事をすでに分かっていて、反幕勢力である長州や薩摩、亀山社中の母体といえる土佐などはこの戦の先にある、「倒幕」という次の一手を考えているだけに、この停戦は早ければ早い方がいいのである。それだけ軍勢を温存できる事も、その理由の一つである。
 後は、停戦の体裁である。あくまで幕府側からの要求を受け入れる、という形をとるのか、あるいは再び恭順という形をとるのか。はたまた、降伏という形にするのか、である。
「降伏も恭順もない」
 というのが、この時の広沢らの態度である。勝も、その事は理解している。
「だが、一応面体ってやつは御公儀にもあるさ。どうだろうかね」
「どう、とは」
「つまり、痛み分けっていう寸法でどうだ」
 これには井上が、肩からつっかかるようにして卓を叩くと、
「それでは、我らの立場が無いではないか。いうなれば、我らは勝った。幕府は負けた。これは厳然たる事実だ」
(御尤も)
「それに、事の始まりは、帝が望まれた攘夷を決行しなかった幕府が悪い。いくら相手が強く我らが弱くとも、帝の御意志を蔑ろにしても良い道理はない」
 勝は黙って腕を組んで聞いている。
「言うなれば、我らは幕府の尻拭いをやったのだ。その為にどれほど我らが損失を出したのか。それを御考慮されておらぬ」
「……わかった。お前さんたちの立場はよくわかった。だったら、これはどうだい」
 といって、勝は二人に鼻息が肌でわかるほどにまで顔を近づけると、
「大政奉還」
 といった。二人は呆気にとられたが、すぐに卓が揺れるほどに体を震わせた。
「つまり、慶喜様が」
 二人はほぼ同時にはなった言葉に、勝は神妙にうなずいた。
「これが条件だ。これで、呑んでくれろよ」
「それでは、勝殿の御立場が危うくなりまするぞ」
「いいんだよ。どうせ、幕府は早晩崩れるさ。家茂公がご健勝であらせられれば、まだ一縷の望みってやつはあったが、もはやそれも望めまい。亀之助様を、家茂公は指名されたが、ケイキ公が次の将軍だ。俺ははっきり言って好かねえよ、あの御仁は。だが、少々頭は切れる。それに、他になる人物もいなけりゃ、御公儀は完全な人材不足さ」
「いや、勝殿をはじめ、木村摂津守殿、小栗上野介殿や川路殿と、まだまだおられるではありませんか」
「持ち上げるなよ、背中が痒くなるさ。そう言ってもらえるのは有難いが、お前さん方との違いは、戦える指揮官が居ないという事だ。そうなりゃ、俺たちじゃ手におえないさ。どのみち、大政は奉還せざるを得ないだろうよ」
 勝は、友人からの少額の借金の返済の様な口ぶりであった。しかし、大政を奉還する、というこの意味の重要性は、いうなれば日本の統治機構を一切崩壊させる、という事であり、それはこの広沢や井上、あるいは西郷、桂に至るまでその潜在意識にあった、「天地と共にある」という前提が全く崩れ去ってしまう事であり、それは白光の中をそぞろ歩くようなものであった。その証拠に、二人の反応は鈍い癖に汗が止まらないのである。
「ならば、大政を奉還した後はどうされるおつもりですか」
「そんなものは、そっちで決めてくれればいいさ。何も形にこだわることはないんだぜ。これが条件だ」
「じょ、条件とは」
「きまってらあな。この戦の停戦だよ」
 勝は鼻の穴を膨らませながら言った。
「それでよろしゅうござる」
 広沢がそう答えるのに、少し時間がかかった。

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